第一章 蜃気楼の牙
プロローグ
「燃える故郷」
世界は、灰に覆われた。
誰もがそう語る。
二百年前。
空は裂け、大地は崩れ、海は荒れ、山は砕けた。
後に**『灰の大災厄』**と呼ばれるその日から、世界は変わってしまった。
緑豊かな平原は砂に埋もれ、巨大な都市は瓦礫となり、多くの文明が歴史の中へ消えていった。
それでも人は生きることを諦めなかった。
砂漠には城壁都市が築かれ、海には港町が栄え、山には鍛冶師が集い、雪原には古き民が生き続けた。
人間も。
獣人も。
亜人も。
種族の違いを越えて、生き延びるために手を取り合った。
しかし――
世界から争いが消えることはなかった。
砂漠の交易路には盗賊が現れ、遺跡では未知の怪物が目を覚まし、闇では「黒い翼」と呼ばれる組織が静かに暗躍していた。
その名を知る者は少ない。
だが、その紋章を見た者は、決して幸せな最期を迎えないと言われている。
「逃げろ!!」
その叫びで、少年は目を覚ました。
まだ幼い。
十にも満たない狼耳の少年。
ヴェスパー。
外は赤く染まっていた。
夕焼けではない。
炎だった。
家が燃えている。
隣家も。
その向こうも。
村のすべてが炎に包まれていた。
「母さん……?」
返事はない。
外へ飛び出す。
熱風が肌を刺した。
目に飛び込んできたのは、見慣れた村ではなかった。
倒れた人々。
崩れた家々。
焼け焦げた木々。
泣き叫ぶ子ども。
剣を握ったまま動かない大人たち。
獣人も、人間も、亜人も関係なく倒れている。
村は戦場になっていた。
「父さん!」
必死に走る。
転び、砂に手をつく。
熱い。
それでも立ち上がる。
「どこ……!」
その時だった。
黒い影が目の前を横切る。
ヴェスパーは反射的に身を縮めた。
炎の向こうに、一人の男が立っていた。
漆黒の外套。
長い大剣。
狼の耳。
そして胸元には、見たこともない黒い紋章。
羽を広げたような、不気味な印。
男はこちらを見ることもなく、静かに歩き去っていく。
その背中を見た瞬間、胸の奥が凍りつくような恐怖に襲われた。
――あれが、この村を。
そう思った瞬間だった。
視界が揺れた。
「おい。」
低い声。
振り返る。
そこには、別の狼獣人が立っていた。
肩まで伸びた灰色の髪。
歴戦の傷を刻んだ顔。
黒い外套をまとい、大剣を背負っている。
男は村の惨状を見渡し、静かに少年の前へ歩み寄った。
「立て。」
ヴェスパーは動けなかった。
涙が止まらない。
身体も震えている。
男はもう一度言った。
「立て。」
その声には怒りも優しさもなかった。
ただ、生きろという強い意志だけがあった。
「……父さんが……」
震える声が漏れる。
男はゆっくりと首を横に振った。
「今、お前がやることは泣くことじゃない。」
「生きることだ。」
ヴェスパーは唇を噛んだ。
涙で霞む視界の中、燃え続ける故郷を見つめる。
この景色は、一生忘れない。
男は背を向けた。
「名前は。」
「……ヴェスパー。」
「そうか。」
男は短く頷く。
「俺はガルム。」
初めてその名を聞いた。
ガルムは砂に突き立てられた一本の剣を引き抜き、少年へ差し出した。
「この世界で、生き残りたいか。」
ヴェスパーは剣を見つめた。
震える手で柄を握る。
冷たい鉄の感触が、熱に包まれた世界の中で不思議と現実を教えてくれた。
ゆっくりと頷く。
ガルムは静かに笑った。
「なら来い。」
「今日から、お前は俺の弟子だ。」
炎が夜空を焦がす。
灰が風に舞う。
少年は最後に一度だけ故郷を振り返った。
そして二度と、その村へ戻ることはなかった。
――あの日、灰に覆われた空を見上げた少年は、まだ知らなかった。
やがて人々がこの世界を、「灰の星」と呼ぶことになることを。




