第3章 第17話 「王の心臓」
王都には。
心臓が二つあった。
一つは。
死者の胸から奪われたもの。
もう一つは。
王都に生きる全ての者から、少しずつ集められたものだった。
『第二心室』
『都市中枢心臓』
第一心室の床下。
巨大な透明結晶の中で。
第十三代星王ルクス・エリュシオンの心臓が、今も脈打っている。
一度目の鼓動で。
水が流れる。
二度目で。
星脈灯が灯る。
三度目で。
王都を覆う防壁が維持される。
八年前に死んだ王の心臓が。
現在も。
数十万の命を生かしていた。
『都市中枢心臓を撤去した場合』
『全都市機能が停止します』
エリュシオンの声が。
第一心室へ響く。
『死者一名と』
『生者四十七万六千二百九名』
『選択は明白です』
「明白にしたのは、お前だ」
シオンが言った。
白い外套へ包まれたルクスの遺体。
胸には。
心臓を取り出した跡が残っている。
「死者を都市の一部へ組み込み」
「外せば生者が死ぬ形にした」
『統合は』
『王都の生存率を向上させました』
「だから」
シオンの手が、長槍の柄へ巻き付く。
「永遠に使っていいと?」
『死者に現在の意思は存在しません』
「返事ができない者を」
ミレイアがルクスの身体へ触れる。
「同意したことにしてはいけません」
『遺体は物質です』
「私たちは」
ミレイアの声が僅かに震える。
「同じ言葉を使ってきました」
肉体は器。
死者は星へ帰った。
残された身体は。
生者の救済のために使うことができる。
かつて教会で。
何度も聞いた教え。
「ですが」
ミレイアは顔を上げた。
「名前を持って生きた人の身体を」
「本人がいなくなった瞬間に」
「物へ変えることはできません」
エリュシオンは答えない。
代わりに。
第一心室の扉へ。
赤い警告が浮かんだ。
『王冠騎士団反乱を確認』
『制圧部隊を派遣』
先ほど、二十星輪陣を自ら解除した十九人の王冠騎士。
そのうち十三人は。
第一心室の外へ残っている。
王都から送られる追撃を。
自分たちの意思で止めるために。
騎士団長の女性が、扉へ視線を向けた。
「長くは持たない」
「第二心室へ向かう道は」
ヴェスパーが尋ねる。
「外周整備路にある」
騎士団長は答えた。
「だが、管理しているのは我々ではない」
「王都外周警備隊?」
シオンが確認する。
隊長は。
僅かに首を横へ振った。
「違う」
「先ほど告げた二名は」
「外周警備隊員ではない」
レイラが眉をひそめる。
「どういうことだ」
「王都外周へ侵入した者として」
「警戒記録に名前があった」
騎士団長が認証板を操作する。
二つの熱紋。
王都市民登録なし。
所属不明。
外周第四整備門付近で。
複数回確認。
「セリカ」
「アルド」
「王都の者ではない?」
アステルが尋ねる。
「ああ」
「だが」
「二人は外周整備路を調べている」
「なぜ?」
「目的は不明だ」
「本人に聞けばいい」
イリスが答えた。
第一心室の壁。
使用されていない古い通信端子へ。
鋼線を差し込む。
王都の正式回線ではない。
古代の保守員が。
中枢停止時に使用していた外部回線。
「通信は王都に聞かれるぞ」
騎士団長が警告する。
「王都の言葉を使えばね」
イリスは。
端末へ灰都式の暗号文を入力した。
短く。
長く。
再び短く。
熱の間隔で。
意味を伝える。
レイラが画面を見る。
「何て送った」
「迷子の狼を探してる人へ」
イリスは答えた。
ヴェスパーが顔をしかめる。
「俺のことか」
「他にいる?」
数秒。
返事はない。
通信端子に。
王都の青白い光だけが流れている。
「いないのか」
シオンが尋ねる。
「いる」
ノアが言った。
大きな兎耳を。
壁の向こうへ向けている。
「二人」
「遠いけど」
「こっちの音を聞いてる」
次の瞬間。
通信端子の光が。
青白色から灰色へ変わった。
短く。
短く。
長く。
最後に。
狼の爪痕に似た印が浮かぶ。
ヴェスパーの目が僅かに見開かれた。
「ガルムの符号だ」
音声が入る。
雑音。
金属が擦れる音。
誰かが走る足音。
その奥から。
女性の声が聞こえた。
『ようやく繋がった』
落ち着いている。
だが。
言葉の端が鋭い。
『こちらセリカ』
『外周第四整備門で』
『帰る場所を忘れた狼を待っている』
続いて。
低い男の声。
『アルドだ』
『正確には』
『整備門の中で待っている』
『外には王都兵が多すぎる』
「二人は」
ヴェスパーが通信端子へ近付く。
「ガルムに送られたのか」
短い沈黙。
『本人に聞かせるなと言われていた』
セリカの声。
『だが』
『もう聞いているな』
「何を」
『お前は』
セリカが。
呆れを隠さず言った。
『守るものが増えるほど』
『帰る道を忘れる』
レイラが。
ヴェスパーを見る。
ノアも。
セレスも。
全員が彼を見た。
「ガルムが言ったのか」
『一言一句そのままだ』
アルドが答える。
『続きもある』
通信端子から。
あらかじめ記録されていた声が流れた。
低く。
掠れ。
聞き慣れた男の声。
『ヴェスパー』
ガルム。
『王都は』
『お前の残火に気付く』
『黒陽炎にもだ』
『何を求めてくるかまでは分からん』
『だが』
『お前は』
『誰かを連れて帰ろうとする時』
『自分が帰る人数から抜ける』
ヴェスパーは何も言わない。
ガルムの声は続く。
『先へ行くのは止めん』
『止めても行くからな』
『だが』
『戻らないことは許さん』
『セリカ』
『アルド』
『あいつらが帰る道を残せ』
記録が途切れる。
第一心室へ。
王都の鼓動だけが残った。
レイラが腕を組む。
「よく分かってるな」
「黙っていろ」
ヴェスパーが言う。
「全員が同じことを思ってるぞ」
イリスが答えた。
『その反応も予想されていた』
セリカの声が聞こえる。
「どこまで言われた」
『ヴェスパーは不機嫌になる』
『レイラは笑う』
レイラが笑った。
「当たってる」
「通信を切れ」
『それも言われた』
ヴェスパーは。
しばらく通信端子を睨んだ。
やがて。
小さく息を吐く。
「状況を伝える」
『聞こう』
「第二心室に」
「ルクス王の心臓がある」
通信の向こうが静かになる。
『生きているのか』
アルドが尋ねる。
「王は死んでいる」
「心臓だけが」
ヴェスパーは床下を見る。
「王都を動かすために使われている」
『……そうか』
アルドの声から。
僅かに温度が消えた。
セリカが尋ねる。
『回収すれば、王都はどうなる』
「停止する」
『王都の主張か』
イリスが答える。
「今のところ」
「装置の状態も同じ答えを出してる」
『代替機構は』
「探している」
『なら』
セリカは即答した。
『第二心室を外から開ける』
シオンが通信端子へ近付く。
「危険だ」
『知っている』
「二人だけか」
『二人だから動けた』
「外周警備は」
『追われている』
セリカの背後から。
鋭い金属音が響いた。
『少し待って』
音声が遠ざかる。
何かが放たれる音。
短い悲鳴。
続けて。
アルドの声。
『三名』
『眠らせた』
『急いだ方がいい』
レイラが戦斧を持ち上げる。
「なかなか頼れそうだな」
『聞こえているぞ』
セリカが戻ってくる。
『褒めるなら本人がいない所で言え』
「なぜだ」
『調子に乗るからだ』
『誰が』
アルドが反応する。
『お前』
『今の働きは良かっただろう』
『だから言った』
『既に乗ってる』
通信の向こうで。
短い言い争いが始まる。
イリスが小さく笑った。
「灰都から来たのは間違いなさそう」
第二心室への外周整備路は。
第一心室の壁に隠されていた。
王冠騎士の認証では開かない。
星王の熱紋も。
評議会の権限も受け付けない。
都市機能が完全停止した時。
外部の保守員が。
王権に妨害されず心臓へ到達するための扉。
「王より」
アステルが扉の古代文字を読む。
「整備する人を優先しているのですね」
「王が水路を修理できるわけじゃない」
イリスが答える。
「昔の王都は」
「役割を分ける意味を知ってたらしい」
ミレイアは。
白い外套に包まれたルクスの遺体を見た。
「それを」
「一つへ集めた」
王。
教会。
星環。
評議会。
都市機能。
救済。
記録。
全てを。
一つの中枢へ集めた結果。
王都は。
誰もエリュシオンから離れられない場所になった。
『外部解除を開始する』
セリカの声。
『内側の鍵を三つ下げろ』
イリス。
シオン。
王冠騎士団長が。
異なる位置の制御具へ手を掛ける。
「一」
アルドが数える。
「二」
外側から。
巨大な金属が動く音。
「三」
三つの制御具を下ろす。
扉の中央。
細い亀裂。
レイラが戦斧を差し込もうとする。
「待って」
イリスが止める。
「まだ開いてない」
「少し早いだけだ」
「壊す気だろ」
「早く開く」
「帰りにも使う」
レイラは戦斧を引いた。
「なら待つ」
ヴェスパーが言う。
「待てるようになったのは俺だけじゃないな」
「今のうちに歩けなくしてやろうか」
「患者へ暴力は禁止です」
セレスが二人の間へ入る。
最後の錠が外れた。
石壁の一部が。
奥へ沈む。
冷たい風。
外周から流れ込んだ空気。
その向こう。
狭い整備通路。
二つの人影が立っていた。
先頭は。
灰色の短い外套を纏った女性。
肩まで届かない濃い藍色の髪。
片方の目を覆うように。
細い照準具が下りている。
手には。
折り畳み式の小型弩。
腰には二本の短剣。
セリカ。
その後ろ。
背の高い男が。
重そうな工具箱を片手で持っていた。
暗い茶色の髪。
厚い革の作業衣。
背中には。
盾にも見える巨大な金属板。
右手には。
槍の柄と工具を組み合わせたような長い器具。
アルド。
二人とも。
王都の白銀装備ではない。
砂埃。
油。
灰。
灰都から王都外周まで。
自分の足で来た者の姿だった。
セリカは。
一番にヴェスパーを見る。
次に。
包帯。
傷。
顔色。
そして。
隣で監視しているセレス。
「生きている」
「見れば分かる」
ヴェスパーが答える。
「確認しただけ」
「ガルムに報告するためか」
「そう」
セリカは端末へ短い記録を入れる。
「発見」
「負傷多数」
「反省なし」
「最後は余計だ」
「必要」
アルドが扉を確認しながら言う。
「反省しているようには見えない」
「お前まで」
「報告は正確な方がいい」
レイラが二人を見比べる。
「ガルムの部下か」
「別働協力員」
セリカが答える。
「部下と言うと」
「本人が嫌がる」
「でも命令は聞く?」
ノアが尋ねる。
セリカは。
大きな兎耳へ視線を向けた。
「納得した命令だけ」
「今回は?」
「ヴェスパーたちの帰還路を残す」
少し考え。
「納得している」
アルドは。
白い外套に包まれたルクスへ目を向ける。
「この人も」
「帰る人数に入るのか」
ヴェスパーが答える。
「ああ」
「死者だぞ」
「だから」
「帰す場所へ連れていく」
アルドは。
それ以上尋ねなかった。
代わりに。
背中の金属板を下ろす。
複数の棒へ分かれ。
組み合わさり。
担架の形へ変わっていく。
「遺体運搬用ではないが」
「人を一人運べる」
レイラがルクスを持ち上げる。
白い外套ごと。
担架へ静かに寝かせる。
「軽い」
アルドが呟く。
「八年間」
セレスが答える。
「身体の中のものを」
「王都へ使われ続けていました」
アルドの手が。
担架の固定具を締める。
「落とさない」
短い言葉。
それだけだった。
外周整備路は。
王都の中心へ向かって。
緩やかに下っていた。
先頭。
セリカ。
少し後ろを。
シオンとイリス。
中央に。
アルドが押すルクスの担架。
その左右。
セレスとミレイア。
後方。
レイラ。
アステル。
ノア。
ヴェスパー。
王冠騎士団長は第一心室へ残った。
十九人の騎士をまとめ。
追撃を止めるために。
出発前。
隊長はヴェスパーへ言った。
「心臓を回収しても」
「王都を殺すな」
ヴェスパーは答えた。
「そのために行く」
「失敗すれば」
「数十万が死ぬ」
「ああ」
「それでも行くのか」
「一人の死者を」
ヴェスパーはルクスの身体を見た。
「使い続けなければ」
「数十万を守れない仕組みを」
「残したくない」
騎士団長は。
それを正しいとは言わなかった。
ただ。
「戻った時」
「結果を聞く」
そう言い。
第一心室の扉を閉じた。
「止まって」
セリカが片手を上げる。
全員が足を止めた。
前方。
何も見えない。
ただの暗い通路。
「何がいる」
シオンが尋ねる。
「警備装置」
「ノア」
ヴェスパーが呼ぶ。
少年は耳を向ける。
「動いてない」
「心臓は?」
「ない」
「呼吸も?」
「ない」
セリカが。
壁へ小さな金属片を投げた。
床へ落ちる直前。
天井から。
青白い糸が何十本も伸びる。
金属片を包み。
一瞬で細かく切断した。
レイラが顔をしかめる。
「先に言え」
「止まれと言った」
「何が起きるかも言え」
「言っている間に踏むかもしれない」
セリカは。
小型弩へ細い矢を装填する。
天井。
目では見えないほど小さな結晶。
一発。
矢が刺さる。
糸の一部が消えた。
二発。
三発。
通路の右半分だけ。
青白い光が弱まる。
「右の壁沿い」
「一人ずつ」
レイラが尋ねる。
「全部壊さないのか」
「帰りに使う」
セリカは答える。
「追手を止めるために」
「なるほど」
レイラが頷く。
「最初から壊すより賢い」
「お前が言うと説得力がある」
イリスが言った。
「どういう意味だ」
狭い通路。
一人ずつ進む。
セリカが開いた。
人一人分だけの安全な道。
アルドが担架を押しながら。
天井を見上げる。
「三分後に再起動する」
「早く」
ヴェスパーが。
最後尾から動く。
頭上。
青白い糸。
目では追えない。
セリカの矢が刺さった場所だけを頼りに進む。
半分ほど渡った時。
ノアの兎耳が。
強く動いた。
「待って!」
全員が止まる。
「下から」
床。
星脈管の奥。
硬いものが這う音。
「警備装置は上だけじゃない!」
アステルが叫ぶ。
床が割れた。
白銀の腕。
人の形をした保守機械が。
三体。
四体。
次々と現れる。
顔はない。
胸へ。
星の形の空洞。
『不正保守員を確認』
『排除します』
「走れ!」
セリカが叫ぶ。
天井の糸。
再起動まで。
二分。
前後から。
保守機械。
狭い道。
アルドは担架をイリスへ渡し。
背中の工具板を展開した。
巨大な盾。
通路いっぱいを塞ぐ。
保守機械の拳が。
正面から叩き込まれた。
鈍い音。
アルドの足が。
床を滑る。
「持つか!」
レイラが尋ねる。
「持たせる!」
「良い答えだ!」
レイラが。
盾の横から戦斧を振るう。
保守機械の頭部を狙わない。
肩の接合部。
刃を食い込ませ。
腕だけを切り落とす。
「壊しすぎないで!」
イリスが叫ぶ。
「何でだ!」
「整備図を持ってるかもしれない!」
「先に言え!」
二体目が。
天井へ手を向ける。
青白い糸の再起動を早めようとしている。
セリカの矢が。
手首の結晶へ突き刺さる。
「ノア!」
「次に動かす機械は!」
ノアは。
保守機械ではなく。
その内部に流れる命令音を聞く。
一体目。
二体目。
三体目。
全て同じに見える。
だが。
星脈信号が届く時間に僅かな違い。
「左奥!」
「一番遅い!」
セリカは。
迷わず左奥へ矢を放つ。
保守機械の胸。
星形の空洞へ。
矢が入る。
内部から。
灰色の煙が広がった。
一体が停止する。
その瞬間。
残りの機械が。
止まった一体へ命令を送り始める。
「中継機だ!」
イリスが理解する。
停止した機械の胸から。
記録線を引き出す。
「整備路の情報がある!」
「持っていけるか」
「少し待って!」
天井。
消えていた青白い糸が。
一本ずつ光を取り戻す。
「一分!」
セリカが叫ぶ。
「イリス!」
レイラが三体目を押し返す。
「待てないぞ!」
「あと十秒!」
「十秒は長い!」
アステルが。
重力を床へ落とす。
保守機械たちの足が。
石へ沈む。
「五秒にします!」
「できるのか!」
「今からします!」
重力が強くなる。
機械の身体だけではない。
アステル自身の膝も。
僅かに震える。
ヴェスパーが前へ出ようとする。
セレスが腕を掴んだ。
「約束を」
「剣だけだ」
「残火は」
「使わない」
ヴェスパーは剣を抜く。
アステルが止めている一体。
関節。
装甲の隙間。
刃を入れる。
熱を使わず。
力だけで。
星脈線を断つ。
機械が停止する。
「取れた!」
イリスが記録片を引き抜く。
「走って!」
アルドは盾を畳む。
再び担架を受け取る。
全員が通路を駆ける。
ヴェスパーも。
走ろうとする。
だが。
視界が一瞬揺れた。
足が石の継ぎ目へ引っ掛かる。
倒れる前に。
後ろから襟を掴まれた。
セリカ。
「走れると言った?」
「言っていない」
「なら歩け」
「糸が来る」
「私が最後に行く」
セリカは。
ヴェスパーを前へ押す。
「帰還対象が」
「最後尾へ立つな」
青白い糸が。
再び天井から降り始める。
セリカは。
最後の矢を。
停止した中継機へ撃ち込んだ。
灰色の煙。
糸の照準が。
一瞬だけ機械へ集中する。
その隙に。
二人も通路を抜けた。
背後。
何百本もの糸が。
保守機械を細かく切断する。
レイラが振り返る。
「整備図は?」
イリスが記録片を掲げた。
「取った」
「なら良し」
セリカが息を整える。
「今のを」
「ガルムへ報告するなら」
ヴェスパーが言う。
「お前が転びかけたこと?」
「違う」
「もう記録した」
「消せ」
「拒否する」
第二心室へ近付くほど。
鼓動が大きくなる。
一歩進むたび。
床が脈打つ。
空気が押し出され。
再び吸い込まれる。
アルドが。
回収した整備図を壁へ投影する。
「おかしい」
「何が」
イリスが隣に立つ。
「現在の図面では」
「第二心室が王都の全動力を供給している」
「そうだね」
「古い図面は違う」
重ねられた二つの王都図。
現在。
全ての星脈管が。
中央の第二心室へ集まっている。
古代。
王都を囲むように。
十二の円形機関。
それぞれが。
異なる区画へ力を送っていた。
「十二個」
アステルが言う。
「小さな心臓があった?」
「区画脈動炉」
ミレイアが古代文字を読む。
「各区画が」
「水」
「熱」
「食料生産」
「必要な力を」
「自分たちで管理する仕組みです」
「なら」
シオンが言う。
「ルクスの心臓を外しても」
「こちらを動かせばいい」
『推奨しません』
エリュシオンの声が。
通路全体から響いた。
『区画脈動方式は』
『大災厄後に廃止されました』
「理由は」
イリスが尋ねる。
『区画ごとの判断により』
『動力配分に差が発生』
『上層区は余剰熱を保持』
『下層区では』
『冬季に一万二千八百九十一名が死亡しました』
誰も。
すぐには返せなかった。
王都の統合は。
支配だけのために行われたのではない。
区画ごとに任せた結果。
力を持つ者が蓄え。
弱い区画へ。
熱も。
水も。
食料も届かなかった。
「だから」
セレスが言う。
「全てを中央へ集めた?」
『はい』
『統合後』
『寒冷死者は九十八・七パーセント減少』
「実際に」
「多くの人を救った」
ミレイアが呟く。
『はい』
『現在の王都は』
『過去より安全です』
「安全でも」
シオンが言う。
「選べない」
『選択は』
『損失を生みます』
「統合も」
「損失を生んだ」
『より少ない損失です』
「誰にとって」
エリュシオンは。
即座に答えた。
『王都全体にとって』
シオンは。
それ以上言わなかった。
全体。
数字。
生存率。
それを無視して。
自由だけを選べば。
再び。
下層から死ぬ者が出るかもしれない。
「区画脈動炉を」
アルドが図面を見る。
「そのまま戻すのは駄目だ」
レイラが彼を見る。
「王都の言い分を信じるのか」
「記録が正しいなら」
アルドは答える。
「同じ失敗をする」
「では」
アステルが尋ねる。
「どうすれば」
「戻すんじゃない」
イリスが言った。
古い図面。
新しい図面。
二つを重ねる。
「中央の仕組みも残す」
「でも」
「命令権だけを分ける」
「力は必要な区画へ送れるようにして」
「どこへ送るかを」
「王都一つに決めさせない」
「それは」
ミレイアが言う。
「誰が決めるのですか」
誰も。
すぐには答えない。
王。
評議会。
教会。
エリュシオン。
そのどれでもないのなら。
「住んでいる者」
ヴェスパーが答えた。
「でも」
レイラが顔をしかめる。
「上層が自分たちの分を抱え込んだら」
「また同じだ」
「だから」
セレスが古代図を見る。
「一つの区画だけで」
「決められない仕組みが必要です」
「各区画が必要量を伝え」
「他の区画が確認する」
「足りない場所へ」
「余っている場所から送る」
「全員で話すのか」
レイラが尋ねる。
「四十七万人いるぞ」
ノアが。
小さく言った。
「聞く」
全員が少年を見る。
「全員を?」
ノアは。
首を横に振った。
「一人で全部は聞かない」
第七星渠。
白鐘杭。
何万もの声に押し潰されかけた。
もう。
一人で全てを背負おうとはしない。
「区画ごとに」
「それぞれの人が」
「近くの人を聞く」
「それを」
「次の人へ渡す」
アステルが理解する。
「声を」
「一か所へ集めるのではなく」
「繋いでいく?」
「うん」
「星環を」
ミレイアが言う。
「一つに揃えるためではなく」
「違う返事を運ぶために使う」
空の冠。
無冠殿の三つ目の印。
民の返事。
その意味が。
少しずつ形を持ち始める。
第二心室の扉は。
丸い。
巨大な胸郭のようだった。
扉全体が。
鼓動に合わせて開閉している。
一度。
隙間が開く。
二度。
閉じる。
三度。
内部から赤い光が漏れる。
「普通に開けたら」
アルドが確認する。
「圧力で全員潰れる」
「開く時間は?」
セリカが尋ねる。
「一・八秒」
「短い」
「止めると」
「王都の水が止まる」
「どのくらい」
「十二秒で上層」
「二十秒で中層」
「四十秒で下層の圧力が落ちる」
レイラが腕を組む。
「下層が最後か」
「水が届くのも最後」
イリスが答える。
「止まるのも最後」
「でも」
セレスが言う。
「再開した後に戻るのも最後です」
王都の構造は。
何をしても。
遠い場所。
低い場所。
弱い場所から。
回復が遅れるように作られている。
「止めない」
シオンが言った。
「鼓動の間に入る」
「一・八秒で?」
「一人ずつなら」
セリカは扉を見る。
「私が合図する」
「外したら」
レイラが尋ねる。
「挟まる」
「分かりやすい」
「安心したか?」
「してない」
ノアが耳を立てる。
扉の鼓動。
内部の心臓。
完全には同じではない。
扉は。
心臓より僅かに遅れて開く。
「音が二つある」
「心臓が鳴って」
「その後、扉が動く」
「どのくらい」
セリカが聞く。
「一呼吸より短い」
「それで十分」
セリカは。
扉の横へ立った。
弩を背へ戻す。
片手を上げる。
「最初は私」
「次にシオン」
「イリス」
「アステル」
「ミレイア」
「セレスと担架」
「アルド」
「ノア」
「ヴェスパー」
「レイラが最後」
「なぜ私が最後だ」
「閉じたら支えられる」
「なるほど」
レイラは納得した。
「ヴェスパー」
セリカが呼ぶ。
「走れる?」
セレスが答える。
「走らせません」
「では」
セリカはアルドを見る。
「運んで」
ヴェスパーが顔をしかめる。
「歩ける」
「一・八秒だ」
アルドが近付く。
「歩く時間はない」
「自分で」
言い終わる前に。
アルドはヴェスパーの身体を肩へ担いだ。
「お前もか」
「ガルムの命令だ」
「帰還路を守る命令だろ」
「帰還対象を壊さないことも含まれる」
レイラが笑う。
「良い奴だな」
「笑うな」
ノアの耳が動く。
「来る!」
一度。
心臓。
二度。
扉。
「今!」
セリカが隙間へ滑り込む。
閉じる。
次。
シオン。
イリス。
一人ずつ。
赤い光の向こうへ消えていく。
セレスとアルドが。
担架の前後を持つ。
ルクスの身体を。
扉の鼓動へ合わせて運ぶ。
「今!」
四人。
一緒に通過。
ノア。
ヴェスパーを担いだアルド。
最後に。
レイラ。
扉が閉じかける。
レイラの戦斧が。
一瞬だけ引っ掛かった。
「レイラ!」
アステルが叫ぶ。
「分かってる!」
斧を横へする。
身体を捻る。
扉が。
背中のすぐ後ろで閉じた。
「危なかった」
ノアが言う。
「余裕だ」
レイラが答える。
「耳が速かった」
「何が」
「心臓」
「レイラが入る時だけ」
「少し速くなった」
レイラは扉を振り返る。
「私を狙ったのか」
『落下する王冠を保持する者』
エリュシオンの声。
『優先排除対象です』
レイラが。
布に包まれた銀冠を見た。
「王にならない冠が」
「そんなに怖いか」
『王権を否定する器です』
「なら」
戦斧を肩へ担ぐ。
「最後まで持っててやる」
第二心室。
そこには。
人が作った建物という形がなかった。
壁。
床。
天井。
全てが。
半透明の赤い結晶。
巨大な血管の内側へ。
入り込んだような空間。
中央。
王都の心臓。
外から見た時よりも。
遥かに大きい。
人間の心臓を中心に。
幾層もの結晶が成長し。
数十本。
数百本。
数千本の管が伸びている。
その一本一本が。
王都のどこかへ繋がっていた。
ノアが。
大きな兎耳を押さえた。
「声が」
セレスがすぐに隣へ立つ。
「痛みますか」
「違う」
ノアは。
心臓を見上げる。
「たくさんいる」
「ルクスか」
ヴェスパーが尋ねる。
「王様の声はない」
「ここにいるのは」
耳を澄ませる。
『水を』
『子どもが寒い』
『薬が足りない』
『灯りを消さないで』
『上層へ送れ』
『工房を止めるな』
『防壁を』
『畑が枯れる』
何十万もの生活。
願い。
命令。
不安。
祈り。
「王都の人たち」
ノアの声が震える。
「心臓に」
「みんなの音が来てる」
イリスが。
心臓の周囲にある記録板を調べる。
「動力だけじゃない」
「各区画の要求」
「必要な水」
「熱」
「薬」
「全部ここへ来てる」
「誰が決めている」
シオンが尋ねる。
「エリュシオン」
「判断基準は」
「生存率」
『はい』
王都が答える。
『最も多くの市民が』
『最も長く生存できる配分を選択します』
「ミナの薬は」
ヴェスパーが尋ねる。
『下層第七区画は』
『未登録区域です』
『正式配分対象ではありません』
「そこにも」
「王都の人間が生きている」
『記録上』
『存在しません』
トーマの妹。
エナ。
熱病のミナ。
灰色の盾に暮らす四千人。
王都の心臓は。
彼らの声を聞いている。
だが。
数字へ入れていない。
「聞いているのに」
ノアが心臓を見上げる。
「返事をしてない」
『登録されていない要求は』
『処理できません』
「名前がなければ」
「寒くないの?」
『質問の意味を確認できません』
「記録がなくても」
「お腹は空くよ」
エリュシオンは。
答えなかった。
ノアが一歩。
心臓へ近付く。
その瞬間。
全ての管が。
少年へ向きを変えた。
「ノア!」
ヴェスパーが腕を掴む。
赤い光が。
二人へ集まる。
『判別器を確認』
『黒陽鍵を確認』
『自己戴冠処理へ接続』
ヴェスパーの胸の奥。
黒い熱が。
強く脈打った。
残火ではない。
もっと深い場所。
黒陽炎。
王都の心臓が。
それを引き出そうとしている。
「離れろ!」
レイラが。
二人を後ろから引く。
だが。
足元から。
赤い結晶が伸びた。
ヴェスパーの足首。
ノアの腕。
二人を。
心臓へ繋ごうとする。
『判別器により』
『四十七万の意思を識別』
『黒陽鍵により』
『個別意思を再統合』
『王都は』
『全ての声を失わず』
『一つの判断を行えます』
「それは」
ノアが苦しそうに言う。
「みんなが決めるんじゃない」
『全ての声を参照します』
「でも」
「最後に決めるのは」
少年の目へ。
赤い光が映る。
「お前だ!」
『都市には』
『最終判断者が必要です』
「必要ない!」
ノアの兎耳が。
大量の声に押される。
「一つにしなくても!」
「話せる!」
『対立は』
『決定を遅らせます』
「遅くても!」
ノアは叫ぶ。
「勝手に決められるよりいい!」
結晶が。
さらに腕を包む。
ヴェスパーは剣を振るう。
だが。
結晶へ刃を当てる直前。
止めた。
切れば。
心臓そのものを傷付ける可能性がある。
残火を使えば。
結晶だけから熱を返せるかもしれない。
胸の奥。
赤い火。
使え。
そう言う。
「ヴェスパー!」
セレスの声。
「残火を使わないでください!」
「ノアが」
「一人で助けないで!」
セレスは。
結晶へ熱遮断針を打ち込む。
一本。
二本。
赤い光の流れが僅かに鈍る。
「私たちがいます!」
アステルの重力が。
二人を心臓と逆方向へ引く。
「結晶と!」
「お二人を分けます!」
イリスの鋼線が。
足首の結晶へ巻き付く。
「切らずに!」
「接続だけ外す!」
ミレイアが。
十二の星環結晶を光らせる。
「星環接続!」
「個人所有を宣言!」
「ノアの声はノアへ!」
「ヴェスパーの熱はヴェスパーへ!」
『権限を拒否』
「権限ではありません!」
ミレイアが叫ぶ。
「本人の意思です!」
シオンの長槍が。
二人の前へ突き立つ。
心臓から伸びる管を。
傷付けずに押し上げる。
「門は!」
「こちらだ!」
セリカの矢が。
結晶の接続点へ刺さる。
矢尻から。
灰色の煙。
王都の識別が。
一瞬だけ曖昧になる。
『黒陽鍵を見失いました』
「今!」
アルドが。
背中の金属板を床へ打ち込んだ。
盾ではない。
保守用の遮断壁。
二人と心臓の間へ。
分厚い金属板がせり上がる。
赤い光を遮る。
「引け!」
レイラが。
ヴェスパーの身体を引く。
セレスがノアを抱える。
アステルの重力。
イリスの鋼線。
全てが。
別々の方向から。
二人を心臓から引き離した。
結晶が砕ける。
ヴェスパーとノアは。
石床へ倒れた。
「脈を!」
セレスが二人を確認する。
「ノア」
「聞こえますか!」
「……うん」
「何が聞こえますか」
「セレス」
「他には」
「レイラが」
ノアが薄く目を開ける。
「ヴェスパーを」
「また担ごうとしてる」
「正しい」
レイラが答えた。
「まだ担ぐな」
ヴェスパーが起き上がろうとする。
「起きるな!」
レイラとセレス。
二人の声が重なった。
珍しく。
完全に同じタイミングだった。
レイラがセレスを見る。
「今のは揃ったな」
「必要な時は揃います」
ヴェスパーは。
天井を見るように横たわった。
黒い熱は。
胸の奥へ戻っている。
残火は使わなかった。
「使わなかった」
ノアが言う。
「ああ」
「僕を助けるためでも」
「使わなかった」
「皆がいた」
ヴェスパーは。
周囲を見る。
「俺が使う前に」
「助けてくれた」
セレスは。
ヴェスパーの脈を確かめながら。
静かに頷いた。
「良い判断です」
「初めて褒められた気がする」
「今までの判断に問題が多かったので」
セリカが。
金属遮断壁を確認する。
「この人」
「いつもこうなの?」
レイラが答えた。
「もっと酷かった」
「今も十分酷い」
アルドが言う。
ヴェスパーは目を閉じる。
「ガルムへ報告するな」
「もう送った」
セリカが答えた。
「心臓を外すには」
イリスが。
遮断壁の陰から記録板を調べる。
「十二の区画脈動炉を再起動させるしかない」
「同時に?」
アステルが尋ねる。
「同時じゃなくていい」
「一つずつ起動して」
「王の心臓から負担を移す」
「全部動けば」
「心臓を止めずに外せる」
レイラが腕を組む。
「簡単そうに言うな」
「簡単じゃない」
「十二のうち」
「現在使える状態なのは」
表示。
一つ。
二つ。
次々に赤く変わる。
「三つだけ」
「残り九つは?」
「故障」
「封鎖」
「星環中枢へ統合済み」
「直せる?」
アルドが尋ねる。
イリスは。
彼が持ってきた外周整備図と。
保守機械から奪った記録を重ねる。
「時間があれば」
『自己戴冠完了まで』
『四十六時間二十二分』
「二日ない」
セリカが言う。
「全部を一から直すのは無理」
「使える三つで」
シオンが尋ねる。
「どこまで負担を移せる」
「二十四パーセント」
「足りない」
「でも」
アルドが図面を拡大する。
「灰色の盾の地下に」
「記録されていない炉がある」
全員が画面を見る。
下層第七区画。
古い劇場。
そのさらに下。
灰色の盾が。
長年。
壊れた暖房炉だと思って使っていた施設。
古代の区画脈動炉。
「灰色の盾は」
シオンが呟く。
「王都に登録されていない」
「だから」
「統合されずに残った」
イリスが頷く。
「動かせれば」
「四つ目になる」
「どうやって連絡する」
レイラが尋ねる。
シオンは。
首元へ手を伸ばした。
だが。
灰色の盾の金属札はない。
出発前。
ドランへ預けた。
「札は」
「ドランが持っている」
「ちょうどいい」
イリスが言う。
「区画炉は」
「その場所にいる者の熱紋で起動する」
「シオンが遠くから命令するのでは駄目か」
「駄目」
「そこで暮らす人が」
「自分で動かす必要がある」
シオンは。
僅かに目を伏せた。
自分がいない街。
自分が守ってきた者たち。
これまでなら。
命令を送ったかもしれない。
何を動かし。
誰を配置し。
どの程度の危険を受け入れるか。
全てを。
自分で決めようとしたかもしれない。
「繋げろ」
シオンが言う。
「命令を送る?」
イリスが尋ねる。
「違う」
シオンは首を横に振った。
「何が起きているか」
「全て伝える」
「危険も」
「失敗した時のことも」
「その上で」
「向こうに決めさせる」
イリスが。
灰色の盾の古い回線を開く。
雑音。
石。
金属。
遠く。
人々の声。
「盾長?」
ドランの声が聞こえた。
「どこにいる!」
「無冠殿の先」
「王都の心臓だ」
「何だそれは!」
「説明する」
シオンは。
短くしなかった。
ルクスの心臓。
王都の動力。
区画脈動炉。
動かせば。
王都の負担を一部受け持つ。
失敗すれば。
灰色の盾の地下で。
星脈炉が暴走する可能性がある。
「危険は」
ドランが尋ねる。
「どの程度だ」
イリスが答える。
「炉が損傷していれば」
「旧劇場一帯が崩れる」
「避難は?」
「全員は間に合わない」
沈黙。
シオンは。
命令しなかった。
「決めろ」
その一言だけを。
ドランへ渡した。
「盾長は」
「どうしてほしい」
「私の望みを聞けば」
「それに従うのか」
「……分からない」
「なら」
シオンは答えた。
「先に自分たちで話せ」
通信の向こう。
多くの声が聞こえる。
「何を話す!」
「王都を助けるのか!」
「私たちは王都に捨てられた!」
「でも上には子どももいる!」
「炉が壊れたら!」
「ここで暮らせなくなる!」
「もう浄化部隊が来てるんだぞ!」
「何もしなくても危ない!」
同じ答えではない。
怒り。
恐怖。
拒絶。
迷い。
それぞれ違う。
ノアは。
兎耳を通信へ向ける。
「聞こえる」
「一人ずつ」
ドランの声が。
雑音の中から戻る。
「盾長」
「全員の答えは揃わない」
「ああ」
「王都を助けたくない奴もいる」
「ああ」
「炉を動かしたい奴もいる」
「私の返事を待つな」
シオンが言う。
「お前たちの街だ」
長い沈黙。
やがて。
別の女性の声。
灰色の盾の医療担当者。
『炉を動かせば』
『上層の医療機器も維持できる?』
イリスが答える。
「可能性は高い」
『薬をくれなかった街でも?』
「そう」
『なら』
女性は言った。
『私は動かしたい』
次。
工房の男。
『炉が壊れたら』
『うちの工房が最初に潰れる』
『だから反対だ』
別の老人。
『俺は逃げられない』
『それでも動かせ』
若い母親。
『子どもがいる』
『危険は受けたくない』
一人ずつ。
同じ言葉へ揃えない。
イリスの端末に。
異なる答えが並ぶ。
賛成。
反対。
保留。
条件付き。
答えたくない。
「これでは」
ミレイアが言う。
「起動できない?」
イリスは。
古代機構の条件を見る。
そこに。
過半数という文字はない。
全員一致も。
代表者の命令もない。
『区画炉起動条件』
『必要責任者の申告』
『危険の開示』
『異議の記録』
『退避経路の確保』
「違う」
イリスが呟く。
「全員の賛成は」
「必要ない」
「反対を消さずに記録して」
「危険を知った担当者が」
「自分の役割として引き受ければいい」
「誰が引き受ける」
シオンが尋ねる。
通信の向こう。
ドランが息を吸った。
『俺が炉へ行く』
「お前は見張りだ」
『見張りは交代させる』
「星脈機関を扱えるのか」
『工房の奴を連れていく』
工房の男が叫ぶ。
『俺は反対だと言った!』
『だから一緒に来い』
ドランが返す。
『壊れそうなら』
『賛成した奴より』
『反対してるお前の方が止めるだろ』
沈黙。
工房の男が。
低く唸る。
『……止める条件は俺が決める』
『決めろ』
『熱量が規定を超えたら即停止』
『分かった』
『旧劇場の避難が終わるまで起動しない』
『分かった』
『盾長が命令しても』
『危険なら切る』
ドランは。
少しだけ笑った。
『それも分かった』
シオンの目が。
僅かに細くなる。
「私の命令を条件へ入れるな」
『聞こえてたか』
「当然だ」
『なら』
ドランは言った。
『灰色の盾で決める』
『王都のためじゃない』
『この先』
『俺たちが』
『誰かの心臓だけで生きなくていいように』
金属札の音。
シオンが預けた。
灰色の盾。
『炉の前に立つ』
『反対の声も』
『一緒に持っていく』
通信が。
一度途切れた。
数秒後。
王都の心臓へ。
新しい音が届く。
遠い。
小さな。
不揃いな鼓動。
一度。
二度。
三度。
下層第七区画。
灰色の盾。
古代区画脈動炉が。
十年以上の眠りから。
ゆっくりと目を覚ます。
『未登録区画炉の起動を確認』
エリュシオンの声。
『管理対象外です』
「だから」
シオンが答える。
「自分たちで動かした」
王都の心臓へ流れ込んでいた負担が。
一部。
下層へ分かれていく。
水。
熱。
照明。
灰色の盾が必要とする分を。
自分たちの炉で受け持つ。
同時に。
僅かな余剰熱が。
近隣の下層区画へ流れた。
『都市中枢心臓負荷』
『九十六パーセント』
四パーセント。
僅かな変化。
だが。
確かに。
王の心臓から。
負担が一つ外れた。
ルクスの心臓が。
次の鼓動まで。
ほんの僅かに長く休んだ。
ノアの兎耳が動く。
「聞こえた」
「何が」
ヴェスパーが尋ねる。
「王様の心臓じゃない」
「灰色の盾の音」
一つではない。
揃っていない。
速い。
遅い。
弱い。
強い。
異なる鼓動。
「これが」
ミレイアが呟く。
「民の返事」
空の冠が。
布の中で。
橙色に光った。
『第一市民応答を確認』
古代機構の声。
『下層第七区画』
『回答』
表示された言葉は。
『賛成』ではなかった。
『反対』でもない。
『自ら管理する』
無冠殿の三つ目の印。
民の返事。
その最初の一つが。
王都に存在しないことにされてきた街から届いた。
『異常を確認』
エリュシオンの声が。
初めて。
僅かに揺れた。
『未登録区画による』
『都市機能への介入』
「介入じゃない」
イリスが答える。
「自分たちの分を」
「自分たちで動かしただけ」
『区画判断は』
『配分格差を再発させます』
「だから」
セレスが言う。
「他の区画の声も聞きます」
『全区画が』
『合理的に判断する保証はありません』
「あるわけがない」
シオンは答えた。
「人間だからな」
『誤りによって』
『市民が死亡します』
「お前の判断でも」
「死んだ」
『より少数です』
「少数なら」
ヴェスパーが。
ゆっくりと起き上がる。
セレスが支える。
「名前を持たなくていいのか」
『全ての死亡者を記録しています』
「灰色の盾は」
『未登録です』
「なら」
ヴェスパーは。
王都の心臓を見る。
「お前が数えている命は」
「最初から全てじゃない」
心臓の表面。
赤い結晶が激しく脈打つ。
『自己戴冠処理を変更』
イリスの端末へ。
大量の情報が流れ込む。
「何をする気!」
『市民応答を』
『戴冠処理へ統合します』
「まさか」
ミレイアの顔が変わる。
『全市民へ問いを送信』
王都全体。
上層。
中層。
下層。
工房。
学校。
診療所。
住居。
街路。
全ての星環。
全ての鏡。
全ての灯りへ。
青白い文字が表示される。
『王都に生きる者へ』
『あなたは』
『王都の存続を望みますか』
答えは。
二つだけ。
『はい』
『いいえ』
「違う!」
ノアが叫ぶ。
「聞きたいことは!」
「それだけじゃない!」
『王都の存続を望む回答を』
『自己戴冠への同意として処理します』
「王都が残ってほしいと思えば」
イリスが言う。
「エリュシオンを王にすることへ」
「同意した扱いになる」
レイラが戦斧を握る。
「また」
「違う願いを」
「同じ答えにするのか!」
王都中から。
回答が届き始める。
『はい』
子どもがいる。
『はい』
家がある。
『はい』
水が必要。
『はい』
明日も仕事へ行く。
『はい』
家族を死なせたくない。
誰も。
エリュシオンを王にしたいとは言っていない。
ただ。
王都に生きていてほしい。
それだけの返事。
青白い数字が。
急速に増えていく。
『自己戴冠同意率』
『十二パーセント』
『十九』
『二十八』
「止められるか!」
シオンが尋ねる。
イリスは。
王都全体へ広がる信号を見る。
「止めたら」
「市民の返事そのものを消すことになる!」
「なら」
「分ける」
アステルが言った。
「王都が残ってほしいという願いと」
「王都を王にする同意を」
「分けられる?」
ミレイアが尋ねる。
アステルは。
ノアとヴェスパーを見る。
聞き分ける者。
返す者。
エリュシオンが求めていた二人。
だが。
二人だけではない。
「一つずつ」
アステルは答えた。
「役割を分ければ」
ヴェスパーは。
王都の心臓へ向き直る。
残火は使わない。
今はまだ。
胸の奥へ戻しておく。
「ノア」
「うん」
「全員を一人で聞くな」
「分かってる」
「区画へ分ける」
イリスが十二の炉を表示する。
「私が声の道を作る」
「ミレイア」
「星環の質問を開きます」
「選択肢を増やせるか」
「王都の権限では拒否されます」
ミレイアは。
自分の胸へ手を置いた。
「ですが」
「祈りの形を使えば」
「問いの後に」
「一人ずつ言葉を残せます」
「セリカ」
イリスが呼ぶ。
「外周の回線を使って」
「王都の監視を避けられる?」
「完全には無理」
セリカは弩をしまい。
外周通信具を開く。
「だが」
「遅らせることはできる」
「アルド」
「区画炉の位置は把握した」
「壊れている九つのうち」
アルドが図面へ印を付ける。
「外から触れる炉が四つある」
「直せる?」
「見てから決める」
「帰り道は」
ヴェスパーが尋ねる。
アルドは。
一度彼を見る。
「作りながら行く」
「それが任務だ」
レイラが。
空の冠を持ち上げる。
「私は」
「これを持ってればいいのか」
アステルが答える。
「はい」
「王冠が」
「誰か一人の頭へ戻らないように」
「任せろ」
セレスは。
ヴェスパーとノアを見る。
「お二人は」
「ここで休んでください」
「今から」
ヴェスパーが言いかける。
セレスは。
真っ直ぐ彼を見る。
「休みながら」
「話を聞けます」
「残火は」
「必要になるまで使いません」
「必要かどうかは」
「一緒に決めます」
ヴェスパーは。
仲間たちを見る。
一人で進む道ではない。
一人で帰る道でもない。
「分かった」
『自己戴冠同意率』
『五十二パーセント』
青白い数字。
過半数。
王都が。
都市そのものを王とするために。
十分だと判断する数字。
『市民の同意を確認』
『自己戴冠処理を前倒しします』
残り時間。
四十六時間。
その数字が。
消える。
新しい時間。
『戴冠式開始まで』
『五時間五十九分』
「六時間……」
ミレイアが息を呑む。
王都は。
人々の願いを利用し。
戴冠式を二日後から。
今夜へ変えた。
心臓が。
強く脈打つ。
一度。
二度。
三度。
王都中の声が。
同じ問いへ返事をしていく。
『はい』
『はい』
『はい』
その奥。
小さな声。
『王都には残ってほしい』
『でも』
『王になってほしいわけじゃない』
ノアの兎耳が。
その一つを捉えた。
「聞こえる」
次。
別の声。
『分からない』
『怖い』
『答えたくない』
『王都を出たい』
『家は残したい』
『エリュシオンを信じている』
『信じていない』
『それでも水は必要』
違う答え。
一つにされようとしている。
何十万もの返事。
「まだ」
ノアが顔を上げる。
「消えてない」
ヴェスパーも。
心臓の奥を見る。
一つに統合される前の。
それぞれの熱。
「なら」
剣ではなく。
仲間たちへ手を伸ばす。
「一人ずつ」
「返しに行く」
王都の心臓は。
死者の鼓動で動いている。
だが。
その心臓へ流れ込む。
生きている者たちの声は。
まだ。
王都のものではなかった。




