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第1話

『お前は手がかからなくて助かる』


 その一言で、全てがどうでも良くなった。

 幼い頃から共に居た――これからも生涯を共にする筈だった婚約者は、もういない。

 目の前にいるのは、欲に塗れた駄犬だ――。



 ノアは静かに息をついた。

 今日も婚約者――ルーカスは、他の女の匂いを纏わせている。


 月に一度の婚約者同士でのお茶会。

 とっておきのドレスを着て、少しだけ化粧を施して。自身で刺した刺繍付のハンカチのプレゼントまで用意していたというのに。


 待たされること一時間。

 ようやく現れた彼は、きつい香水の匂いをまとったままだった。


「悪いな、待たせてしまって」

「いえ、大丈夫ですわ」


 にこりと微笑みながらも、心のどこかがパキりと音を立てる。ルーカスは遅れた理由について、女性と遊んでいた、と平然と言ってのけた。

 パキりパキり。心が音を立て、なにかが壊れていく。

 後ろにいる侍従が、顔を青ざめさせていた。


 そして冒頭の言葉である。


(あ、この方、わたくしがいなくても大丈夫そう)


 その瞬間、ノアの中で確実に、皮一枚で繋がっていた“なにか”が切れた。


「ノア?どうしたんだよ。おい、聞いてるのか」


 その後のことは、よく覚えていない。

 気がつけば彼は苛立ったように帰っていて、部屋には静寂だけが落ちていた。



 ノアはソファに身を沈ませながら、お気に入りのクッションを抱きしめる。ぼんやりと天井を眺め、今日の言葉を思い返していた。


(そろそろ潮時ね)


 嫉妬も、悲しみも、とうの昔に潰えてしまった。

 今はただ、「あぁまたか」という、慣れの末に身につけた感情だけが残っている。


(それにしても……)


 ふと、思う。


(そんなに楽しいのかしら。女の人を口説くのって)


 そして――


(……私も、やってみましょうか)


 それはあまりにも軽く。

 けれどそれが、全ての始まりだった。


 そうして、ルーカスへのささやかな復讐――が少し。そして令嬢を口説いてみたいという好奇心が大半で、ノアの男装は決まったのである。



 ◇◇◇


 サラリとした白髪はバッサリ切り、短髪に。

 きめ細かい肌には化粧を施し、魅惑のリップをひと塗り。制服はバチッと着こなして、胸元には薔薇の家紋が入ったハンカチを差す。


(もし、男性に生まれたのならば)


 鏡台の前で前髪をセットして、最後に凛々しい眉を書く。


(こんなにも、世界は変わって見えるのね)


 元々高めの上背を更に底上げするシークレットブーツを履いて、ノアは鞄を肩にかけた。


“彼”の表向きの名はノアール。

 今年から、“公爵令嬢ノア”の代わりに魔法学園へ通う、男爵子息である。



(意外とあっさりいったわ)


 馬車に揺られながら、昨日の出来事を思い出す。


 ――あの後、ノアは家族に、魔法学園に男装して通いたいという旨を話した。

 公爵当主は何かを察したようで、その申し出を直ぐに了承し専用の戸籍まで用意してくれた。

 ノアの母は、「強さを見せなさい」と笑いながら背を押してくれていた。


(本当、いい家族を持って良かったわ)


 ノアが今日の今日まで強く居られたのは、強かな母と寛大な父の影響が大きかっただろう。

 ノアはここまでしてくれた手前、ライリス公爵家の名に恥じぬ行いをしなければ、と一層気を引き締めた。


 ◇◇◇


 空気が騒つく。皆の視線は、門からやってきた一人の麗人に注がれていた。


「誰、あれ!」

「か、かっこいいわ……!」


 令嬢たちの黄色い歓声が響き渡る。

 麗人はその歓声をものともせず、堂々と玄関口へ向かう。その途中、走っていた一人の令嬢が、その人にぶつかった。


「あっ、す、すみませ……」


 麗人――ノアールは令嬢の手を取ると、その甲に口付けて言った。


「大丈夫ですかレディ。お怪我は?」

「「きゃぁぁぁ〜〜!」」


 少し低めで、しかし透き通るような声に、令嬢たちは黄色い歓声を上げる。


「は、はう……」


 口付けられた令嬢に至っては、鼻血を出してヘナヘナと座り込んでしまった。ノアールが令嬢ににこりと微笑むと、たちまち黄色い声が響く。


(あら……)


 ノアは心の中で微笑みながら思う。


(思っていたよりずっと簡単ね)


 玄関口で靴を履き替えれば、その仕草にもまた、皆の視線が釘付けになっていた。


(それに……)


 ちらりと右に視線をずらす。

 そこにはこちらを憎々しげに見ているルーカスの姿があった。


(……少し、楽しいかもしれない)


 ふっと笑いかければ、ルーカスの近くに居た女性が顔を赤くする。それを見たルーカスの間抜けな表情に、心の内がすっと澄んでいくような気がした。


(決めたわ。奪われた分、奪い返す)


 口元に妖艶な弧を描く。


(“今度”は私が、ルーカスの愛する女性たちを奪って差し上げましょう)


 その顔は実に美しく、今朝は医務室が大変なことになったのだとか。

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