第14話 残響
急な打ち合わせが入って遅れてしまった。
ちゃんと始めているかな?
連絡はいれたが、大丈夫か?
店の奥に通されると、みんなすでに酒は入っているようで、ホッと胸をなでおろす。
勧められた上座に腰を下ろし、上着を脱いだ。
鍋は火にかけられていて、鍋蓋の端から湯気が揺らめいている。
瓶ビールが到着すると、西野が酌をしてくれる。
課の面々が静かになり、和朗を待つ。
「では、課長。お願いします」
そう言われて和朗はグラスを持ち上げた。
皆の視線が集まる。
大したことを言う必要はない。
「一年、お疲れさまでした……無事にここまで来られたのは、みんなのおかげです。今日は忘れて飲もう。乾杯」
「「乾杯ー」」
グラスのぶつかる音が響き、再び会話が広がっていく。
一口含むと、苦味が広がって、喉を通る炭酸に思わず顔がしわくちゃになる。
「課長どうぞ」
西野が料理を取り分けてくれる。
「ああ。ありがとう」
最初は遠慮がちだった箸も、鍋の蓋が取られてからは早かった。
事前に取り分けられていた小皿もどんどん減っていく。
「課長、今年はほんと忙しかったですよね」
「お前が夏にやらかしたからだろ」
「あれは不可抗力ですって」
「先方の社名を一文字間違えるのは不可抗力じゃない」
笑いが起きて、河野が苦笑いをしながら頭を掻く。
西野が「でも立て直したじゃない」と助け舟。
山辺が「そこだけ切り取ると美談なんだよな」と返して卓を温める。
ビールが二杯目に入り、それぞれが好みの酒を頼みだす頃には、話題も仕事から離れ始めていた。
実家に帰る帰らない、親に見合いを勧められた、甥が懐かない。
どうでもよさそうな小話が、湯気を通って消えていく。
誰かが恋人の話を出し、元彼女に荷物を返しそびれていると言って笑いを取った。
斜め向かいの小林が「課長はそういうのないんですか」と口にしかけ、隣の社員が小さく肘でつついた。
さっと静かになる。
「あ、いや……」
和朗はその動きを見て、箸を置いた。
「いいよ。気にするな」
「すいません」
苦笑いをしたが、可哀想かと思い近況を少し出す。
「まあ、ようやくだな」
「そうなんですか?」
隣の西野が聞いてくる。
「前の事もあるから、あまり話してないんだ」
愛花も別部署で働いていたのだ。
直接知っている人はまだ多い。
「ただ、もう過ぎた話さ。そこまで気を使わなくても大丈夫だ」
「じゃあ遠慮なく」
と誰かが笑って、「課長、昔モテそうですよね」と軽く振った。
「昔ってなんだよ」と別の声が飛び、
「今もだろ」とからかわれる。
和朗は曖昧に笑って鍋の白菜を取り分けた。
噛むと白菜の甘味に混じって出汁が染み出す。
「そういえば」
日本酒をついだ西野が、思い出したように言った。
「あの修羅場すごかったですよね」
「修羅場?」
顔を上げて西野を見る。
「課長、知らないんですか」
「何の話だ」
「ほら、会社に女の人が乗り込んできたやつです。営業二課の……」
言われてもすぐに誰とは結びつかない。
小首を傾げていると、
「ご存じないんですか? 赤塚が修羅場ったんですよ」
「ああ。あれは赤塚くんなのか。聞き流してよく把握してなかったんだ」
「そうですよ。俺、その日たまたま近くにいて。大変でした。エントランスで女性が怒鳴ってて」
「すごかったよねえ」
「この浮気者、とか何とか」
「浮気者っていうか、聞いてたら複数いたらしいよ」
「そうなの?」
「女の世話ばかりさせてっても言ってたね」
「相手の言葉を鵜呑みにするなら」
「流石にまずいよね」
「だろ。今、自宅待機らしいですよ」
「そりゃそうなるか」
鍋を囲んだまま、何人かが赤塚を肴にし始める。
当然だ。
そういう修羅場に立ち会うなんて滅多にあることじゃない。
赤塚くんは良くも悪くも噂話のない男だったと思う。
役付きとの話にも滅多に出る名前ではない。
可も不可もない。
上手に立ちまわってきたのが破綻したのか……。
会社としては問題外だが、個々人のいいネタ話にはなっただろう。
和朗は赤塚くんの話を聞きながら、顔を思い出していた。
優しそうな青年だったと思う。
受け答えは丁寧で、仕事も軽くはない。
表に出るタイプでもないが、目立って不真面目な印象もなかった。
割り切るタイプか?
「でも、ちょっと分かるかも」
西野が徳利を置いて言った。
えっ?と、みんなの視線がそちらへ流れる。
「何が」
「なんか彼、ほっとけない感じあるじゃないですか。頼りなさそうなのに、目だけは妙に真っすぐで」
「あー」
賛同する声が二、三重なる。
「分かる。あの僕なにもしてませんけど?みたいな顔」
「それ褒めてないだろ」
「でもちょっと、いいかな、くらいには思うかも。ああいう雰囲気」
「西野さんでもそうなんすか」
「でも、って何よ」
また笑いが起きて「ふうん」とだけ返したが、すごいのがいたもんだなとしか思えない。
話題はそこから、一番見る目がないのは誰かという妙な流れになり、学生時代の失敗談や、マッチングアプリで会った変な相手の話にずれていった。
鍋はもうほとんどなくなって、追加の具材が運ばれてくる。
和朗は勧められるまま小皿を受け取り、礼だけ言って箸を伸ばした。
その時、内ポケットのスマートフォンが小さく震えた。
「ちょっとすまん」
断りを入れてスマホを確認する。
画面に表示された通知を見て、手を止める。
『四季谷』
文面は短い。
『気を付けて帰ってきてね』
グラスを持ち残ったビールを飲み干す。
炭酸がこみ上げてきたが、口元はわずかに緩んでいた。
「……課長?」
向かいから声が飛ぶ。
「女ですか?」
無遠慮な調子に、何人かが吹き出した。
和朗は一拍遅れて顔を上げる。
「いや、すまん。聞いてなかった」
苦笑しながらグラスを置く。
さて、どう話したものか。




