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第1話 潮の音

 母が倒れたのは、六月の終わりのことだった。


 携帯にかかってきた見知らぬ番号を怪訝に思いながら応答した私に、相手は穏やかに言った。


「娘さんですか」


 詐欺かと疑った一瞬の後、母の意識がないと告げられた時、私は手にしていた会社の資料を落とした。その音に驚いたように、棚の上のスイートピーがふるりと揺れた。


 あまりに突然の出来事だった。


 母は職場で崩れるように倒れ、二度と目を覚まさなかった。誰よりも規則正しく生きていたのに――。


 病院から届けられた手帳の片隅に、震えるような文字が残されていた。


 ――歌帆かほに、直接伝えないといけないことがある。


 その一行が、胸の奥に、小さな棘のように刺さった。


「近いうちに帰って来られる?」


 母は、あの時確かにそう言った。


 けれど私は――


「ごめん、また今度にして。さとしと会うのが久しぶりだから」


 そう言って、電話を切った。


 一ヶ月ぶりに恋人に会えることに心を弾ませていた私は、母の声を遮った。


 ――私は、母の最期の願いに耳を傾けなかった娘だ。


 葬儀はひっそりと営まれた。知らせる相手も少なく、すべてを私ひとりで担った。

 遺影を選び、棺を閉じ、火葬場で骨を拾った。祭壇に白い菊を手向けた時、心の底が空洞になった。


 智には、まだ伝えていない。


 何度も言おうとしたのに、母の声を遮ったあの瞬間が喉を塞ぐ。あの時私が優先したのは、母ではなく智だった。だから今更知らせることが怖くて、言葉は出口を見失っていった。


 今私の手元にあるのは、小さな白い骨壺。


 それを父の眠る場所へと連れていかなければならない。


 すぐに納骨の日取りを決めることはできなかった。役所の手続きに追われているうちに、季節は七月へと移っていた。


 墓は、遠く離れた島にある。私が幼い頃、母と共に暮らしていた島だ。


 母は小さな仏壇に手を合わせながら、いつもこう言っていた。


「こうして話しかけているから、それで十分よ」


 私がお墓参りのことを尋ねた時のことだった。


「親戚に頼んであるから大丈夫」


 だから私にとって、その島も、墓も、どこか夢の輪郭のように曖昧だった。


 母は私が物心ついてから、一度も島に連れて行くことはなかった。

 和義かずよしという名前――母の従兄だというその人の存在も、記憶の片隅に霞んでいた。島で民宿を営んでいると聞いたことはあった。


 母の手帳に記された番号へ電話をかけ、訃報を伝えた。葬儀に呼べなかったことを詫びると、彼はこう答えた。


「気にせんでええよ」


 その声は、島の陽だまりのように温かだった。


 七月の半ば、納骨のために私は島へ向かった。


 午後の陽射しの中、船は穏やかな海を滑ってゆく。潮風が髪を撫で、陸が近づくと柑橘の香りが風に混じった。白い浜と段々畑、海沿いの小さな屋根が夏の光にそっと瞬いている。


 まるで、懐かしい名前を呼ぶように。


 胸の奥が、そっと波立つ。


 かすかな記憶の底に沈んでいたものが、島の空気に触れて揺れていた。母が生まれ、私たちが昔暮らした島。記憶は朧でも、胸の奥に、淡い光だけは消えずに残っていた。


 ――「あの島で、また会おうね」


 誰の言葉だったのか。いつの記憶だったのか。けれどその声だけが、波に攫われることなく、心の底に残っていた。


 船を降りると、がっしりとした体格の男性がひとり、こちらを見つめていた。


「……歌帆さん?」


 頷いて、そっと頭を下げる。


「はい。……和義さんでいらっしゃいますね?」


「ああ、やはり。若いころの歌乃かのみたいじゃ。声も、よう似とるねえ」


 そう言って、彼は帽子を取った。


「……初めまして。お世話になります」


「今回は大変じゃったねえ。ほんまは母さんも会いたがっとったんじゃが、風邪をこじらせて寝とるんじゃ。……お墓、案内するけえ」


 墓は、海を見下ろす高台にあった。


 草に覆われた細い石段を、風に吹かれながら登る。風の音に混じって、母の声が呼んでいるような気がした。


「……遅くなって、ごめんなさい」


 私はそっと骨壺を納め、蓋を閉じた。


 胸の奥で、何かが音もなく沈んでいくのを感じた。


 市役所から届いた相続書類には、母の家と見知らぬ住所が記されていた。幼い頃の記憶は曖昧で、かつて暮らしていた頃のことはほとんど思い出せない。


 せっかく島まで来たのだから、私もその家を見てみたかった。


 だが、鍵が見つからない。


 和義さんとの電話で、鍵のスペアを預かっていることがわかり、私は彼に頼んだ。


「本当にありがとうございます。……家のことも」


「いやいや、わしは鍵を預かっとっただけよ。たまに来て掃除するくらいでねえ」


 和義さんは、小さな鍵を鞄から取り出した。


 私は両手でそれを受け取る。冷たい金属の感触が、じんわりと胸の奥に染みていった。


「家はすぐそこじゃ。連れて行こうか?」


「いえ、大丈夫です。ひとりで行きます。地図がありますから」


「ほいじゃ、何かあったら、うちに来んさい。民宿潮音(しおね)。すぐ近くじゃけえ」


 その時、道の向こうから明るい声が響いた。


「かずさん、お帰り!」


 エプロン姿の女性が手を振っている。


 笑いじわのある、穏やかな顔だった。和義さんと同じ抑揚が声に混ざっている。


「あら、その子が歌帆さん……? よう来てくれたねえ。うち、美子よしこいうんよ」


「はい。歌帆と申します」


「あら、親戚じゃけえ、そんなかしこまらんでええよ。澄江すみえさんは風邪移したらいけん言うて顔見せれんの。残念がっとったわ」


「澄江さん?」


「かずさんのお母さんよ。また、うちに寄っててね」


「はい……ありがとうございます」


 二人が去っていく後ろ姿を見送りながら、私は鍵をそっと握った。


 島の空気に、母の記憶が溶けていた。


 岬の上の木造平屋は、誰も住まぬはずなのに、不思議と息づいているように見えた。


「……ただいま」


 小さく呟いてみた。返事は、ない。


 扉を開けると、夏の湿気と海の匂いが混ざった空気がそっと流れ込んできた。


 台所の蛇口をひねる。赤錆の混じった音の後、透明な水がさらさらと流れた。その水に、母の気配が宿っているように感じた。


 ガスの元栓を開けて火がつくか試すと、ようやくひと息つくことができた。


 開け放した窓から、潮の匂いが吹き込み、風鈴が鳴った。柱時計がひっそりと時を刻んでいる。


 家の中は、想像よりもずっと丁寧に手入れされていた。


 今夜はここに泊まろう。そう思った。


 奥の部屋の引き出しから、一冊のノートが出てきた。母の筆跡。

 最初の行が視界に入り、心臓が跳ねた。これは母の日記……?


 夜になっても、眠れなかった。夏蜜柑の葉がそよぎ、虫の声がかすかに重なる。


 母が、最後に私に伝えたかったこと。その声を、私は遮った。


 もう、二度と取り戻すことはできない。


「……ごめんなさい、智。ごめんなさい、お母さん」


 私は、そっと声に出して謝った。


 けれどその声は、どこにも届くことなく、夜の中に溶けていった。

※この作品は現代日本の物語です。

※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。

更新は毎晩21:00を予定しています。

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