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第65話 夜の交渉術 ~地主たちの裏切りと高見の罠~

 二俣川の山々に、夜の帳が下りる。

 昭和40年代のこの地は、一度陽が落ちれば、漆黒の闇が支配する静寂の世界だった。だが、その暗闇の奥底では、相鉄と小田急、そして土地に執着する人間たちの情念が、どろどろとした熱を持って蠢いていた。

 高見恭平は、山の中腹にある古い農家の離れにいた。

 目の前には、この一帯で最大の土地を持つ大地主、**大河原おおかわら**が、囲炉裏の火を見つめて黙り込んでいる。

「……大河原さん。返事を聞かせてください。相鉄は、この山を拓き、横浜への直通特急を走らせる準備ができている。あんたの土地は、その中心になるんだ」

 高見の声は低く、だが確かな熱を帯びていた。

 しかし、大河原は首を縦に振らない。それどころか、その手は微かに震えていた。

「……高見さん、すまねえ。……話はなかったことにしてくれ。小田急さんに、すべて売ることに決めたんだ」

「……何だって?」

 高見の目が鋭く光る。昨日までは、相鉄との契約に前向きだったはずだ。

「……今日、地元の『青年会』の連中が来たんだ。……いや、青年会と言えば聞こえはいいが、昔からこの辺を仕切っている、やんちゃな若衆の集まりだよ。奴らが小田急の利光さんと一緒に来てな……『先祖代々の土地を、砂利屋に渡していいのか。小田急さんのような立派な会社に任せるのが、村の誉れじゃないか』と、一晩中『説教』されちまった」

 大河原は、吐き出すように言った。

 直接的な暴力ではない。だが、村社会において、地元の有力な若衆たちに睨まれることは、生きていけないことを意味する。小田急は、スマートな背広の裏で、土着の「やんちゃな勢力」を使い、地主たちの逃げ道を巧みに塞いでいたのだ。

「……そうですか。小田急さんも、なかなか『泥臭い』真似をなさる」

 高見は立ち上がり、離れの戸を開けた。

 外には、五代から借り受けた黒塗りのハイヤーが待機している。

「大河原さん。……今夜、あんたをある場所に招待したい。小田急さんが決して見せられない、**『未来』**の場所だ」

        * * *

 ハイヤーが向かったのは、横浜駅西口。

 深夜、営業を終えたはずの**『ダイヤモンド地下街』**だった。

 高見は、大河原を連れて、誰もいない地下街を歩いた。

 漆黒の山から連れてこられた大河原にとって、深夜でも眩いばかりの光を放つ地下帝国は、まるで異世界の神殿のように見えたことだろう。

「……これが、俺たちの力だ。大河原さん。小田急が新宿で見せている輝きを、俺たちはこの横浜の地に、自分たちの手で作り上げたんだ」

 高見は、地下街の奥にある一室……高島屋の特別応接室へと大河原を案内した。

 そこには、一人の男が座っていた。

 五代だった。

 五代は、手元のグラスを回しながら、大河原を一瞥した。

 その一瞥だけで、大河原は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。

「……大河原殿。二俣川の山を、小田急に預けるという話を聞いた。……賢明な判断だ。……もし、お前が『現状維持』を望むならな」

 五代の声は、大理石の壁に反響し、大河原の魂を直接揺さぶった。

「だが、お前は知っているはずだ。小田急が土地を買った後、何をするかを。……奴らは新宿の利権を守るために、神奈川の土地を『寝かせる』。……あんたの土地は、何十年も雑木林のままだ。……だが、我々は違う」

 五代は立ち上がり、巨大な開発計画図を広げた。

「ここに駅を作る。……駅前には巨大なショッピングセンターを、丘の上には数千世帯の住宅街を。……この地下街と同じ輝きを、お前の山に移植するんだ。……そうなれば、お前の家系は、末代までこの地の『王』として君臨できる。……小田急の小作人に甘んじるか、相鉄の共同経営者になるか。……選べ」

 大河原の目が、欲望でギラついた。

 高見は、その様子を横で見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 (……これだ。五代さんの、相手の欲望の芯を、力ずくで引きずり出すこの手腕……!)

 高見は、五代の冷徹な、だが抗いがたい魅力に満ちた言葉に、自分自身が一番酔い痴れていた。

 「ハアハア」という荒い呼気を、大河原を説得するフリをして誤魔化す。

「……大河原さん。小田急の連れてきた『若衆』なんて、この五代専務の一言で、明日には京急のバス運転士として三浦半島の最果てへ飛ばすことだってできるんだ。……どっちの力に付くのが得策か、あんたなら分かるはずだ」

 高見は、五代の「影」を最大限に利用し、大河原の恐怖を欲望へと塗り替えていった。

 翌朝。

 大河原は、小田急との交渉をすべて破棄し、相鉄との独占売買契約書に判を押した。

 それをきっかけに、二俣川の他の地主たちも、雪崩を打って相鉄へと寝返った。

 利光率いる小田急の買収部隊は、自分たちが手なずけたはずの「若衆」たちが、なぜか次々と京急グループの企業へ「再就職」していくのを、呆然と見送るしかなかった。

「……高見、次は海老名だ。……小田急の本陣を、正面から叩き切るぞ」

 五代の冷たい命令。

 高見は、自らの手で小田急の版図を奪い取る悦びに、深く、深く、頷いた。

動悸どうきは、心臓の拍動を普段よりも強く、速く、あるいは不規則に感じ、不快感や異和感を覚える状態です。鼓動が「ドクン」と飛ぶ感覚や、心臓が胸から飛び出しそうな感覚など、多くの場合は一時的なストレスや興奮によるものですが、不整脈や心臓病、甲状腺疾患など深刻な病気の可能性もあるため、注意が必要です。

けっしてアレではありません。

彼は疲れているだけです。

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