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第三話 現場の誇り

 川崎工場は、多摩川の河口近く、工業地帯の一角にあった。


 工場の正門をくぐった沢村美佐紀は、思わず足を止めた。敷地は広い。だが、建物は明らかに年季が入っている。外壁のコンクリートには細かなひびが走り、屋根の一部は補修の跡が見えた。周囲の新しい物流倉庫群と比べると、時代の違いが際立つ。


「どうした、入らないのか」


 田所孝平が、先に歩きながら振り返った。作業着姿の田所は、スーツ姿の本社とは別人のように生き生きとしていた。


「いえ、立派な工場ですね」


「立派かどうかは知らんが、うちの飯の種はここで作っている」


 田所はそう言って、重い鉄扉を開けた。


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 製造ラインに入った瞬間、沢村の五感が一気に刺激された。


 金属の研削音、切削油の匂い、空気に漂う微細な金属粉。そして、巨大な工作機械の列が整然と並んでいる。


「ここが精密研磨機の最終組み立てラインだ」


 田所は歩きながら説明した。沢村の後ろには、DX推進室の木下もメモを取りながら続いている。


「桐島精機の精密研磨機は、半導体ウエハーの表面を原子レベルで平坦にする。この精度が、うちの生命線だ」


 ラインの脇で、一人の作業員が機械の前にしゃがみ込んでいた。六十代に見える。白い作業着に、油染みが点々とついている。彼は素手で──いや、薄い手袋越しに──研磨パッドの表面を撫でるように触っていた。


「佐藤さん」田所が声をかけた。


「ああ、田所さん。お客さんかね」


「DX推進室の沢村室長だ。工場を見たいそうだ」


 佐藤と呼ばれた作業員は、沢村を見上げて小さく頭を下げた。


「沢村です。お邪魔しています。今、何をされていたんですか」


「パッドの状態を確かめてたんだよ」佐藤はしわだらけの顔で微笑んだ。「センサーのデータじゃ分からんことがあるんだ。温度、湿度、振動──全部合格でもな、触ってみると違和感がある時がある。『今日はこいつの機嫌が悪いな』ってね」


「機械に機嫌がある、と」


「あるんだよ、これが」佐藤は真顔で頷いた。「四十年付き合ってると分かる。データに出ない何かがある。それを見過ごすと、不良品が出る。ほんの1ミクロンの差で、半導体が使い物にならなくなる」


 沢村は黙って頷いた。コンサル時代にも、こういう話は聞いてきた。「暗黙知」と呼ばれるものだ。だが、この手で、この空気の中で語られると、あの会議室でのプレゼンとは重みが違った。


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 工場見学は三時間に及んだ。


 田所は丁寧に、そして明らかに誇りを持って、各ラインの仕組みを説明した。原材料の受け入れから、加工、組み立て、検査、出荷まで。その一つ一つに、長年蓄積されたノウハウが染みついていた。


「田所部長、正直に申し上げます」


 工場の休憩室で缶コーヒーを飲みながら、沢村は言った。


「ここに来て、自分がいかに現場を知らなかったか、痛感しました」


 田所は缶コーヒーを口に運びながら、少し驚いた表情を見せた。


「コンサル出身の人間が、そんなことを言うのは珍しいな」


「本社の数字だけ見て計画を立てても、現場が動かなければ意味がありません。それは過去の経験で痛いほど分かっています」


「ほう」


「ただ──」沢村は言葉を選んだ。「田所部長、一つ見ていただきたいものがあります」


 沢村はタブレットを取り出し、あるデータを表示した。


「これは、過去十年間の川崎工場の品質データです。不良率は業界でもトップクラスに低い。それは間違いありません。しかし──」


 沢村がグラフの一部を拡大した。


「この二年間、微妙に悪化傾向にあります。不良率が0.03パーセントから0.05パーセントに。数字だけ見れば誤差の範囲ですが、トレンドとしては──」


 田所の表情が固くなった。


「知ってる」


「え?」


「知ってるよ、そのくらい。原因も分かっている」


 田所は缶コーヒーを置いた。


「熟練工の高齢化だ。去年は二人、定年で辞めた。佐藤さんも六十三だ。あと二年で定年退職する。同じレベルの技能を持つ作業員は、もう四人しかいない。全員五十五歳以上だ」


「技能の継承が──」


「間に合わん」田所の声に、初めて苦渋の色が混じった。「若い連中にも教えているが、『手の感覚』は五年や十年じゃ身につかない。二十年かけて育てた技能者が、この先十年で全員いなくなる。それが、あの0.02パーセントの意味だ」


 沢村は黙った。


「分かるか、沢村室長。俺がAI導入に反対してるのは、AIが嫌いだからじゃない。AIを入れれば、経営陣は『もう職人はいらない』と言い出す。そうなれば、技能継承の予算は真っ先に切られる。佐藤さんたちの四十年の知恵が、テーブルの上から消える。そのことが──」


 田所は言いかけて口をつぐみ、窓の外を見た。工場の煙突から、白い蒸気が冬の空に溶けていく。


「怖いんだよ」


===================================


 沢村はその夜、眠れなかった。


 ベッドの上でタブレットを開き、今日撮影した工場の写真を見返していた。佐藤さんの手。田所部長の背中。機械の列。油の染みた床。


 彼女の頭の中で、二つの声がぶつかっていた。


 コンサルタントとしての声。──データは嘘をつかない。熟練工の技能だけに頼る体制は持続不可能。AIによる品質管理の自動化は不可避。感情で判断してはいけない。


 もう一つの声。──あの佐藤さんの手が捉えている「何か」を、本当にAIは再現できるのか。データに現れない1ミクロンの判断を、モデルとアルゴリズムに置き換えていいのか。


 沢村はDX推進室のAIアーキテクト、劉に電話をかけた。


「劉さん、遅くにすみません。一つ聞きたいことがあるんですが」


「なんですか、沢村さん」


 劉は中国系アメリカ人で、MITでAI工学を学んだ後、日本のAIスタートアップを経て沢村と合流した。穏やかな話し方だが、技術に関しては妥協がない。


「熟練工の暗黙知、つまり言語化できない経験的な判断、をAIに学習させることは、技術的に可能ですか?」


 劉は少し考えてから答えた。


「可能です。ただし、条件があります。熟練工の方々の判断プロセスを、膨大なセンサーデータと紐づけて記録する必要があります。彼らが『違和感がある』と感じたとき、実際に何が起きているのか──温度の微細な変化、振動パターンの偏差、材料の含水率──それらを網羅的に計測し、相関を見つける。時間はかかりますが、不可能ではありません」


「つまり、職人の技能を『置き換える』のではなく、『記録して学習する』──」


「そうです。熟練工の高齢化もあります。退職で失われる前に記録することが急務でしょう。職人がいなくなってからでは、学習データが取れません」


 沢村は電話を切った後、しばらく考え込んだ。


 田所の恐れていることは正しい。AIの導入が、職人の技能をないがしろにする方向に進めば、取り返しのつかないことになる。


 だが──劉の言う通りなら、AIはむしろ職人の技能を「永遠に残す」ための手段になりうる。


 問題は、それを田所に信じてもらえるかどうかだ。


===================================


 翌日、沢村は工場の食堂で田所を見つけた。


「田所部長、昨日の話の続きをさせてください。一つ、提案があります」


「なんだ」


「佐藤さんたちの技能を、AIに学習させるプロジェクトを、AI導入の第一弾にしませんか」


 田所は怪訝な顔をした。


「職人の代わりにAIを入れる、という話じゃないのか」


「いいえ。職人の技能が失われる前に、記録し、学習し、次の世代に残す。AIを使って、佐藤さんの四十年の知恵を会社の財産にするんです。佐藤さんが定年退職した後も、その技能が桐島精機に残り続ける。──田所部長が守りたいものを、守るためのAIです」


 田所は長い間、黙っていた。


 食堂の時計が、秒針の音を刻んでいた。


「……佐藤さんに聞いてみないと分からん」


 それは、拒絶ではなかった。


 沢村は小さく頷いた。


「もちろんです。佐藤さんのお気持ちが最優先です」


===================================


 その午後、田所は一人で佐藤の作業場を訪ねた。


「佐藤さん、少し話がある」


 佐藤は研磨機の調整をしていた手を止め、田所を見上げた。


「あの DXの人の話か」


「まあ、そうだ」


 佐藤は作業手袋を外しながら微笑んだ。「あんなに真剣に研磨パッド見てた人は初めてだ」


「沢村室長が言うには、AIに俺たちの技能を学習させたいそうだ。佐藤さんの腕を、データにして残したいって」


 佐藤は少し目を細めた。


「俺の腕をねえ。AIに分かるもんかね」


「俺もそう思う」


「ただな、田所さん」


 佐藤は自分の手を見つめた。しわだらけの、節くれだった手。その指先には、四十年分の感覚が宿っている。


「俺が辞めたら、この手の感覚は消えるんだよ。誰にも渡せない。弟子に教えてるつもりでも、半分も伝わってないのは分かってる。それが──」


 佐藤の声が掠れた。


「悔しいんだよ。本当に」


 田所は何も言えなかった。


「AIとやらに伝わるかどうか分からんが」佐藤は顔を上げた。その目は、静かに輝いていた。「俺のこの手が覚えてることを、誰かに──何かに──残せるなら、やってみてもいいかもしれんな」


 田所はその言葉を聞いて、不思議な感情に襲われた。怒りでも、悲しみでもない。何か──時代が動く音を、確かに聞いた気がした。



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