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第八話 それぞれの夜

■■ 桐島精一の夜 ■■


 深夜二時、品川の本社ビルはほとんどの灯りが消えていた。


 社長室だけが、ぽつんと光を灯している。


 桐島精一は、祖父の写真を見つめていた。創業者・桐島正太郎。白黒の写真の中で、祖父は油まみれの作業着を着て、旋盤の前に立っている。誇らしげな笑顔。背景には、創業当時の小さな町工場が見える。


 九十年前、祖父は戦後の焼け野原にこの会社を興した。資金もない、設備もない、あるのは腕と志だけだった。それが、三千億円企業にまで成長した。


 そして今、三代目の自分が、その会社を壊そうとしているのかもしれない。


 桐島は自嘲した。AI駆動経営を決断したのは、会社を救うためだった。だが、品質問題が起き、追加投資は凍結寸前、社内の信頼は揺らいでいる。


「じいさん、俺は正しかったのかな」


 写真は答えない。


 桐島は社訓の額を見上げた。


『変化を恐れるな。恐れるべきは、変化しないことだ』


 祖父はこの言葉を、会社が初めて倒産の危機に瀕したときに書いたという。当時、繊維機械メーカーだった桐島精機は、産業構造の変化で市場を失いかけていた。祖父は繊維機械を捨て、精密機械に転換した。社員の半数が辞めた。残った半数と、ゼロからやり直した。


 今の自分と、何が違う。


 違いがあるとすれば──祖父は自分の手で機械を作れた。自分は、AIを作れない。自分が導入しようとしているものの本質を、自分自身が完全には理解していない。


 その不安が、桐島の胸を最も深く蝕んでいた。


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■■ 沢村美佐紀の夜 ■■


 自宅マンションのリビングで、沢村は膝を抱えていた。


 ノートパソコンの画面には、再発防止策の報告書が映っている。だが、文字が頭に入らない。


 東翔エレクトロニクスでの謝罪は、想像以上に辛いものだった。山田部長は冷静だったが、その冷静さの奥に深い失望が見えた。


「七億は覚悟してください」──去り際に山田が言った金額が、耳にこびりついている。


 七億円の損害賠償。それは、AI駆動経営プロジェクトが生み出した「成果」を一瞬で吹き飛ばす数字だった。


 コンサル時代の上司の言葉が蘇った。「変革は常にコストを伴う。問題は、そのコストを誰が払うかだ」


 今回のコストは、桐島精機の社員たちが払うことになるかもしれない。プロジェクトが中止されれば、DX推進室は解散。木下も加藤も、元の部署に戻される。劉は契約終了で帰国するだろう。


 そして──佐藤さんの技能記録プロジェクトも中断される。あの四十年の知恵が、記録されないまま消えていく。


 沢村はスマートフォンを手に取り、一つの番号に電話をかけた。五年も話していない相手。コンサル時代の恩師、米国にあるビジネススクールの吉岡教授だ。


「もしもし、吉岡先生。沢村です。ご無沙汰しています」


「ああ、美佐紀か。どうした、元気のない声だな」


 沢村は、これまでの経緯を簡潔に説明した。


「──というわけで、AIの判断ミスが起きて、プロジェクト全体が危機に瀕しています」


 吉岡教授は静かに聞いた後、一つだけ質問した。


「美佐紀、お前がこのプロジェクトで本当にやりたかったことは何だ」


「会社を変えることです」


「もっと具体的に」


 沢村は考えた。


「……誰も切り捨てずに、みんなが今より良い仕事ができるようにすること──です」


「それは、まだ諦めていないんだな」


「はい」


「なら、立て直せ。AIが間違えるのは当たり前だ。人間も間違える。問題は間違えることではなく、間違いから学ばないことだ。AIも、人間も」


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■■ 田所孝平の夜 ■■


 田所は自宅の和室で、将棋盤を前にしていた。


 対局相手はいない。一人で詰将棋を解いている。三十年来の趣味だ。


 今夜は、頭が冴えて眠れなかった。


 東翔エレクトロニクスでの謝罪。山田部長の前で頭を下げたとき、何を感じたか。


 怒り──ではなかった。悔しさ──それはある。だが、一番強かったのは──


 責任。


 AIの判断ミスだと人は言うだろう。だが、最終的に出荷を承認したのは製造部だ。自分だ。AIの出力を「合格」として受け入れ、指一本触れずに出荷した。佐藤さんがいれば、手で触って異常に気づいた。だが佐藤さんはいなかった。そして、自分はAIを信頼した。


 信頼。


 半年前の自分が聞いたら笑うだろう。AIを敵視していた自分が、いつの間にかAIを信頼していた。技能記録プロジェクトで佐藤さんの腕がデータ化されていくのを見て、「これはすごい」と感じた。AIが佐藤さんの判断を96パーセントの精度で再現するのを見て、「使える」と思った。


 そして、その信頼が仇になった。


 AIは96パーセントを再現できる。だが、残りの4パーセントに、致命的な問題が潜んでいた。


 将棋と同じだ。九十六手を正しく指しても、残りの四手で一撃を食らえば負ける。


 田所は駒を手に取った。


 人間もAIも、完璧ではない。だが、人間の不完全さは「経験」として蓄積され、次の判断に活きる。AIの不完全さは──


 田所は、ふと気づいた。


 AIにも、同じことができるのではないか。今回の失敗をAIに学習させれば、同じミスは二度と起きない。人間が何年もかけて「勘」として身につけることを、AIは一度の失敗で「データ」として獲得できる。


 そして──人間の「勘」には、引退という期限がある。AIの「データ」には、期限がない。


 佐藤さんの手が覚えている感覚も、定年退職と共に消える。だが、AIに記録されたそれは──


「くそ」


 田所は独り言を呟いた。


「認めたくねえが──あのDXの人が言っていることは、正しいのかもしれん」


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■■ 林大輝の夜 ■■


 林は、品川の居酒屋で一人、ビールを飲んでいた。


 東翔エレクトロニクスの案件──あの受注は、彼にとっての金字塔だった。AI時代の営業の可能性を証明した案件。


 それが、品質問題で台無しになろうとしている。


 山田さんから電話があった。怒っていたわけではない。むしろ、静かな声で「残念です」と言われた。その一言が、怒鳴られるより辛かった。


 HERMESの通知が、スマートフォンに次々と届く。


『東翔エレクトロニクス案件のリスク評価を更新しました。取引継続確率は38%に低下。推奨アクション────』


 林は通知をオフにした。


 AIは確率を出す。リスクを計算する。推奨を示す。だが──


 山田さんの「残念です」という声の震えを、感じることはできない。


 林はビールを飲み干して、もう一杯を注文した。


 自分は何をすべきか。AIに聞いても答えは出ない。この問いは、自分自身の中にしかない。


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■■ 神山早智子の夜 ■■


 夕食の片付けを終えた神山は、リビングで損害賠償の試算を見ていた。


 MINERVAが自動で作成した影響分析レポートだ。七億の損害賠償、株価への影響、キャッシュフローへの影響──すべてが冷徹な数字で並んでいる。


「お母さん、また仕事してるの」


 娘の理沙がリビングに来た。パジャマ姿で、受験勉強の参考書を持っている。


「ちょっとね。理沙も頑張ってるのね」


「うん。ねえ、お母さん。AIのチーム、うまくいってる?」


 神山は少し考えて答えた。


「今、大変なことが起きて。AIが間違えちゃったの」


「AIも間違えるんだ」


「間違えるのよ。でもね──」


 神山はMINERVAの画面を見た。損害賠償の試算、キャッシュフロー予測、最悪シナリオと回復シナリオの比較。半年前の自分には、こんな分析を数時間で作ることは不可能だった。


「AIが間違えた後にどうするか、それを考えるのが人間の仕事なのよ」


 理沙は不思議そうな顔をしている。


「よく分かんないけど、お母さんのチームなら大丈夫だよ」


 神山は娘の頭を撫でた。


「ありがとう。──もうすこし、頑張ってみるわ」


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■■ 藤堂信也の夜 ■■


 藤堂は深夜のオフィスで、二種類の資料を前にしていた。


 右手の資料:AI駆動経営プロジェクトの中止案。損害賠償を含む損失を最小化し、残りの投資を凍結する。短期的には合理的な選択だ。


 左手の資料:プロジェクトの修正継続案。品質管理AIの改善、人間とAIの協働プロセスの見直し。追加投資は縮小するが、プロジェクト自体は継続する。


 銀行員時代の自分なら、迷わず右手の資料を選んだだろう。数字は明確に中止を示している。


 だが──


 藤堂は今日、一つの光景を目にしていた。


 経理部の神山が、MINERVAのデータを使って、損害賠償の影響をリアルタイムで分析していた。半年前には三日かかったであろう作業を、数時間で終えていた。その目には、不安ではなく、職業的な確信があった。「この数字はこう読む、次のアクションはこうすべきだ」と。


 数字の人間である藤堂は、別の種類の「数字」を見た気がした。効率化やROIではなく──人間の能力が拡張されている、という数字には現れない事実。


 ペンを取り、左手の資料に一行だけ書き加えた。


『組織能力の不可逆的な成長は、短期のROIでは測定できない。しかし、それを放棄するコストは、計測可能な損失よりもはるかに大きい。』


 銀行員の自分が見たら、一笑に付すであろう一文だった。


 だが、CFOの自分は──いや、桐島精機の一員としての自分は、この一文を書かずにはいられなかった。


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 六人の夜が、静かに明けていく。


 品川のビルの灯りが一つ、また一つと点っていく。


 それぞれの場所で、それぞれの問いと向き合った夜。


 答えは、まだ見つかっていない。


 だが── 一人ではないということだけは、六人の誰もが、どこかで感じ始めていた。




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