第九話 人間の選択
その朝、桐島精一は田所孝平を社長室に呼んだ。
二人きりだった。秘書にも誰にも邪魔されない時間を、わざわざ確保した。
「田所さん、座ってくれ」
「いつもは立ったままなのに、今日は椅子か。深刻な話だな」
「深刻だ」
桐島は窓の前に立ち、しばらく外を見ていた。そして振り返った。
「田所さん、俺たちは三十年の付き合いだ。俺が設計部にいた頃から、あんたには世話になった」
「急にどうした」
「最初にAI駆動経営を決めたとき、一番反対したのはあんただった。そして──正直に言う──あんたの言っていたことの多くは、正しかった」
田所は驚いた顔をした。桐島がこれほど率直に認めるのを、見たことがなかった。
「AIは万能じゃない。現場を知らない人間が数字だけで判断すれば誤る。職人の技能をないがしろにすれば、取り返しのつかないことになる。全部、あんたの言った通りだ」
「桐島──社長」
「だが」桐島は言葉を切った。「あんたに一つ聞きたいことがある。AI駆動経営を止めて、昔のやり方に戻せば、桐島精機は生き残れるか」
田所は答えなかった。
「答えてくれ、田所さん」
「……分かってるだろう。無理だ」
田所の声は低く、重かった。
「分かってる。俺が反対してたのは、AIそのものじゃない。AIの裏に『人間はもういらない』というメッセージが見えたからだ。佐藤さんの腕を、三十年の経験を、データの一行に置き換えて終わり──そういう未来が見えたから、反対した」
「それを、沢村が変えたか」
田所は少し間を置いた。
「……変えたとまでは言わん。だが、あのDX室長は──沢村は、少なくとも聞こうとした。現場に来て、手を動かしている人間の話を、聞こうとした。それだけは認める」
桐島は椅子に座った。
「田所さん。来月の取締役会で、プロジェクトの継続か中止かを最終決定する。俺は継続するつもりだ。だが、やり方を変える」
「どう変える」
「AI駆動経営の定義を変える。AIが人間を駆動するのではなく、人間がAIを駆動する。主語を入れ替える」
「主語を入れ替える?」
「そうだ。今までは『AIに何ができるか』を起点にしていた。これからは『人間が何をすべきか』を起点にする。人間が自分の仕事の本質を再定義して、その上でAIをどう使うかを決める。順序が逆だったんだ」
田所はじっと桐島の言葉を聞いていた。
「佐藤さんの技能記録プロジェクトが、その象徴だ」桐島は続けた。「あのプロジェクトは、AIが佐藤さんの仕事を奪うために始めたんじゃない。佐藤さんの技能を未来に残すために始めたんだ。それを、全社に広げたい」
「……具体的には」
「各部門で、『人間がやるべきこと』と『AIに任せること』を、現場の人間が決める。トップダウンではなく、ボトムアップで。田所さん、製造部のリーダーとして、現場を仕切ってくれないか」
田所は長い間、黙っていた。
窓の外で、品川の街が日差しを受けて輝いている。
「……一つ条件がある」
「言ってくれ」
「佐藤さんの技能記録は、最優先で完成させる。佐藤さんの定年まで、あと半年ちょっとだ。それまでに、あの人の四十年分の知恵を、全部AIに叩き込む。それが、俺の条件だ」
「約束する」
田所はゆっくりと立ち上がった。
「分かった。やってやる」
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午後、桐島は沢村を呼んだ。
「取締役会の前に、あることをしたい」
「何でしょう」
「社員説明会だ。前回は俺が一方的にAI駆動経営を宣言した。今回は、社員の声を聞く場にしたい。全員が不安を抱えている。その不安に、正面から向き合わなければならない」
沢村は頷いた。「賛成です。ただ、どんな質問が飛んできても大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないかもしれない。だが、それでもやる」
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三日後、大会議室で社員説明会が開かれた。
前回と同じ五百人の顔が並んでいる。だが、空気は全く違っていた。半年の経験──成功と失敗の両方──が、全員の表情に刻まれていた。
桐島がマイクの前に立った。
「今日は、お話しするのではなく、聞きに来ました」
この一言で、会場の空気が微妙に変わった。
「AI駆動経営を始めて半年。成果もあったが、大きな失敗もあった。東翔エレクトロニクスの品質問題については、皆さんもご存知だと思います。あの責任は、経営者である私にあります」
桐島は頭を下げた。
「その上で、皆さんに聞きたい。このプロジェクトをどうすべきか。続けるべきか。止めるべきか。あるいは──変えるべきか。皆さんの声を聞かせてください」
しばらくの沈黙があった。
最初に手を挙げたのは、意外にも経理部の神山だった。
「経理部の神山です。正直に申し上げます。半年前、MINERVAが導入されたとき、私は自分の仕事がなくなると思って怖かった」
会場がざわめいた。地味で堅実なイメージの神山が、全社の前で感情を吐露するのは、誰も予想していなかった。
「でも、実際に使ってみて分かったことがあります。MINERVAは、私の仕事を奪ったのではなく、変えたんです。入力作業や照合作業は確かにAIが代わりにやるようになった。でもその分、私は数字の意味を考える時間ができた。『この先、会社はどこに向かうべきか』を、数字の側面から考える。それが、今の私の仕事です」
神山は少し声を震わせながら続けた。
「中学生の娘が言ったんです。『お母さんとAIはチームなんだね』って。その通りだと思います。チームのメンバーが一人増えた──そう考えれば、怖くないと思えるようになりました」
拍手が起きた。今度は、まばらではなかった。
次に手を挙げたのは、営業部の栗原だった。
「営業部の栗原です。俺はAIに反対だった。今も──正直、全面的には賛成じゃない」
会場に緊張が走った。
「だけどな」栗原は乱暴に頭を掻いた。「先月、俺が二十年担当してきた顧客の一社が、若手社員のAI提案に切り替えたいと言ってきた。理由は、AIの分析の方が正確で速いからだって。それを聞いて──悔しかったよ。でも同時に思った。俺の二十年は、いったい何だったんだと」
会場が静まりかえった。
「でも──林くんが言ってた。『最後に人間が勝負するのは二割だ』って。その二割は、二十年かけないと分からないことなんだよ。AIが八割やるなら、俺はその二割を、もっとやるしかない。そう思ったら──まあ、少しだけ前を向けた」
林が、目を赤くしながら栗原を見ていた。
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説明会は二時間に及んだ。
三十人以上が発言した。不安、期待、怒り、希望──すべてが入り混じった二時間だった。
最後に、桐島がマイクを持った。
「皆さん、ありがとうございました。全てのご意見を受け止めます。その上で──」
桐島は会場を見渡した。五百人の顔。一人一人に、名前があり、人生があり、仕事への想いがある。
「AI駆動経営を、続けます。ただし、これからは皆さんと一緒に、やり方を決めていきます。AIが何をするかは、現場の皆さんが決める。トップが押し付けるのではなく、現場から積み上げる。それが、桐島精機のAI駆動経営です」
桐島は一拍置いて、続けた。
「そして──その先の話もします。現場でのAI活用が軌道に乗ったら、次は経営判断にもAIを使います。事業の方向性、投資の判断、リスクの予測。そういった、これまで役員室で人間だけが行ってきた意思決定に、AIの分析を取り入れる。実は、CFOの藤堂がすでにプロトタイプの検証を始めています」
会場に、新たなどよめきが走った。
「ただし──一つだけ、絶対に変わらないことがあります」
桐島の声が、静かに、だが力強く響いた。
「最終的に決めるのは、人間です。AIは選択肢を示す。分析を出す。予測を立てる。だが、『これでいく』と腹を括るのは、人間の仕事です。──品質問題で学んだことです。AIに任せきりにした瞬間、責任の所在が消える。責任を持てるのは、人間だけです」
拍手が──前回よりも、はるかに大きな拍手が起きた。
全員が賛成しているわけではない。それは分かっている。だが、少なくとも──対話が始まった。
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説明会の後、沢村と田所は並んで廊下を歩いていた。
「沢村室長」
「はい」
「さっきの神山さんの話、良かったな」
「ええ。……田所部長は、発言されませんでしたね」
「俺は裏方で十分だ。表に出るのは好かん」
「でも──」
「佐藤さんの技能記録は、必ず完成させる。それが俺の発言だ」
沢村は微笑んだ。
「分かりました」




