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第64話 相鉄沿線開発編・山を喰らう狼

 昭和44年(1969年)、冬。

 横浜駅西口に「ダイヤモンド」を敷き詰め、地下帝国を築き上げた高見恭平の次なる戦場は、煌びやかな都心ではなく、寒風吹きすさぶ「山」だった。

 横浜駅から西へ、相鉄本線が延びるその先。二俣川から海老名にかけて広がるのは、起伏の激しい丘陵地帯と、深い雑木林だ。当時のそこは、夜になれば真っ暗闇に包まれる、文字通りの「未開の地」だった。

「……ここを、すべて剥ぎ取る」

 高見は、二俣川の小高い丘の上に立ち、眼下に広がる広大な原生林を見下ろしていた。

 足元は霜柱で凍てつき、息は白く、指先はかじかんで感覚がない。だが、その瞳には五代から授かった「欲望の地図」が、鮮明なカラーで投影されていた。

「課長、本気ですか。こんな狸か狐しかいないような山を買って、どうするんです」

 同行した部下が、寒さに震えながら尋ねる。

「家を建てるんだよ。……何万戸という家をな。横浜の人口は爆発している。西口の地下街に客を流し込むには、まず『客の住処』を上流に作らなきゃならん。……この山一つひとつが、将来の定期券収入(ドル箱)に化けるんだ」

 高見の言葉は、熱を帯びていた。

 かつての相鉄は、ただ線路を敷き、たまたま乗ってきた客を運ぶだけの「受け身」の商売だった。だが、五代のやり方は違う。「需要は自分で創り出すものだ」。山を削り、街を作り、鉄道をその心臓として走らせる。その「創造主」としての快感に、高見は取り憑かれていた。

 だが、その野望の前に、巨大な「壁」が立ち塞がっていた。

 小田急電鉄。

 新宿を拠点とし、厚木・海老名を自らの領土シマと自負する「私鉄の貴族」だ。彼らは相鉄の動きを敏感に察知し、秘密裏に土地の買収合戦を仕掛けてきていた。

「……高見さん。いい加減になさい。ここは小田急の庭だ。砂利屋が土足で踏み込んでいい場所じゃない」

 林の奥から、数人の男たちが現れた。

 先頭に立つのは、小田急の用地買収部隊のリーダー、利光としみつ。利光一族の末端に連なる、選民意識の塊のような男だ。その背後には、地元の有力な地主や、目つきの鋭い「土地ゴロ」たちが控えている。

「……小田急さんか。お上品な新宿の電車が、こんな泥臭い山に何の用だ?」

 高見は、敢えて汚れた長靴で泥を跳ね上げながら、利光に近づいた。

「用があるのはこちらだ。この二俣川一帯の地主たちは、すでに小田急との売却交渉に入っている。……君たちがいくら京急の金で鼻息を荒くしても、歴史と信頼が違うんだよ。帰りなさい」

 利光の言葉に、地主たちが同調する。

「そうだ。相鉄なんて、いつ京急に飲み込まれるか分からん不安定な会社じゃないか」

「小田急さんなら、ロマンスカーで新宿まで優雅に運んでくれる」

 高見は、腹の底からこみ上げる怒りを抑え、ニヤリと笑った。

 かつての自分なら、ここで「相鉄をナメるな!」と怒鳴り散らしていただろう。だが、五代に膝を折ったあの日から、彼は学んだのだ。**「誠意や歴史など、圧倒的な利害の前では無力だ」**ということを。

「……歴史ねえ。確かに小田急さんのロマンスカーは素晴らしい。だがな、小田急さんは『海老名から先』しか見ていない。……この二俣川の山々を、ただの車窓の景色として捨て置くつもりだろ?」

 高見は、地主たちに向き直った。

「俺たちは違う。俺たちはこの山を、**『横浜の王冠』**にする。

 五代専務が横浜駅西口に作ったあの巨大な地下街。高島屋。三越。……相鉄の家を買えば、玄関を開けてから数十分で、その華やかな中心地へ直結する。……小田急さんの新宿まで、何分かかる? 満員電車で一時間以上、揺られる覚悟はできているのか?」

「何を……!」

 利光が声を荒げる。

「地主さん。小田急はあんたらの土地を『安く買い叩いて放置する』。だが俺たちは、あんたらの土地に『新しい街の名前』を刻む。……価値が跳ね上がるのは、どちらの道か。……砂利屋の目利きを信じるか、新宿の気取り屋の言葉を信じるか。……選ぶのはあんたたちだ」

 高見は、地主たちの動揺を見逃さなかった。

 だが、事態はそれほど単純ではなかった。小田急は、相鉄の買収工作を妨害するため、地元のやんちゃな勢力を使って、相鉄に協力する地主への説得を始めていたのだ。

 その夜。高見は、一人で横浜の高級料亭の一室にいた。

 呼び出したのは、五代だった。

 襖が開き、五代が静かに入ってくる。

 相変わらず、その一歩一歩が空間の密度を変えるような威圧感。

 高見は、テーブルの下で震える手を、強く握りしめた。

「……五代さん。小田急が、なりふり構わず動いてきやがった。地主たちが怯えてる。……実力行使が必要だ。だが、相鉄の予算じゃ……」

 高見は、屈辱に顔を歪めながら、五代の前に頭を下げた。

 表面上は反発しながらも、自分の中に眠る「五代の力への依存」が、甘く疼くのを感じていた。

「……金か。それとも、小田急を黙らせる『毒』か」

 五代は、高見の頭上に冷たい声を落とした。

「……両方だ。……頼む。俺に、奴らを叩き潰すための力を貸してくれ」

「ハアハア」という自分の荒い呼気が、畳に吸い込まれていく。

 五代は、高見の顎をクイと持ち上げた。

「……いいだろう。金沢文庫の軍需工場から、莫大な裏金が入っている。それを自由に使え。……その代わり、高見。お前は小田急の『箱根』を、最後には俺の前に差し出すんだ。……できるな?」

「……ああ。……あんたの望む通りに、すべてを奪ってやるよ」

 五代の指先から伝わる絶対的な支配の熱。

 高見恭平は、再び魔王に魂を売り、その引き換えに、小田急を地獄へ叩き落とすための「悪魔の軍資金」を手に入れた。

 神奈川・冬の陣。

 二俣川の深い山々の中で、血と金が入り乱れる、私鉄史上最も残酷な戦争の火蓋が切られた。

 次回、第65話。

 「夜の交渉術 ~地主たちの裏切りと高見の罠~」。

 高見は、五代から授かった資金を使い、地主たちを一網打尽にする「ある極秘プロジェクト」を立ち上げる。


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