チェシャ猫、笑う。
こんな状態の自分が抱えている悩みは、実に贅沢なものだと、月子は思っている。だが、彼と付き合うということの大変さは、確かに付き合う前に考えていたよりも、ずっと大きかった。
体だけの関係が終わり、恋人、という銘柄のついた関係を開始してもうすぐ一か月が経過する。堀野月子は、自分には勿体ないほどいい男である恋人、三枝智樹の愛情を一身に浴びて過ごしてきた。その愛情は求めていたものだったので勿論嬉しい。けれど、想像していたよりも、なんだかちょっと味わいが違った。
なんというか、少々、智樹の性癖は、特殊らしい。それは、あのひと幕で告白されていたことなので覚悟していた。こう、SやMといったアルファベットを並べると出てくる、インモラルかつハード、けれどエロティックな扉に関係していると考えていた。それに対する知識も、ネットや初心者向けの本をこっそり通販など駆使して手に入れ、青ざめたり赤らめたりしながら覚悟を決めている。まあ、あんまりあれやそれやは無理だけれど、そこは話し合って最大限の歩み寄りを見せる度量はあるつもりだ。そんな、ちょっと恥ずかしくとも、真面目に考えていたのだが。
どうやら、そんな簡単な分類ではないらしいと、月子は悩んでいた。
「ねえ、月子さん」
「はい?」
「むらむらしてきちゃった」
ぴたり、と皿を洗っていた手を止めて、月子は振りかえった。
明日の天気、晴れなんだって。そうとでも告げられそうな何気ない雰囲気の言葉だった。だが、内容は流せるようなものでは到底ない。驚愕と不審を顔にありありと浮かべた月子を視界の端にも入れず、いろいろと問題のある発言をした張本人は、くつろいだ姿勢でテレビを見ていた。こちらに視線を投げてはいない。振り返る雰囲気もない。それなのに、なんだかこちらを凝視されているような気がして、月子は眉根を寄せた。
「あの、智樹さん? いかがしましたか?」
「なんにも? ただ、月子さんの手料理食べて、まったりテレビを見てたら、ああ月子さんといちゃいちゃえろえろらぶらぶしたいなぁって気持ちが湧き上がってきちゃって。だからむらむらしてきたよって伝えたかっただけ」
「……そうですか」
「うん」
それだけだから、と、実ににこやかに会話を締めくくり、そのままチャンネルを変え始める。コマーシャルに入ると彼は別のチャンネルにまわす癖がある。ザッピングというらしい。コマーシャルも面白いものですよ?と告げれば、それは分かるんだけどね、とおだやかに微笑んでいた。
細切れにされる音声に、いつも通りだなあと和やかな気持ちを抱き、皿にスポンジを滑らせた。
(いやいや、そういうことじゃなくて)
いつも通りの光景にほんわりして、大事なことを忘れかけていた。
むらむらした? いちゃいちゃえろえろらぶらぶしたくなった?
それは、そういうことではないのだろうか。筆舌しがたい、吐息と唾液を絡め、指と腰を繋げる、あの濃密な時間の意味合いでは。
なんてことはないように言い放ったが、一瞬よぎった声の甘さは間違いなくあの時の蜜と一緒の味がした。とろりと濃くて、嚥下してもどこか下腹に沈殿して、そのまま次を強請りたくなる、そんなふしだらで気持ちのいい、たまらない、あの。
そこまで想像して、かーっと顔に熱が上がるのを月子は感じた。明らかにそれを想像をした自分を恥じると同時に、そこを待ち望んでいるように唾を飲み込んでしまった自分が信じられない。止まってしまった手を慌てて動かし始める。泡に塗れた手が、思わず皿の上を滑りそうになり、適度に力を込めた。きゅ、っと悲鳴のような音が上がる。
ざぁぁ、と水の流れる音と、テレビからの騒がしさ、そして自分の心臓の音だけが、月子の耳に響いていた。
どきどき、どきどき。いや、もはや自分の心臓の音のみの世界だ。顔は耳まで赤く、目はやや潤み始めている。吐く息が妙に熱っぽくて、唇が火照った。
(えろえろだ、わたしえろえろになっちゃったんだ…っ!!)
平静を装って皿を洗いながら、月子は自分の体の変化に愕然としていた。
いわゆる体だけの関係から始まった二人だ、そういった事柄に対する敷居はほかの付き合いたてカップルに比べればぐっと低いだろう。事実、気持ちを通じ合わせた一か月間、智樹と過ごす夜はとっぷりとチョコレートのような時間を過ごしている。ぐずぐずに溶かされていく甘ったるい時間は、苦みという苦みすら旨みと歓びに変えてしまうくらい、月子はそれに溺れていた。溺れさせられていた、とも言えるかもしれない。だが、抵抗する気力も意思もないなら、何の違いもないだろう。
とにもかくにも、今までのお付き合いした人とは考えたこともないほどの充実した生活に、月子の思考が多少ぴんくなことになっても、誰も責められない。そして、責めるよりも羨ましがるだろう。愛されているのだよ、と。女として、それはとても喜ばしいじゃないか、と。
だが、月子にとっては恥じ入るしかできない事態だ。無茶苦茶だ。えろえろだ。穴があったら自主的に扉までつけて入りたいくらいの衝動だ。基本的に善良な性質で、性的なことに対しては秘するが華という考え方を月子は持っている。それは、社会的にはもちろんだが、自分に対しても適用されていた。性的なものは極力避け、恋愛小説もソフトなものを選び、ちょっと濃厚なベッドシーンがあると慌ててしまう。興味はあるものの、それをあまりよしとしてこなかった節がある。そんな月子にとって、それはとてつもない衝撃だった。
(どうしよう、わたし、いいい、いんらんに、なっちゃったのかなぁ…っ)
そんな破廉恥な。ふしだらな。そんな子に育てた覚えはありません、と郷里の母が困ったように指摘してくる様子が目に浮かぶ。ああ、ごめんなさいお母さん。ここまで大人になる予定はなかったのですが。
瞼の裏でしかめ面する母に、目を潤ませた。
(こんなふうになったって知られたら、智樹さんに、きらわれるかなあ…)
ちょっとしたことで、こんなに夜を想像して、妄想して、期待してしまうような女性を恋人はどう思うだろう。かわいいと言ってくれるだろうか。月子には分からない。小説ではかわいい、と言っているシーンがある。キスを期待した主人公に対して、よくヒーローはそういった。でもそんなレベルではない。月子が思い浮かべたのは、もっとどろどろの厭らしく深いものだ。映画ではどうだっただろう。色々なものの本には。
ぐるぐると頭の中で今自分の起きている変化に戸惑い、涙目になって分析する彼女が、突然ゆるりと現れた腕に柔らかく拘束される。びっくりして振り向けば、そこにいるのは原因となった、にっこりと笑う男だった。
「ねえ、どうしたの月子さん。もう洗い物終わったのに、こっちこないで」
ぴくん、と肩が跳ねる。耳の縁に当たった柔らかなものは智樹の唇だろうか。少しだけ頬に滑る空気の流れは、智樹の吐息だろうか。そんな考えを打ち消すように、慌てて月子は舌を動かす。
「ちょ、ちょっと考え事をしてただけです」
「考え事? なに考えてたの?」
「え、いや、し、仕事のこととか」
「明日お休みなのに?」
「ちょっと、たまってるんです」
「全部片づけたって、得意げに言ってたよね」
喋るたびに掠める柔らかさと、吐息と、そして低くて心地い声に、月子の頭の中はぐちゃぐちゃだ。厭らしいことを考えていたなんて誰が言えるだろう。絶対に言えない。少なくとも月子には無理な話だ。やっと想いを通じ合わせた愛しい人に、どうしてそんなみっともないことを告白しなければならないのか。それは月子の羞恥心と矜持にかけて、難題であることは確かだった。
だがそれをきれいにくみ取って尚、笑う男がいる。
顔を真っ赤にして、潤んだ眼を泳がせて、体を強張らせて、つたない言い訳をしている恋人を見て、智樹はにっこりと笑む。ああ、かわいくて、かわいくて、食べてしまいたい。
「ねえ、月子さん。ほんとは何を考えてたの?」
「ち、違うんです。ちょっとぼーっとしてただで、何にもないの」
「へえ、嘘ついたの? ひどいなあ」
「ご、ごめんなさい」
「…うそつき」
少しだけ力を入れて、こりこりと耳を歯で愛でた。かわいそうなくらい、大きく跳ねる体を、抱きしめた腕で逃がさない。声も出ないほど動揺している月子がたまらなくて、智樹は舌で今度はそれを愛でる。ひあ、と細く甘い声が恋人の喉から漏れた。なんてかわいいんだろう。なんて、美味しそうなんだろう。ぐらぐらと煮立つような欲望が、智樹の脳髄を甘く痺れさせる。
恐らく、月子の脳髄もとろけそうな具合に熱されているだろう。いきなり投げつけられた色っぽい発言と、それに発情した自分に。その居たたまれなさに板挟みになって、あたふたしきっていることだろう。そう考えて、智樹はうっとりと笑う。なんて可愛い。
「ねえ、むらむらしちゃった?」
「!」
「おれに言われて、想像したの? おれと、いろいろすること、とか?」
「あ、…う…」
「当たった? …やらしいね、月子さん」
ちゅう、と柔らかくて、けれど歯ごたえのある肉を吸う。神経の集中した場所だ、こりこりと軟骨も愛でた。ぷるんとした食感と触感に、ぞわぞわと背中を撫で上げられる。その感覚は月子も同様だったようで、あぅ、と泣き出しそうな悦びに濡れた声を上げて、かすかに震えた。
かわいそうなくらい動揺している様を、ころころと転がすようにして智樹は愛でる。頭のてっぺんから、つま先まで、擦り込むように苛め抜いてやりたい。月子のもつ、やや潔癖で生真面目な感覚は、そういった意味で絶好の対象だ。たまらない。たまらない。可愛らしい。ぐちゃぐちゃに踏み潰して、ぐちゃぐちゃに噛み砕いて、どろどろに閉じ込めて、そして、愛してあげたい。
「ちが…そんなこと、おもって、…っ」
「へえ、違うの? 寂しいなあ。おれはそういうことしたいって思ってたのに」
「っ、ふ、」
「でも、月子さんが違うならいいかな。同意でやるべきことだしね」
追いつめられて真っ赤になっている頬を、ゆっくりと煽るように舐めた。唾液の線が、室内の照明に照らされて少しだけ反射する。それがたまらなく可愛くて、いやらしい。それを見てから、ゆっくりと月子を抱きしめていた腕を緩める。嬲るように、焦らすように、ゆっくりと腕を離していく。と。
「と、ともき、さんっ」
「ん? なあに? 月子さん」
咄嗟に掴んだのだろう月子に、智樹はにっこりと笑みを深める。掴んだ方の月子は、口をぱくぱくさせて、見上げた視線を逸らした。智樹のすんなりとした目に、浅ましい自分を見つめられるのがいたたまれず、もじもじと体をゆする。その様子を見て、眉をあげて申し訳なさそうに肩をすくめる。
「どうしたの? トイレに行きたい? ああごめんね、邪魔しちゃったね」
「ちが、違うの! トイレは平気! あの、……あのね?」
「うん」
月子は、吐き出せない言葉で酸欠になっていた。つっかえて苦しい。でも出さないこともまた苦しい。頭の中が熱くて、目の奥がカラカラで、口の中が妙に唾液でいっぱいだ。ごくりと喉を鳴らして飲んでも、またあふれてきて、言葉を遮って邪魔くさい。ああ、違うか、言葉が出たがっていないのか。
「あの、ね」
小さな子供のように俯いて、ほっそりとした項をむき出しにする月子を、智樹はうっとりと眺めていた。真面目で、下世話なことが苦手な彼女が、こんなにも自分とのことで恥ずかしがり、葛藤している。彼女の中に今、自分だけがいるのだと思うと、智樹はそのまま全身をくまなく可愛がりたくなるほどの喜びで満たされた。その項を羽のように触れて、甘く食んで、いじわるく舐めてしまいたい衝動を殺しながら、月子の言葉を聞く。
「あの、…その…」
「なあに、月子さん。してほしいこと、ちゃんと言ってよ。言えるでしょ? 月子さん、しっかりしてるもんね」
逃げ場を一つずつ、丁寧に塞いでいく。決して乱暴にはしない。そんなことをしたら、この可愛い可愛い恋人は怯えてしまう。智樹はそんなことがしたいわけではない。ただ、この子羊のようなかわいらしい月子の頭を、自分のことだけで埋め尽くされてくれればいいだけなのだ。安易な逃げ込み口などに行かせずに、ただ月子の頭のみで考えてもらえればいいのだ。そして歩いてくれればいいのだ。
自分の足で、智樹の腹の中に納まってくれればいいのだ。
とっぷりと、柔らかく。
「あの…」
どうすればいいのかなど、月子は考えられない。考えたくない。自分に芽生えた気持ちを見れば、どうすればいいかなどすぐに悟ることができた。ただ、それを現実にするためには、言わなければならない。言う必要がある。智樹に頼ろうにも、徐々に自らで告白せねばならない状況に陥っていることに、気づいていた。気づきながら、月子は抵抗もできない。抵抗できるはずもない。
(だって、だって好きなんだもの…!!)
そう、好きだからだ。そして、智樹との夜を望んでいるからだ。不明瞭な言葉を繰り返してばかりの自分を、智樹はせかすことなくそこにいてくれる。これだけ煮え切らない態度というのは、腹も立つしじれるだろう。ただ、一言言えばいいだけだというのに。そんな優柔不断な、踏ん切りのつかない自分を許してくれる彼に、月子は報いたいと思った。
甘やかしてくれる、彼を、愛しいと思っているから。
「あの、ね」
(女は度胸、愛には行動…っ)
ずっと伏せていた視線を上げる。見上げれば、そこには変わらない笑みでこちらを見ている、最愛の恋人がいた。どうするんだい? そう問いかけるように首をかしげてこちらを見ている。
恥ずかしさで、月子の目の奥は真っ赤に燃えていた。自然とこぼれそうになる涙は、みっともなくて必死で瞬きでごまかす。こんなことで泣くような、かわいい子ではない。
うまく回らない舌をもつれさせながら、必死で、言葉を紡いだ。
「えっちなこと、したい」
そう告げた瞬間、唇がふさがれて、俯く隙を失った。抗議とも悲鳴ともつかないくぐもった声をこぼしながら、お互いの舌に触れる。うねうねと大胆に動く筋肉の塊が、月子の言えなかった言葉の意味を正確に味わっていく。お互いの息が絡まって、どちらが吐き出したものかすらおぼつかない。時折いたずらに舌を食まれるたび、月子の体はびくんと跳ね上がった。
くてん、と力の抜けた月子の体を支えて、ごちそうさまでした、とばかりに口を離す。お互いの唾液でまみれた唇が、てらてらと光った。
「うん、俺もしたいから、ベッド行こうか」
にっこりとした笑みを見ながら、ぼんやりと月子はうなずく。すこしぼやけた視界の上で、智樹の笑顔はとても色っぽく、そして食えないような笑みだった。どこか満足げな、けれどとても飢えているような。形容するのが難しいけれど、ただ端的でいうなら。
(すっごく、やらしい)
「今日は月子さんにおねだりしてもらったからね、俺も頑張っちゃおうかな」
「え」
「すっごく興奮しちゃったんだ。…ね?」
軽々と抱き上げられて見上げた顔は、ひどくひどく楽しそうで。
月子は、この人と付き合うというのは本当に難しい、と恥ずかしさに火照った頭で思った。
****************************
そう思ったところで思考が途切れている。朝目覚めた月子は、満足げに自分を抱きしめて眠る智樹を見て、微笑んだ。そして柔らかくキスを落とす。
(…でもやっぱり、手放せないわ)
「大好きですよ、智樹さん」
「俺もだよ、月子さん」
ぱかっと目を開けてそう告げられた、そう認識したころにはもう遅く、月子はまた智樹の下で、その熱さにあえぐこととなる。
ひそやかな秘め事めいた口づけのはずが起きていた、というべたな展開を経て、月子は今朝がたの思考を後悔することとなったのは、自業自得であろうか。
そうまた沈んだベッドの上で月子は考え続けている。
答えは当分、まだ出そうにない。
彼と彼女と対比して、あだるてぃな大人の展開となりました。対照的ですね。
そしてこのままいくと、ムーンライトになりますね。思いのほか厄介なカップルです。特に智樹さんが。