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第10話 スタージョンムーン

 私たちは、母の四十九日の前に墓参りをすることにした。


 石屋に連絡すると、墓に名前を刻むには二週間ほど要するという。

 四十九日は土曜日で、すでに他の予約が入っていた。

 調整の末、前日の午後に来てもらえることになった。


「本当に知らないことばっかり。こんなに時間がかかるなんて」


 私は溜息をつく。


「こんなんで、これからやっていけるのかな」


「まあまあ」


 智が静かに肩に手を置く。


「住職さんが石材店に話を通してくれて良かったね」


 少し間を置いて、彼は続ける。


「それにしても、SNSでやり取りして、支払いは銀行振込。時代は変わったなあ」


 彫刻する文字の書体や配置の相談も、費用の見積もりも、すべて画面を通して進んでいく。

 この辺りの墓石はどれも似た寸法らしく、石屋の人も「最近近所で作業をしましたので、大体分かります」と言ってくれた。

 とはいえ、正確な寸法を確認するため、墓地へ足を運ぶことになった。

 智も「お参りしたい」と言って、同行してくれた。


「お墓のそばに建ってるあの石碑、墓誌ぼしって言うんだね」


「そうなの。最初は何のことか分からなかった」


 ひとつひとつ、欠けたものを埋めるように、母を送る準備を重ねていく。


 その日の昼前、省吾さんが訪ねてきた。


 手にした包みを開くと、朝露のような清らかな香りが立ち上った。


「庭で育てているものを、朝のうちに切ってきた」


 その手には、三種の花。

 深い青紫の竜胆りんどう。素朴な白い小菊。

 そして、夕陽の記憶を宿すような、やわらかな黄色の鶏頭けいとう


「今日は客が多くて、俺しか来れなかった。墓に行くって聞いたから」


 言葉は簡潔だが、その仕草には静かな気遣いがあった。

 以前より口数も増え、表情にもやわらかさが宿るようになった。


「それと……これも、持ってってくれって」


 差し出されたのは、白と黒の格子模様のクッキーが入った容器だった。


「リクトが、リサさんと一緒に作った。お姉ちゃんのお墓に持って行ってほしいって言って」


「それじゃ、私のお墓みたいじゃないですか」


 思わず微笑んでしまった。

 リクトくんが得意げに手渡す姿が目に浮かぶ。


 この島では、誰もが自然と何かを差し出し、誰かのもとへ届けていく。

 私は、受け取ってばかりだ。

 いずれ、きちんと返さなければ。



 山道を辿って墓地に着く。


「ここが」


 智は静かに手を合わせた。


 枯れた花を取り除き、墓誌ぼしの埃を拭いながら、私は巻き尺を取り出した。

 高さ、幅、奥行きを測ってメモを取っていると、智が言った。


「巻き尺を当てたまま写真を撮ると、石屋さんにも伝わりやすいよ」


「なるほど」


 私はスマートフォンで数枚撮影し、そのまま送信した。

 すぐに「分かりました」という返信があり、改めて見積もりを送ってくださるとのことだった。


「私たちのやり取りより速くない?」


 そう言うと、智は静かに笑った。


 水で墓石を清め、省吾さんが持参してくれた花を供える。

 線香に火を点すと、白檀びゃくだんの香りが風に乗って流れた。

 クッキーもそっと供えると、子どもが飾った供え物のように、どこか温かみがあった。


 墓誌には、故人たちの名と命日が刻まれていた。

 父以外は、私の知らない人々ばかりだった。


 刻まれた文字を眺めていた智が、小さな声で尋ねた。


「一番新しい名前……女性っぽいけど、もしかしてこの人が歌帆の…」


「女の人じゃないよ。あれは父」


「えっ……男の人だったんだ」


 驚く智に、私は静かに頷いた。


「わかる。名前だけ見たら、私も最初そう思った」


 ふと、母が語ってくれたことを思い出した。


「お父さんの名前を初めて見たとき、女性だと思ったの」


 新聞で赴任予定の教員名簿を見た母は、若い女性だと思い挨拶に向かった。


「島には若い女性が少なかったから、友人になれればと思って。でも現れたのは男性で、本当に驚いたのよ」


 それが縁となり、結婚。

 その後、私がまだ幼い頃、父は生徒を救って命を落とした。

 母は、それ以上を語ろうとはしなかった。


「なあ、歌帆」


 智が墓誌を見つめながら言う。


「あの名前がお父さんなら……歌帆の"きょうだい"らしき名前がないね」


 私は胸の奥を掴まれるような感覚を覚えた。


 父の名の隣には、「和成」という名があった。

 没年は平成八年。父より早くに逝っている。たぶん、あの人は私の祖父。


「……うん、私も思った。もし……亡くなった"きょうだい"がいたとしたら、名前がないのは、変だなって」


 ——もしかして、生きているのだろうか。


 しかし私は、寺で澄江さんと交わした言葉を思い出した。


「歌乃ちゃんには、お兄さんがおったんよ」


「全然、知りませんでした。母はなぜ黙っていたんですか」


「そりゃ、しょうがないよ。生まれてすぐに、名前もつける前に亡くなったそうじゃから」


 昔はよくあった、と澄江さんは続けた。


「そういうこともあって、日高の家じゃね、小さい子の名前は墓に刻まんらしいんよ。わしも嫁にきたけぇ、はっきり知らんのじゃけどね」


 記録にも、石にも残らず、

 ただ、空気の中に溶けていった命。

 名もなき記憶。

 言葉にされることのなかった存在。


 ——やっぱり亡くなって……。



「帰ろうか」


 私の表情を見て、智がそっと声をかけた。

 ふたりは言葉もなく歩き出す。山道を下る足音に、草を渡る風と虫の声が静かに重なる。

 やがて藍の空の端に、かすかな光がにじみ始めた。



 満月の淡い赤みを帯びたその光が、庭の草木をかすかに照らしている。


「今日は月が大きいな」


 智が空を見上げながら言った。


 私はなんとなくスマートフォンで「満月 八月」と検索する。


「……スタージョンムーン。チョウザメ月だって」


 月を仰ぎながら、私は呟いた。


「チョウザメ…?キャビアの?」


「うん。アメリカのネイティブの言い伝えで、この時期にチョウザメがよく獲れたんだって。豊かな恵みの象徴らしいよ」


「へぇ……。豊漁でもお願いしてたのかな」


「自分自身や周囲の人々に対して感謝の気持ちを持って、次の段階への準備を始める日なんだって」


 声に出すと、それがまるで今日の私たちのことのように思えた。

 智もまた、静かに月を見上げていた。

※この作品は現代日本の物語です。

※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。

更新は毎晩21:00を予定しています。

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