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第86話 動き出す緑の盾 ~古都の美意識と、冷将・小田急の奇襲~

 昭和51年(1976年)、冬。

 相模鉄道いずみ野線の延伸予定地、鎌倉市・深沢エリア。

 黒塗りの車から降り立った五代と高見(相鉄)の目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。

 予定地に張り巡らされたピケ。

 しかし、そこにいるのはヘルメットを被った過激派ではない。

 エプロン姿の主婦、和服を着た地元の文化人、そして「古都鎌倉の景観を守る会」という腕章をつけた市議会議員たちだった。

『相鉄の巨大高架線反対!』

『コンクリートの壁で鎌倉の空を塞ぐな!』

『歴史ある景観を、我らの緑の電車(江ノ電)と共に守ろう!』

「……なんだ、これは……」

 高見が絶句する。

「……羽田の一坪地主や、成田のプロ市民とは訳が違う。……純粋な地元住民の『景観保護運動』だ」

 五代は、眉間を揉んだ。

 最も厄介な相手だ。金で雇われたサクラなら買収できる。イデオロギーの過激派なら警察を呼べる。

 だが、純粋に「自分たちの街を愛する善良な市民」を力で排除すれば、相鉄は永遠にこの土地で商売ができなくなる。

        * * *

「……お困りのようですね、五代専務。そして相鉄の高見課長」

 背後から、冷たく透き通るような声がした。

 少し離れた江ノ電の踏切脇に停まっていたハイヤーから、一人の男が降りてきた。

 完璧に仕立てられたスーツ。冷徹な知性を宿した眼鏡の奥の瞳。

 小田急電鉄の冷将・**御子柴みこしば**だった。

「……御子柴……!! 貴様、五代さんが羽田(東京)の揉み消しに気を取られている隙に……!」

 高見が怒鳴る。

 御子柴は、肩の埃を払うように優雅に微笑んだ。

「……人聞きが悪いですね。……私はただ、鎌倉の文化人の方々と『お茶』をご一緒しただけですよ。……そこで、相鉄さんが計画している『巨大なコンクリートの高架線』の完成予想図をお見せしたのです」

「……予想図だと?」

「……ええ。……のどかな谷戸やとの風景を分断する、無骨なコンクリートの壁。……それを見た皆様は、自発的に立ち上がられた。……『私たちの鎌倉を、あんな醜いもので汚されてたまるか』とね」

 カンカンカンカン……。

 踏切が鳴り、緑とクリーム色の小さな電車――江ノ電が、ゆっくりと通り過ぎていく。

 御子柴は、その愛らしい車体を指差した。

「……五代専務。あなたは江ノ電を『遅くて古い古狸』と馬鹿にしましたね。……ですが、この街の人間にとって、江ノ電は単なる乗り物ではない。……**『鎌倉の風景の一部ブランド』**なのです」

        * * *

 御子柴の狙いは完璧だった。

 相鉄が鎌倉に最新鋭の鉄道を持ち込もうとすればするほど、それは「古都を壊す侵略者のコンクリート」として市民の目に映る。

 小田急は、自らは手を下さず、子会社である江ノ電を**「景観保護という絶対的な正義の盾」**として使い、相鉄の南下ルートを完全に封鎖したのだ。

「……見事だ、御子柴」

 五代は、悔しがるどころか、感心したように拍手をした。

「……我々が羽田で東京モノレールにやった『ネガティブキャンペーン』を、そっくりそのまま、より洗練された形でやり返してきたというわけか。……江ノ電という『緑の盾』……。確かに、正面から殴ればこちらの拳が砕ける」

「……ご理解いただけて光栄です。……相鉄さんは、おとなしく横浜の内陸(いずみ野)で、団地の客でも運んでいればいいのです。……海(湘南)は、我々小田急の領土ですから」

 御子柴は一礼し、ハイヤーへと戻っていった。

 残された五代と高見の前に、市民たちのシュプレヒコールが立ちはだかる。

 昭和51年、冬。

 羽田の炎が消された直後、鎌倉の地で、ラスボス・小田急が仕掛けた「美しき包囲網」が完成した。

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