銀河通信 その3 ALIEN DANCE 1
はじめて龍樹と会ったのは、夜だった。あれは、春のきもちのよい夜だった。その夜の空気には、これから夏が来るという、わくわくするようなにおいがした。
図書館で借りていた本を返し、暗闇にぽわんと浮かび上がる近代的なその図書館の、整えられた外庭を私は散歩していた。
図書館はガラス張りで、ガラスの上のほうから水が流れていて、その周りをぐるりと水が張られた観賞用の堀が囲み、ライトアップされて水面に揺れる光がガラスから漏れる光と反射しあって、暗闇の中、幻想的に浮かび上がっていた。
さくさくと芝生を歩いていると、草のいいにおいがした。私は大学に提出する論文に頭を悩ませていたので、気分転換にぐるぐると図書館の周りを歩いていた。体を適度に動かしたほうがいいアイディアが浮かぶと思って。何周目かのときに、ふと、人がいる──と気づき、ぎくりとした。
そこは公共の場だから、誰でも入っていいのだし、いて悪いことはないのだが、夜の散歩に図書館の外庭を選ぶのは自分くらいのものだろうと思って誰もいないつもりでいたため、私は気分を損なわれたような、身勝手な気分にもなった。
──いつからいたのだろう?
ところどころ、オブジェのような間接照明が設置されている庭園の明かりでは、うすぼんやりと大人のひとだということしか判らない。そのひとは、芝生の上で、寝そべっているのだ。へんなひとだったらどうしよう……。私は、こわくなった。図書館の周りを、夜の九時過ぎにひとりでぐるぐると回る私も、相当変なひとなので、むこうもそう思っているかもしれないけれど。
まあ、図書館は十時まで開いているし、建物はこうこうと明かりがついていて、周りの堀といってもかざりのものだし、なんといっても、ガラス越しに館内の人がちらほらと行きかっているのも見える。そんなに危険なところではないのだ。気にすることはない。
私は、両手の指と指を合わせ、目の前でおにぎりのような三角形をつくって中指だけをリズミカルに動かし、そのまま歩き続けた。考えごとをするときの、わたしのこの変な癖を、よく家族や友人にからかわれたが、癖なので、なおらない。
頭の中で、何度も思考のパズルを組み立てたり分解したり、を、かれこれ三十分以上続けていた。さくさく、さくさく、芝生は、私の身体の重みをしなやかに受け止めてくれていた。スニーカーを履いていたけれど、ほんとうは裸足で歩きたかった。
しばらくして、喉が渇いた、と思い、背負っていたリュックから、まほうびんの水筒を出した。紗季特製ブレンドの温かいお茶である。
ふたに、茶色い液体をとくとくとそそぎ、ずずっとすすると、ほのかな甘みとハーブのよい香りが、じんわりと私を満たした。うっとりと、幸せを感じていたら、
「あのう……」
と、遠慮がちな声と共に、見慣れたハンカチや、財布、携帯電話が、目の前に差し出された。
おお? これは……。
まほうびんのふたをきゅっと閉めて、それを戻したついでにリュックの中をがさごそ手で探ると、在るはずの物がないではないか。では、この目の前のこの物たちが、自分の物だな、と、納得する。
「拾ってくれたんですね。すみません。どうもありがとうございます」
私はおじぎして、それらの差し出された物たちを、受け取った。
恥ずかしさで消え入りたいのを、何とかそ知らぬふりで、全然なんてことないみたいに。
「あの、まだ他にもあるみたいですよ……、歩きながら、ぽとんぽとんと、いろんなところに落としてたみたいだから……」
そう言って、その人は少し困ったように、私を見た。そこで、はじめて私は目の前の人を認識した。同じ年くらいの、きちんとした感じの男のひとだった。
「そうですか、ご親切にどうもありがとうございます。探してみます」
ああ、穴があったら入りたい。でも、恥じ入って、もじもじしてばかりいては、この地球上では生きていけないのだ。にっこり微笑んで、私は彼にお礼を言った。
親切な人だ。でも、困惑したように、心配そうにしている。ので、私は言い訳するみたいに付け加えた。
「よくやるんです。ぼんやりしていて、物を落としたり、忘れ物をしたり」
私は昔から、考えごとに集中したりすると、他のことが疎かになったまま動き続けてトラブルを起こしてしまうことがあった。人にぶつかっても、そのまま知らんぷりで歩き続けたり、落とし物をしても気づかずにいたり……。なので、カード類は持たないし、携帯も常にセキュリティロックをかけている。鍵などは、長いネックレスの先のペンダントトップになり、いつも首から提げている。家族を含めた周囲の人が異口同音に言う「かわりもの」である私の、特徴のひとつだった。
「そうですか。はじめ、酔っ払っているのかなと思ってみていたんですけど、だんだん心配になってきてしまって。おせっかいついでに、拾うのを手伝いましょうか?」
私は、これはナンパというものだろうか? と考えた。
ちょっとたりなそうな若くてかわいい(?)女の子をたぶらかそうとしている悪い人、には見えないが、でも、すぐそうとわかるものでもないだろうし。それで訊いてみることにした。
「それは、ナンパと言うものですか?」
「いえ、違います」
即答して彼は、私を見つめ、君、面白い子だなあ、と言った。
どうやら、酔っ払っているのは彼のほうだった。少しだけ、アルコールの甘いにおいがした。さっき、芝生で寝そべっていたひとかな、そう思いながら、私は
「酔っ払ってるのは、あなたですね」
と言った。
「ほんのちょっとですけどね」
しっかりした口調で笑って答えてから、彼は
「おせっかいでしたね。暗いから、気をつけて」
手を振って、さくさくと芝生を踏んで、向こうのほうへ行ってしまった。
オブジェの陰で、ごろんと横になっているのが見える。やっぱり、さっきのひとか。あそこで、私がぐるぐる建物の周りを、ぽとんぽとん物を落として歩くのを見ていたのか。さぞ奇異に見えたことだろう。心配して、親切で、わざわざ物を拾い集めながら追いかけてきてくれたのか、そう思うと、自分がずいぶん失礼な対応をしたのかもしれない、ということに、気づいた。
申し訳ないことをしてしまった……。
そんなつもりなどなくても、私は、よく人を困惑させたり怒らせたりする。
自分では、間違ってにんげんに生れてきたのではないか、と本気で思っている。そういう心をこめて、自分は宇宙人である、と、思うことにしている。私はなにかしら、へまばかりしてしまうので、そういう時は宇宙人なんだから仕方ない。そう、言い聞かせて、がんばって地球人の決まりを学ぶのだ、と、自分に言い聞かせるのだ。……またへまをしてしまった……恥ずかしくて、火を噴きそうだった。
同じところをぐるぐるずっと歩き回っていたので、下を見ながら歩けば、落とし物は、おもしろいように、ぽつんぽつんと、芝生の中に見つかった。
銀紙で包まれたおにぎり3個、コンビニで買ったサンドイッチひとつ、オレンジ一個、スイーツ模型のUSB、リュックを開けたまま歩いていたのか、よくもこんなに落としたものだ。どっこいしょ、と腰を上げて伸びをすると、満月が夜空に浮かんでいるのが見えた。ふと、さっきのひとはまだいるのか、見回してみた。
いた。さっきのオブジェのところで、片肘をついて頭を手で支え、横になっている。ネパールにある涅槃像みたいだった。眠っているのだろうか? 私は、さくさく芝生を踏み、彼の方向へ歩いていった。
「さっきは、どうもありがとう。それから失礼なことしたとしたら、ごめんなさい」
目を瞑っている彼を、眠っているのだろうと判断し、私は独り言をいうようにそっとそう言った。
捧げもののようにオレンジとサンドイッチを涅槃像の彼のそばに置き、立ち去ろうとしたとき、ぷっと吹き出す音と、あはははという明るい笑い声がして、私は振り向いた。
「ごめん、どうするのかなあと思って、思わず寝たふりしてしまって。ほんとうにおもしろいな、君」
彼はそう言って、よいしょ、と半身を起こし、私を明るい笑顔で見上げながら
「これ、ぼくにくれるの?」
と、オレンジとサンドイッチを手に取った。
満月のひかりの中で、その笑顔は、不思議にやさしくまあるくひかった。
私は、黙ったまま頷いた。
「どうもありがとう」
にこにこして、彼はオレンジの皮をむき出した。柑橘系のいいにおいが、あたりにふわあっと広がった。のどがちょうど乾いていたんだ、と彼は言って、オレンジの房を口に入れた。もぐもぐしながら、うん、うまい。とほんとうに美味しそうにしている。
私は、その場にゆっくり腰を下ろし
「よかったら、お茶もあるよ」
と言って、まほうびんをリュックから出した。
「ぼくにくれるの?」
うんと頷いて
「私の飲みかけでよければだけど」
私は言った。
「ありがとう、じゃあ頂こうかな」
「はいどうぞ」
湯気ののぼるお茶を、彼はごくごくと飲み干して、はあっと、息をついた。
「これは、甘露だね。おかわりをもらってもいい?」
私は、ふたにお茶を注いであげた。それから、
「おにぎりもあるよ?」
と、ごそごそリュックから、銀紙に包まれた、テニスボール大の3つのおにぎりを出した。
あはは、と彼は笑って「魔法使いみたいだね」と言った。
私はなんとなく、彼のことをすきになりかけていた。
異性として、とかではなく、友好的な関係になれそうだ、という嬉しさから。
宇宙人は孤独だから、ともだちがほしい。友好的な地球の友人を求めている、のだ。
私たちは、一緒にもぐもぐおにぎりを食べて、オレンジを分け合い、かんたんな自己紹介をした。彼は音大の院生で、若く見えたが実は私よりもお兄さんだった。名前を龍樹だと言う。私は理系の大学生で、数学の論文の制作中であるため、考え事に詰まってぐるぐる歩き回っていた、と話した。名前は紗季です、と。
「すごいな、数学の論文かあ。なんかかっこいいね」
ほめられて、私は、少し赤くなった。
「私は、数学だけはよくできたのです。あとは、だめだめですけど」
「ぼくは、数学はそんなにできなかったし、うらやましいよ」
彼の、話し方は、お世辞とか追従とではなく、ただ素直な感想を述べた、という感じだったので、私も素直な気持ちになった。
「私は当たり前のことが普通にできるひとがうらやましいです。でも、数学は素敵です。きちんと法則があり、その法則を学べば学ぶほど、とても、美しい世界を見せてくれます。そして何よりも、言語がシンプルで美しいのです。真実を表わすのに最小限の表記で、とても美しい。しかも、それが真実かどうかを、その法則さえ学べばみんなに平等に開示してくれるのです。しかし、にんげんの社会は、難しいです。法則が複雑です。言語はもっと複雑です。虚実が入り混じった状態でノイズが多すぎるのです。最小単位の家族という共同体の扱う言語にでさえ、未だに難解さに苦しんでいます。しかし、学びを続ければ、数学のように、私にもいつか美しい世界を見せてくれるのではないかと思うのですが、なかなか険しい道のりのようです」
私がおにぎりをもぐもぐしながら、そう言うと、彼はうんと頷いた。
「君はなんだか哲学的なことを言うなあ」
「数学は、ときに哲学的です」
ごろん、と彼は芝生に寝転んで
「ぼくにとって、音楽が世界と繋がるツールなように、君は数学がそうなんだね。音楽の世界も美しいよ、とても。でも、ぼくも、数学に苦手意識をもたないで、もう少しその世界も見てみたくなった」
彼はそう言った。
これは、ツールを増やしてみたらという、教訓的暗喩だろうか? それとも、単にそう思っているのだろうか? 私がそう考えていると
「これは、君ともう少し親しくなってみたい、という意味です」
彼はそう言って、続けて言った。
「友人として、ですけどね」
彼はにっこり笑う。
なんで、考えていることがわかったんだろう? ぽかんとしている私の顔を見て、彼は笑って言った。
「そのまんま顔に出るから……」
きれいな、やさしい笑顔だった。満月の光のように、夜の中でも明るく光って見守ってくれているような。




