第200話特別編 『天空の落日、あるいは死神の帰還』
第1章:アルウェーグの遺言
昭和54年、冬。午前四時十五分。
東京湾の最深部に浮かぶ人工の小島、昭和島車両基地。
そこは、華やかな首都・東京の輪郭線から完全に切り離された、鉛色の孤独な要塞であった。東京湾から吹き付ける北風は、ただ単に体温を奪うだけの冷たい空気ではない。それは、羽田沖の重く淀んだ海水を巻き上げ、目に見えない無数の「塩の結晶」を孕んだ、ヤスリのような凶器であった。
その凶器は、容赦なくコンクリートを白く濁らせ、鉄を酸化させ、そして深夜の車庫でうずくまる男たちの顔の皺に、深く、深く入り込んでいく。
「……チィッ。また、三番台車のスタビライザーが鳴いてやがる」
凍てつくアスファルトの上に背中から寝そべり、巨大な台車の底に潜り込んでいた東京モノレール整備班長・大貫は、油にまみれた舌打ちをした。
口から吐き出される白い息は、ヘッドライトの強烈な光の筋にぶつかり、すぐに暗闇の中へと溶けて消える。大貫の視線の先には、まるで巨大な昆虫の腹部のように複雑に絡み合った、500形モノレールの心臓部――アルウェーグ式台車の異様な構造物が広がっていた。
通常の鉄道、例えば国鉄の車両や、京急の赤い電車を見慣れた者の目には、この台車は狂気の産物にしか見えないだろう。
鉄のレールの上を、鉄の車輪で滑るのではない。
アルウェーグ式とは、幅わずか八十センチ、高さ一メートル四十センチの巨大な「コンクリートの梁」を、車両の底に設けられた巨大なくぼみで「跨ぎ込む」という、極めて特殊な構造をしている。
大貫は、手にした点検用のテストハンマーの柄を短く持ち直し、車体を支える無数のボルトの一つを、手首のスナップだけで鋭く叩いた。
――カンッ。
高く、しかしわずかに濁った金属音が、昭和島の冷たい空気に響く。
大貫の長年の経験が、その「わずかな濁り」を聞き逃さなかった。規定のトルク(締め付け力)から、ほんの数ミリ、数グラムの力が逃げている音だ。
「おい、高橋。トルクレンチ寄こせ。設定は百二十だ」
「……はいッス! 大貫さん、手ェかじかんでませんか。代わりますよ」
足元で控えていた若い整備士の高橋が、震える声で巨大な工具を差し出す。大貫はそれをひったくるように受け取ると、鼻で笑った。
「馬鹿野郎。手袋越しの感覚でボルトの機嫌が分かるようになるまで、あと十年はボルトを舐めて暮らせ。……いいか、高橋。通常の鉄道のボルトなら、一度規定値で締め上げりゃ、そうそう緩むこたぁねえ。だが、ウチの化け物は違うんだよ」
ギリリリリッ、と、重い金属の擦れる音がして、大貫の太い腕の筋肉が防寒着の下で隆起した。
彼らが相手にしている「化け物」の正体。それは、圧倒的な「摩擦」という名の暴力である。
アルウェーグ式モノレールは、車体を上に支えるための「走行輪」が二本、コンクリートのビームの左右から挟み込むようにして車体を安定させる「案内輪」と「安定輪」が、片側になんと四本ずつ。一両の台車だけで、合計十本もの巨大なゴムタイヤが装着されているのだ。
ミシュラン製の分厚いタイヤ。それが、時速八十キロという猛スピードで、ザラザラとしたコンクリートの塊に、強烈な空気圧で押し付けられながら回転し続ける。
「……考えてもみろ。毎日毎日、ヤスリの上を全力疾走させられてるようなもんだ。コンクリートの表面は塩害と風化でサメの肌みたいにささくれ立っていく。そこをゴムタイヤがこすり上げるんだからな。微細な振動が、台車の骨組み全体に波のように伝わってきやがる。その振動の逃げ場が、このボルトのネジ山一つ一つにかかってくるんだ」
大貫の言葉通り、彼らの日常は、この「振動による破壊」との終わりのないイタチごっこだった。
ボルトが緩めば、タイヤの角度が狂う。タイヤの角度が狂えば、コンクリートとの摩擦係数が変わり、偏摩耗を引き起こす。偏摩耗が起きれば、車両全体が激しく揺れ、最悪の場合は脱線――いや、モノレールの場合は「ビームからの落下」という、乗客全員の死を意味する大惨事に直結する。
大貫たち整備士は、自分たちの指先の感覚一つ、ハンマーの打音一つで、その天空の大惨事を、毎晩、毎晩、ギリギリのところで食い止めているのだ。
「……よし、三番台車、完了。次は四番だ。急げ、始発の出庫まであと一時間もないぞ」
「はいッス! ……でも大貫さん、最近、ビームの表面の剥離、酷くなってきてませんか。タイヤの交換周期が、半年前より二割も早くなってますよ」
高橋の不安げな声に、大貫はハンマーを持った手を一瞬だけ止めた。
その通りだった。
昭和39年の開業から、すでに十五年。東京オリンピックという国家の至上命題のもと、狂気のような突貫工事で作られたコンクリートの軌道は、今、限界の悲鳴を上げ始めていた。
「……分かってる。ビームの寿命だ。だが、俺たちに新しいビームを打ち直す『カネ』なんか、どこにもねえんだよ」
大貫は台車の下から這い出し、凍てつく空を見上げた。
暗闇の向こう側、羽田空港の方向には、すでに一番機の離陸を待つ航空標識灯の赤い光が、規則正しく点滅しているのが見えた。
あそこへ、客を運ばなければならない。
どんなにボルトが軋もうと、コンクリートが崩れかけようと、羽田の空への大動脈を、自分たちで止めるわけにはいかないのだ。
「……お前、昭和39年の開業の時のこと、覚えてるか?」
大貫は、ポケットから油で黒く汚れた軍手を取り出しながら、高橋に尋ねた。
「え? いえ、俺、まだ小学生でしたから……。確か、オリンピックの開会式に間に合ったんですよね。すげえって、親父とテレビ見てましたよ」
「すげえ、か。……あの時、世間の連中は『未来の乗り物ができた』って騒いでたがな。俺たち現場の人間からすりゃ、あんなもん、未来でもなんでもねえ。……地獄の窯の蓋が開いた日だったんだよ」
大貫の脳裏に、あの狂乱の十七ヶ月が鮮明に蘇る。
用地買収の遅れ。東京湾のヘドロの中への杭打ち。そして、ドイツから買ってきたばかりの未完成な図面を前に、顔面を蒼白にさせた日立製作所の技術者たちの姿。
「……何もない海の上に、橋を架ける。それも、鉄の橋じゃねえ。数ミリの狂いも許されない、コンクリートの精密機械を、海の上に並べるんだ。大蔵省は『カネはない』と喚き、運輸省は『絶対に間に合わせろ』と脅してきやがった。あの時、俺たちと一緒に泥水をすすった連中が……どれだけ倒れていったか、お前は知らねえだろう」
大貫の嗄れた声は、海風にかき消されそうになりながらも、確かな怨念のような熱を帯びていた。
十五年前の、あの時。
すべては、そこから始まっていたのだ。
彼らが今、こうして毎晩ボルトの軋みと格闘しなければならない理由も、そして、明日開かれる『運輸審議会』で、京急という巨大な敵と、大蔵省という死神を相手に、技術の誇りだけで立ち向かわなければならない理由も。
大貫は、冷たいテストハンマーを強く握りしめた。
その手には、十五年分の油と、涙と、そして拭い去れない「意地」がこびりついていた。
第1章:アルウェーグの遺言 2
大貫の記憶の底にこびりついているのは、現在の昭和島に吹く冷たい塩風の匂いではない。
それは、むせ返るような「ヘドロとメタンガス」の悪臭だった。
昭和39年(1964年)、春。
東京オリンピックの開幕を目前に控えた首都・東京は、まさに国全体が発情しているかのような異様な熱気に包まれていた。しかし、その輝かしい「復興と成長」の足元で、羽田沖から芝浦にかけての運河地帯は、工場排水と未処理の生活排水が容赦なく垂れ流され、どす黒く粘り気のあるスープのように濁っていた。
その毒の海に、若き日の大貫たち現場の作業員は、文字通り腰まで浸かりながら、巨大なコンクリートの基礎杭を打ち込んでいた。
「……いいか! 十七ヶ月だ! 十七ヶ月で、浜松町から羽田まで、このドブ海の上に道を作れ! オリンピックの開会式に間に合わなければ、俺たちは全員、国賊として東京湾に沈められると思えッ!!」
現場監督の怒号が、ディーゼルエンジンのけたたましい駆動音にかき消されそうになりながらも響き渡る。
「十七ヶ月」。
それは、正気の沙汰ではなかった。通常の鉄道であれば、用地買収だけでも数年、地盤調査と基礎工事でさらに数年を要する巨大インフラである。それを、わずか一年半足らずで完成させろというのだ。
用地を買収する時間も金もない。だからこそ、国と企業は「運河の真上」という、誰も使っていない空間(空域)に目をつけた。そして、その極端な条件を満たすために選ばれたのが、西ドイツで開発されたばかりの「アルウェーグ式モノレール」だったのだ。
だが、現場に持ち込まれたその「未来の技術」は、彼らにとって絶望の種でしかなかった。
「……大貫くん。ダメだ。ドイツの連中が引いたこの図面、東京湾の軟弱地盤を全く計算に入れていない」
仮設のプレハブ小屋で、青焼き図面を前に頭を抱えていたのは、日立製作所から派遣されてきた主任技師の梶原だった。顔は土気色に汚れ、何日も風呂に入っていない身体からは機械油と強烈な汗の匂いが漂っていた。
「ライン川沿いの硬い岩盤なら、この細い橋脚で数十トンの軌道桁を支えられるかもしれない。だがここは日本だ。地震があり、台風が来る。しかも足元は、豆腐のように柔らかいヘドロの海だ。この設計のままコンクリートを流し込めば、数年で橋脚ごと東京湾に倒壊するぞ」
梶原の震える指先が、図面の橋脚部分を強く叩いた。
ドイツ・アルウェーグ社から数億円という巨費で買い取った基本特許と設計図。しかし、それはあくまで「遊園地の乗り物を少し大きくした程度」の、実戦を想定しきれていない未完成の代物だったのだ。
「じゃあ、どうするんです! もう基礎の杭打ちは始まっちまってますよ!」
泥だらけの長靴を履いた大貫が、図面机に身を乗り出して怒鳴った。
「設計をやり直せって言うんですか! そんな時間、どこにある! 明日には三十トンのPCビームが工場から運ばれてくるんだぞ!」
「……走りながら、設計を変える」
梶原は、血走った目で大貫を睨み返した。
「ドイツの図面は捨てる。日立の技術と、君たち現場の腕で、強引に日本の規格に適合させるんだ。……橋脚の基礎面積を倍にする。ジョイント部分の鋼材は特注だ。ミリ単位の誤差も許されない。いいか大貫くん、一つのビームのズレが、将来の金属疲労となって車体を引き裂くんだ。絶対に、妥協は許されない」
それは、「落ちながら飛行機を組み立てる」ような、文字通りの特攻作業の始まりだった。
長さ二十メートル、重さ三十トンから四十トンにも及ぶ巨大なコンクリートの軌道桁。
それを、揺れる海上のクレーン船で吊り上げ、わずかな足場しかない橋脚の上へと、パズルのように組み込んでいく。東京湾の突風が吹けば、空中に吊り上げられた四十トンの質量が凶器となって暴れ狂う。少しでもワイヤーの操作を誤れば、作業員はミンチになって海へ落ちる。
事実、指を挟まれて骨を砕かれた者、足場からヘドロの海へ転落した者が何人も出た。それでも、工事が止まることは一日たりともなかった。
「……右巻き! もっとだ、あと五ミリ! そこで止めろォッ!!」
大貫は、橋脚の上で命綱一本にすがりつきながら、迫りくる巨大なコンクリートの塊に向かって絶叫した。
クレーンのワイヤーが悲鳴を上げ、巨大なビームが橋脚のジョイントにガキンッ、と重い音を立ててはまる。しかし、ドイツの基本設計と急造の日本製ビームの相性は最悪で、どうしても数ミリの「段差」が生じてしまう。
「……大貫! 段差が出てる! そのままじゃタイヤがバーストするぞ!」
下からメガホンで叫ぶ梶原。
「分かってるよッ! 削るんだよ、今から俺たちの手でなッ!!」
大貫たち作業員は、重いハンドグラインダーを抱え、四十トンのコンクリートの表面を、文字通り「手作業」で削り始めた。
火花が散り、強烈なコンクリートの粉塵が目や鼻の粘膜を容赦なく焼き尽くす。防塵マスクなどという気の利いたものはなく、手ぬぐいを口に巻いただけの顔は、粉塵と汗が混じって泥人形のように黒く変色していた。
指の感覚がなくなるまでグラインダーを押し付け、段差をミリ単位で滑らかにしていく。一つの接合部が終われば、また次の四十トンの塊が運ばれてくる。その繰り返し。昼も夜もなく、潮の満ち引きだけを時計代わりにして、男たちはコンクリートと格闘し続けた。
日立の技術者たちは、現場のプレハブで寝食を忘れ、計算尺の摩擦熱で指の皮を剥きながら、ビームが曲がる際の「遠心力」と「タイヤの空気圧」の限界値を再計算し続けた。
現場の肉体と、設計の頭脳。
互いに怒鳴り合い、胸ぐらをつかみ合いながらも、彼らは一つの巨大なコンクリートの蛇を、海の上へと少しずつ、少しずつ伸ばしていった。
そして。昭和39年9月17日。
東京オリンピック開会式のわずか二十三日前。
奇跡は起きた。
浜松町から羽田までの約十四キロが、一本の美しいコンクリートの軌道で結ばれたのだ。
一番列車のテープカットが行われ、華やかなファンファーレが鳴り響いた日。世間は「日本の技術力の勝利」「世界最長のモノレール」と彼らを熱狂的に讃えた。
だが、歓喜に沸く群衆から離れ、式典の隅で安煙草を吹かしていた大貫と梶原の目には、決して消えることのない「重い陰り」が宿っていた。
「……とりあえずは、動いたな。大貫くん」
梶原は、海の上を滑走していく真新しいモノレールを見つめながら、ポツリとこぼした。
「……ええ。ですが主任、俺たちは……とんでもない『未熟児』を産み落としちまったんじゃないですか」
大貫の言葉に、梶原は無言で頷いた。
彼らだけが、知っていたのだ。
十七ヶ月という異常な工期、急造の基礎、そして手作業で無理やりすり合わせた数千ヶ所のジョイント。
この巨大なシステムは、根本的な「病」を抱えたまま産声を上げたのだと。この先、金属疲労、コンクリートの劣化、タイヤの偏摩耗という終わりのない地獄が、確実に来る。
「……ああ。だから俺たちは、この子が死なないように、毎日毎日、ボルトを締め直してやらなきゃいけないんだ。俺たちが死ぬまで、な」
その言葉の通りになった。
あの日から十五年間。大貫は、一本のボルトの緩みも逃さぬよう、深夜の昭和島でテストハンマーを振り下ろし続けてきた。
日立の設計室では、梶原の教え子である若きエース・星野たちが、ダイヤの限界を引き上げるために血を吐くような計算を続けてきた。
すべては、あの日産み落とした「未熟児」を、日本の空の玄関口を支える「完全なインフラ」へと育て上げるため。
大貫は、凍てつく昭和島の空気を深く吸い込み、現実へと意識を引き戻した。
手元の時計は、午前五時を回っていた。
今日は、その十五年間の苦闘が、ついに「正解」として国に認められる日。運命の『運輸審議会』の日である。
「……行くぞ、高橋。片付けろ」
大貫はハンマーを工具箱に投げ込んだ。
「今日は俺も、スーツを着て霞が関へ行く。俺たちの十五年が、ようやく終わるんだ」
第1章:アルウェーグの遺言 3
昭和54年、冬。午前九時。
海風の吹きすさぶ昭和島から遠く離れた、日本の心臓部。霞が関、運輸省・合同庁舎。
灰色の重厚な石造りのエントランスを抜けると、そこには昭和の官庁特有の、ワックスと古い書類、そして微かなカビの匂いが混じり合った、冷たく乾いた空気が淀んでいた。
それは、権力と許認可を独占する「お上」の匂いであり、一介の民間企業に過ぎない東京モノレールの面々にとっては、長年、胃をキリキリと締め付けられる毒ガスに等しいものだった。
だが、今日の彼らの歩みは違った。
「……大貫さん。ネクタイ、曲がってますよ」
大理石の床を歩きながら、日立製作所の若きエース・星野が、小声で隣を歩く男に囁いた。
東京モノレール整備班長、大貫。彼は数時間前まで昭和島のコンクリートの上を這いずり回っていた男とはまるで別人のように、窮屈な紺色のダブルのスーツに身を包んでいた。しかし、いくら高級な生地を羽織ろうとも、太く隆起した首の筋肉と、油が深く染み込んで黒ずんだ指先までは隠しきれない。大貫は、首を絞めつけるようなワイシャツの襟元を不器用に引っ張りながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「……うるせえ。こんな首輪、十五年ぶりにつけたんだ。どうせ俺は、この綺麗な庁舎じゃ浮きまくってる『現場の土方』だよ。……それより星野、お前の抱えてるソイツ、絶対に落とすなよ」
大貫の視線の先。星野の両腕には、銀色に鈍く光る分厚いジュラルミンケースが、まるで心臓そのものであるかのように固く抱え込まれていた。
その中には、星野たちが計算尺の摩擦熱で指の皮を剥きながら引き直したダイヤグラムと、大貫たち現場の整備士が「ポイント切り替えの油圧の限界」をコンマ五秒縮めたという、血みどろの実証データが収められている。
京急の主張する数百億円の地下トンネル案に対し、既存の設備を流用し「国費を一円も使わずに」羽田の輸送力を倍増させる、狂気と情熱の結晶。
『新・待避線計画』の最終青焼き図面である。
「分かっています。……これが、俺たち技術者の『答え』です。誰にも、手出しはさせません」
星野は、ケースの冷たい取っ手を握りしめ、前を歩く社長の背中を見据えた。
彼らがエレベーターで、審議会が行われる三階の大議室フロアへ到着した瞬間だった。
重い金属扉が開いた途端、凄まじい光の奔流が彼らを襲った。
「来たぞ! 東京モノレールだ!」
「社長! 本日の審議会、大蔵省不在のまま採決が行われるという噂ですが、勝利の確信はありますか!?」
「京急案の『税金泥棒』という世論の批判について、一言お願いします!」
廊下を埋め尽くしていたのは、全国紙、経済誌、そして業界紙の記者たちの群れだった。
無数のフラッシュが焚かれ、マイクが槍のように突き出される。
かつて、「羽田のアクセス問題」といえば、国鉄の延伸か、京急の乗り入れかという二択であり、開業以来赤字を垂れ流していたモノレールなど、誰の目にも入っていなかった。彼らは常に「過去の遺物」「国鉄の天下りのためのゴミ箱」として冷笑される存在だったのだ。
それが今、どうだ。
オイルショック後の不況と、大蔵省特捜部の汚職スキャンダルに辟易した世論は、「莫大なカネを動かす政治的な巨大開発」を憎み、逆に「あるものを使い倒す、知恵と汗の技術論」を熱狂的に支持し始めていたのだ。
フラッシュの光を浴びながら、モノレール社長は歩みを止め、ゆっくりと記者たちに向き直った。
その顔には、長年の屈辱を耐え忍んできた者だけが持つ、静かで、しかし岩のように揺るぎない矜持があった。
「……勝利、という言葉は適切ではありません。我々は誰かと争うためにここへ来たのではない」
社長の声は、騒然とする廊下を水を打ったように静まらせた。
「昭和39年の開業以来、我々はただの一日も、羽田への足を止めたことはない。雨の日も、台風の日も、現場の人間が泥まみれになって軌道を守り抜いてきた。……我々には、その『十五年間の実績』という名のコンクリートの土台があります。本日は、その土台の上に、さらなる未来を築くための『技術』を、つつがなくご説明申し上げる。それだけです」
その堂々たる宣言に、記者たちの中から「おおっ……」という低く熱いどよめきが漏れた。
完璧だった。政治の泥沼にまみれた京急や大蔵省に対し、あまりにも美しく、あまりにも「正しい」姿がそこにあった。
「……いいぞ。空気が、完全に俺たちに追い風だ」
大貫が、星野の耳元で震える声で囁いた。
そのまま彼らは、係員に導かれるまま、重厚な木造りの扉を開け、審議会の大議室へと足を踏み入れた。
室内は、外の喧騒が嘘のように静まり返り、天井の巨大なシャンデリアが、円卓に並べられた分厚い資料の山を照らしていた。
すでに着席していた審議委員たち――大学の交通経済学の権威、国鉄OBの重鎮、海運界のドンといった、日本の交通インフラを裏で操る「神々」が、一斉にモノレール陣営に視線を向けた。
大貫は思わず息を呑んだ。
彼らの目は、かつてのように「お荷物企業」を見下すような冷たいものではなかった。
それは、スキャンダルに塗れた霞が関の闇を払い、純粋な技術で国を救おうとする「英雄」を迎え入れるような、温かく、そして期待に満ちた眼差しだったのだ。
「……東京モノレールさん。お待ちしておりましたよ」
最前列に座る、厳格で知られる老教授が、自ら立ち上がって社長に歩み寄り、その手を両手で固く握りしめた。
「拝見しましたよ、事前の図面。……素晴らしい。日立製作所さんの緻密な計算と、現場の皆さんの意地が一つになった、まさに日本の『ものづくり』の到達点だ。あれを見せられては、数万人の立ち退きを強いるような地下トンネル案など、もはや荒唐無稽な夢物語に過ぎませんな」
老教授の言葉に、周囲の委員たちも次々と「全くだ」「今日は技術が政治に勝つ日だ」と頷き合う。
大貫は、自分の耳を疑った。
あれほど憎たらしかった「お上」の人間たちが、自分たちの夜通しの苦労を、油まみれの十五年を、手放しで賞賛している。
(……報われた。俺たちのやってきたことは、間違っていなかったんだ……ッ!)
大貫の分厚い胸の奥底から、熱い塊が込み上げてきた。隣の星野も、ジュラルミンケースを抱きしめたまま、感極まって下を向いている。
社長は、あふれる涙を必死に堪えながら、委員たちに深々と頭を下げ、自らの席へと向かった。
その時。
社長の視線が、大議室の最前列、委員長席のすぐ隣に配置された一角で、ピタリと止まった。
そこには、最高級の黒革で設えられた、三つの椅子が並んでいた。
国家予算の生殺与奪の権を握り、すべてのインフラ計画に「絶対的な拒否権」を持つ死神たち。大蔵省主計局の指定席である。
だが、その三つの椅子は、あまりにも不自然なほど、ポッカリと「空」のままだった。
「……やはり、特捜部の強制捜査で、彼らはここへ来られないんだ」
社長が、震える唇で呟いた。
大貫も星野も、その空席を見て、確信した。
勝った。
あの予算の亡者たちがいないこの密室で、自分たちの「正しき技術」を妨げる者など、もう誰もいないのだ。
彼らは、自分たちに与えられた教壇(プレゼン席)に立ち、誇らしげに胸を張った。
だが、彼らは気づいていなかった。
会場の最後尾、傍聴席の薄暗い影の中で、ただ一人、拍手もせずに冷徹な目で彼らを観察している「赤い私鉄の男」――京急の五代専務の、その不気味な微笑みに。
午前九時五十八分。
審議開始のベルが、鳴ろうとしていた。
第1章:アルウェーグの遺言 4
午前十時。
大議室の壁に掛けられた古めかしい振り子時計が、重々しくその時刻を告げた。
「……定刻となりました。大蔵省の委員が到着しておられないようですが、これ以上、国家の重要案件を遅らせるわけにはいきません。これより、『羽田空港アクセス改善に関する特別運輸審議会』を開会いたします」
委員長が木槌を一度だけ鳴らした。
その高く澄んだ音が、霞が関の分厚い壁に吸い込まれていく。同時に、大議室の空気は、数十人の出席者たちが一斉に息を呑む「緊張の真空状態」へと移行した。
全員の視線が、最前列の東京モノレール陣営へと突き刺さる。
社長は、ゆっくりと立ち上がった。
その足取りは、かつて国鉄の天下り先だと揶揄され、赤字の責任を押し付けられて霞が関の廊下を逃げるように歩いていた頃の彼ではなかった。
彼は教壇(プレゼン席)に立つと、会場全体をぐるりと見渡し、マイクのスイッチを自らの手で入れた。
「……本日は、我々東京モノレールにこのような貴重な弁明の機会をいただき、誠にありがとうございます。結論から申し上げます」
社長の声は、マイクを通さずとも最後尾の席まで届くほど、深く、力強く響いた。
「我々が本日提案する『新・待避線計画』は、国からの新規補助金を、一円も必要としません」
「一円も」。
その言葉が発せられた瞬間、水を打ったように静まり返っていた会場に、さざ波のような動揺が走った。
京急が推し進める「羽田空港地下乗り入れ案」は、莫大な用地買収と、東京湾の海底地盤をシールドマシンで掘削する難工事が前提であり、数百億円規模の国費投入が不可避とされていた。オイルショック後の深刻な財政難にあえぐこの時代において、「予算ゼロ」という言葉は、いかなる美辞麗句よりも強烈な魔力を持っていた。
「既存のコンクリート軌道……我々が昭和39年に産み落とした『アルウェーグの遺産』を極限まで活用し、輸送力を現在の二倍に引き上げる。それが我々の出した答えです。詳細な技術論につきましては、本計画の立案責任者である日立製作所の星野、ならびに弊社の現場保守責任者である大貫よりご説明申し上げます」
社長が深く一礼して退くと、代わって星野と大貫が教壇に上がった。
星野は、震える手でジュラルミンケースのロックを解除し、中から取り出した巨大な青焼き図面を、ホワイトボードに隙間なく貼り付けていった。
そこには、昭和島周辺の複雑な軌道の線形と、秒単位で計算し尽くされた幾何学的なダイヤグラムが、狂気のような緻密さで描かれていた。
「……委員の皆様。アルウェーグ式モノレールの最大の弱点は、『分岐器』にあります」
星野は、指示棒を握りしめ、図面の中央を強く叩いた。技術を語り始めた彼の目には、もはや霞が関の重圧に怯える若者の面影はなく、真理を追求するエンジニアの狂気が宿っていた。
「通常の鉄道は、鉄のレールを数センチ横にスライドさせるだけで進路を切り替えられます。しかし、我々のシステムは違います。長さ数十メートル、重さ数十トンにも及ぶ『巨大なコンクリートの梁』そのものを、鋼鉄の関節を基点にして、強力なモーターと油圧シリンダーでダイナミックに湾曲させなければならないのです」
星野は、図面の端に描かれたポイントの断面図を指し示した。
「ロックピンを引き抜き、数十トンのコンクリートを油圧で押し曲げ、再びロックピンを挿入して固定する。この一連の動作には、いかに急いでも『十秒』のロスが生じます。この十秒間、後続の列車は絶対にポイントに進入できません。これが、我々が長年、過密ダイヤを組むことを諦めざるを得なかった『物理的な壁』でした」
委員たちは、息を呑んで星野の説明に聞き入った。
それは、誰もが「モノレールはこれ以上本数を増やせない」と匙を投げていた理由そのものだったからだ。京急の地下案を支持する者たちも、この「十秒の壁」を最大の攻撃材料としていた。
「しかしッ!」
星野の声が、一段と高く、鋭く跳ね上がった。
「我々は、昭和島車両基地の周辺に存在する『引き込み線』の軌道をわずかに延長し、本線と並行する数百メートルの『待避線』を新設します。そして、全線に最新のコンピュータ制御による高密度ATS(自動列車停止装置)を導入し、先行列車との距離を極限まで詰める。さらに……」
星野は、隣に立つ大貫を振り返った。
大貫は、不器用な手つきでネクタイを少し緩めると、マイクの前に一歩踏み出した。彼から放たれる、長年染み付いた機械油と潮風の匂いが、無機質な大議室の空気を一変させた。
「……委員の先生方。俺は、現場の整備班長の大貫と申します。難しい計算は、この日立の若い衆に任せてあります。ですが、一つだけ、俺たち現場の人間だからこそ言えることがあります」
大貫は、分厚く、黒く汚れた手のひらを、委員たちに向かって広げて見せた。
「俺たちは、この十五年間、一日も欠かさず、あのコンクリートの化け物に油を差し、ボルトを締め、タイヤの摩擦と格闘してきました。ドイツ人が引いた図面なんかじゃねえ。俺たちの手と耳が、あいつの悲鳴を一番よく知ってるんです」
大貫の言葉には、一切の虚飾がなかった。
「油圧の限界点を突破させる。……俺たちが毎晩、凍える東京湾の海風の中でやってきた作業に比べりゃ、造作もねえことです。油圧シリンダーのバルブの遊びを極限まで削り、送油のタイミングをコンマ単位で調整する。現場の勘と腕で、ポイント切り替えの時間を『十秒』から『九・五秒』へ……たったコンマ五秒ですが、確実に縮めてみせました」
「コンマ五秒」。
素人の耳には、あまりにもちっぽけな数字に聞こえるかもしれない。しかし、その場にいる交通工学の権威や国鉄の重鎮たちにとって、その数字が持つ意味は絶大だった。
コンマ五秒の短縮が、一日のダイヤ全体に及ぼす波及効果。それはまさに、天文学的な計算の果てに導き出された「針の穴を通すような奇跡」であることを、彼らは瞬時に理解したのだ。
「待避線で各駅停車が待つ横を、快速が最高時速八十キロで駆け抜ける。日立の最新の信号システムと、我々現場の極限の保守技術。この二つが融合することで、列車の運行間隔は現在の三分から『九十秒』へと半減します。……羽田の空への道は、俺たちが、今のこの軌道のまま、必ず守り抜いてみせます!!」
大貫の野太い絶唱が、大議室の壁に木霊し、そして静かに消えていった。
沈黙。
誰一人として言葉を発することができない、圧倒的な沈黙が数十秒間続いた。
その沈黙を破ったのは、最前列に座る国鉄OBの重鎮委員だった。彼は、ゆっくりと立ち上がると、震える手で、ただ一つ、ポツンと拍手を打った。
パンッ。
その一音が合図だった。
次々と委員たちが立ち上がり、ある者は手元の資料を叩き、ある者は感極まったように何度も頷きながら、両手を打ち鳴らした。
パラパラという音は、瞬く間に地鳴りのような「割れんばかりの拍手喝采」へと変わった。
「素晴らしい……! これぞ、日本の技術者の誇りだ!」
「大蔵省のカネの力に頼らず、知恵と汗で未来を切り開く。我々が求めていたインフラの姿がここにある!」
「京急の地下案など、もはや議論の余地もない! 本日の審議は、東京モノレール案で決まりだ!」
委員たちの口から飛び出す、熱狂的な賛辞の嵐。
社長の目から、ついに大粒の涙が溢れ出し、高級なスーツの膝にシミを作った。星野は、教壇の上で顔を覆って泣き崩れそうになるのを、大貫がその太い腕でガシリと支えていた。
大貫もまた、天井の黄ばんだ照明を仰ぎ見ながら、十五年分の重く、苦しい息を、ようやく、本当にようやく、安堵とともに吐き出していた。
完全なる勝利。
誰の目にも、モノレールという「技術の結晶」が、政治と利権の泥沼から美しく羽ばたいた瞬間に見えた。
だが。
会場の最後尾、熱狂する群衆から完全に切り離された傍聴席の薄暗い影の中で。
京急の五代専務だけは、拍手もせず、冷酷な目で手元の金時計の秒針を見つめていた。
「……人間ってのは、高いところから落ちる時ほど、いい音を出して潰れるんだよなぁ」
五代が、まるで歌うようにそう呟いた、まさにその直後だった。
第1章:アルウェーグの遺言 5
バンッッッ!!!!!
大議室の重厚なマホガニー製の両開き扉が、まるで爆風を受けたかのように、乱暴に蹴り開けられた。
その凄まじい衝撃音は、会場を包み込んでいた「割れんばかりの拍手」を、物理的な刃物で断ち切ったかのようにピタリと止ませた。
数十人の視線が一斉に後方へと注がれる。
歓喜の熱気で満たされていた室内の温度が、一瞬にして「絶対零度」へと急降下した。
そこに立っていたのは、大蔵省主計局主計官、桜田。
彼の姿は、普段の「霞が関のエリート」としての完璧なそれとは、程遠かった。
最高級のオーダーメイドスーツは無残にシワが寄り、ネクタイは結び目がズレて緩んでいる。顔色は土気色を通り越して蝋のように白く、目の下には特捜部の執拗な夜通しの事情聴取を耐え抜いた証である、どす黒い隈が深く刻み込まれていた。
さらに、彼の肩や革靴には、東京を麻痺させた記録的な大渋滞の中で、車を捨てて冷たい雨の中を走ってきたことを示す、生々しい水滴と泥がこびりついていた。
だが、その満身創痍の肉体とは裏腹に、桜田の眼鏡の奥から放たれる眼光は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、狂気じみた「冷酷さ」を湛えていた。
カツン。
桜田が一歩、大理石の床を踏み鳴らした。
たったそれだけの音で、先ほどまでモノレール陣営に熱狂的な賛辞を送っていた交通経済学の権威も、国鉄OBの重鎮も、海運界のドンたちも、一斉に顔から血の気を引き、まるで蛇に睨まれた蛙のように視線を足元へと落とした。
彼らは思い出したのだ。
どれだけ技術が優れていようが、どれだけ世論が味方しようが、この国のインフラの生殺与奪を握っているのは、目の前に現れた「カネの亡者(死神)」ただ一人であることを。
カツン、カツン、カツン。
桜田の革靴が鳴るたびに、大貫の背筋を氷の塊が滑り落ちていく。
(……なんだ、こいつは。人間じゃねえ。……死神だ)
十五年間、昭和島の塩風に耐え、ヘドロの海で四十トンのコンクリートと格闘してきた屈強な現場男が、ただ歩いてくるだけの痩せた官僚の姿に、本能的な「死の恐怖」を覚えていた。
桜田は、教壇で凍りつくモノレール陣営には目もくれず、真っ直ぐに最前列の「空席」へと向かった。
そして、黒革の椅子に深く腰を下ろすと、乱れた息を整えることもなく、卓上のマイクを乱暴に引き寄せた。
「……遅れて申し訳ない、委員長。東京地検の連中が、どうしても私と朝食を共にしたいとごねるものでね。それに、都内の道路行政の無能さのおかげで、少々雨に濡れてしまった」
マイクを通した桜田の声は、嗄れてはいたが、刃物のように鋭く大議室の空気を切り裂いた。
「さきほど廊下を歩きながら、随分と景気の良い拍手を聞きました。……東京モノレールさん。どうやら、素晴らしい『技術論』をご披露されたようですね」
桜田は、手元の分厚い資料の束を、まるで汚物でも扱うかのようにパラパラと素っ気なくめくった。
「既存のコンクリートを流用する。ポイントの油圧をコンマ五秒縮める。そして、国庫からの補助金を一円も使わずに、羽田の輸送力を二倍にする……。なるほど。数字の辻褄は完璧だ。日立製作所さんの優秀な頭脳と、現場の皆さんの『十五年間の血のにじむような努力』の結晶……まさに、涙なしには語れない美談だ」
桜田の口から出た「美談」という言葉は、呪いのように響いた。
教壇に立つ若きエース・星野が、耐えきれずにマイクを握りしめた。
「美談ではありませんッ! これは、我々が実証した『真実』です! 大蔵省が危惧されるような財政負担は一切ありません! この計画こそが、羽田を救う唯一の……」
「黙りたまえ、学生上がりの技術屋が」
桜田の低く冷ややかな一瞥が、星野の言葉を喉の奥へ押し込んだ。
桜田はゆっくりと立ち上がり、教壇のホワイトボードに貼り付けられた、あの緻密で美しい「新・待避線計画」の青焼き図面へと歩み寄った。
「君たちの計画は、確かに技術的には可能かもしれない。だがね……」
桜田の細く青白い指先が、図面の中で赤くマーキングされた一箇所――昭和島車両基地の周辺、数百メートルの「待避線」が新設される予定の空間を、トン、と叩いた。
「君たちは、計算尺ばかりを睨みすぎて、足元の『泥』を見るのを忘れている。……社長。この待避線を敷設するためには、現在の軌道の外側に、幅約三メートル、長さ三百メートルの『新たな空間(土地)』が必要ですね?」
モノレールの社長が、怪訝な顔で頷いた。
「……はい。ですが、そこは昭和島に隣接する単なる護岸の空き地です。都有地のはずですから、運輸省の認可さえ下りれば、専用軌道として使用する権利は……」
「昨日までの話だ」
桜田は、図面から指を離し、内ポケットから一枚の紙切れを取り出して、社長の顔の前に突きつけた。
それは、法務局の印が押された、真新しい「土地登記簿謄本」の写しだった。
「その『単なる護岸の空き地』は、昨日付で、東京都から民間企業へと払い下げられました。理由は簡単です。東京都も、そして我々大蔵省も、オイルショックと汚職の穴埋めで『一円でも現金が欲しい』からですよ。……売れる土地は、すべて売った」
社長の顔色が変わった。
大貫も、星野も、息を止めた。
まさか。
まさか、そんな馬鹿なことが。
「……そ、その土地を買ったのは、どこの企業ですか……ッ!?」
社長の震える声に、桜田は唇の端をわずかに歪めて笑った。
そして、最後尾の傍聴席の暗がりを一瞥した。
「『相模トラスト開発』……表向きは不動産会社ですがね。実態は、京浜急行電鉄と相模鉄道が裏で出資して作った、羽田周辺の土地を買い漁るためのダミー会社ですよ」
その言葉が落ちた瞬間。
傍聴席の奥で、京急の五代専務が、カチリ、と純金製のジッポライターを鳴らし、紫煙を吐き出した。
大貫の脳内で、何かが決定的に崩れ落ちる音がした。
罠だ。
最初から、すべて仕組まれていたのだ。
「……お分かりですか、東京モノレールさん」
桜田は、再び自分の席へと戻りながら、死刑宣告を下す裁判長のように冷徹な声で言い放った。
「君たちの計画は、国費を一円も使わない素晴らしい技術だ。しかし、その技術を実現するための『わずか三メートルの足場』は、すでに君たちの最大の敵の手に渡っている。……他人の私有地の上に、勝手にコンクリートの柱を立てる気ですか?」
「そ、そんな馬鹿な……! たかが空き地です! 国策である羽田アクセスのためなら、土地収用法を適用して……!」
「誰がそのカネを出すんです?」
桜田が、冷酷に遮った。
「土地の所有者である京急・相鉄連合は、その土地を手放す条件として、市場価格の百倍……『五十億円』を要求してくるでしょうね。君たちモノレールに、そのカネが払えますか? それとも、国からの補助金『一円もいらない』という先ほどの前言を撤回し、国民の血税五十億を、ライバル私鉄の懐へ流し込んでくれと、我々大蔵省に泣きつきますか?」
完璧な、逃げ道のない論理の檻。
技術では勝っていた。現場の汗も、熱意も、すべて揃っていた。
しかし、彼らは「土地」と「カネ」という、この国のインフラを支配する最も醜悪なルールの前では、あまりにも無力な赤子に過ぎなかった。
「……ありえない……。こんな、こんなやり方が……許されてたまるか……ッ!」
星野が、ジュラルミンケースを取り落とした。
ガシャァァンッ!! という無残な金属音が、静まり返った大議室に響き渡る。
中から、彼らが徹夜で描き上げた「奇跡の図面」が、床の上へと無様に散らばっていった。
桜田は、足元に転がってきたその図面を、革靴の先端で冷たく踏みつけながら、委員長に向かって静かに言った。
「……私の結論は以上です。東京モノレール案は、用地買収の観点から『実現不可能』。よって、大蔵省は本計画への一切の認可を拒否します。……さて、次は京急さんの地下トンネル案の審議でしたかな?」
十五年間の油と汗が、技術者の誇りが、霞が関の冷たい大理石の床の上で、音を立てて砕け散った瞬間であった。
第1章:アルウェーグの遺言 6
――ビチィッ。
大蔵省主計官・桜田の、泥に汚れた高級革靴の先端が、床に散らばった青焼き図面を踏み躙った音。
それは、大議室の冷たい大理石の床で、何かが決定的に「死んだ」音だった。
「……あ……」
日立製作所の若きエース・星野の口から、空気の抜けるような、間抜けな音が漏れた。
彼には、目の前で起きている現実が理解できなかった。いや、理解することを、彼の極限まで酷使された脳髄が拒絶していた。
彼が床に落としたジュラルミンケース。そこから散乱した図面は、ただの紙ではない。
何ヶ月も、何ヶ月も。来る日も来る日も計算尺を弾き、徹夜で目を血走らせ、コーヒーと安煙草のヤニで胃を荒らしながら組み上げた「真理」だった。
摩擦係数。遠心力。コンクリートの限界応力。油圧シリンダーの動作速度。
それらは、この宇宙を支配する絶対的な物理法則であり、誰がどう計算しても同じ答えに行き着く「神の言葉(数式)」のはずだった。彼ら技術者は、その神の言葉を紡ぎ出し、現実の鉄とコンクリートに翻訳することで、人々の生活を豊かにするという純粋な信仰に生きてきたのだ。
それが。
たった一枚の「土地登記簿謄本」という、人間が勝手に作り出したルールの、ただの紙切れ一枚によって、この世から完全に存在を抹消されようとしている。
「……ち、違う……」
星野は、震える両膝を大理石の床に突き、這いつくばるようにして、桜田の靴の下にある図面に手を伸ばした。
その目は完全に焦点が合っておらず、口からは涎が垂れそうになっていた。
「違うんだ……。計算は合ってる……。コンマ五秒……コンマ五秒縮まるんだ。嘘じゃない……物理法則は、嘘をつかないんだッ……!」
星野の震える指先が、図面の端を掴む。
しかし、桜田はその手をどけようともせず、無表情のまま、革靴の体重をさらに図面へと押し付けた。
ビリッ。
青焼き図面が、無残に裂けた。
星野の頭の中で、張り詰めていた何かが、ブチィッ、と音を立ててちぎれ飛んだ。
「ああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」
それは、言葉ではなかった。
獣の咆哮のような、赤子の泣き叫ぶような、人間の根源的な絶望が混じり合った、凄まじい絶叫だった。
星野は、裂けた図面の欠片を胸に抱きかかえながら、床に頭を何度も、何度も打ち付けた。
「俺たちの計算が! 先輩たちが徹夜で引いた図面が! なんで、なんでこんな紙切れ一枚で……! 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だぁぁッ! 物理は、数字は、こんな理不尽じゃないッ!! なんで、なんでカネと土地だけで、俺たちの『真実』が殺されなきゃならないんだぁぁあああッ!!!」
その血を吐くような慟哭は、先ほどまで彼らを絶賛していた委員たちを凍り付かせた。
誰も、言葉を発することができない。
圧倒的な「正しさ」を持っていたはずの若者が、霞が関の汚泥の中で狂乱していく様を、ただ見下ろすことしかできなかった。
その狂乱する星野の肩を、背後から、分厚く、油で黒ずんだ手が、ガシリと掴んだ。
「……やめろ。星野」
大貫だった。
整備班長の大貫は、床に這いつくばる若きエンジニアを、無理やり引き起こそうとしていた。
だが、大貫自身の身体も、小刻みに、いや、激しく痙攣していた。
大貫の目には、十五年分の情景が、走馬灯のように逆流していた。
昭和39年。ヘドロの海に腰まで浸かりながら、四十トンのコンクリートと格闘した日々。
指を挟んで骨を砕いた同僚の顔。
塩害でボロボロになっていくビームの表面。
毎晩、毎晩、氷点下の海風の中で、手首の感覚がなくなるまでボルトを締め続けた、あの終わりのない孤独な夜。
(……俺たちの十五年は。……俺たちの流した血と汗と油は。……あの冷たいコンクリートの重みは……!!)
大貫は、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先には、自分たちを見下ろす死神・桜田の、氷のような眼差しがあった。
大貫の太い腕の血管が、はち切れんばかりに隆起する。十五年間、巨大なスパナを握り続けてきたその右手が、強烈な殺意を帯びて硬く握りしめられた。
(殺す。この男を、俺のこの手で、コンクリートに叩きつけて殺してやる……!)
大貫の足が、桜田に向かって一歩、踏み出そうとした。
しかし。
その一歩は、出なかった。
大貫は気づいてしまったのだ。
自分がここで、このヒョロ高い官僚の首の骨をへし折ったところで、何一つ変わらないという現実に。
「カネ」と「土地」という、自分たち現場の人間には絶対に触れることのできない、不可視の暴力。いくらハンマーを振り下ろしても、いくらボルトを力任せに締め上げても、その見えない暴力の前では、自分たちの肉体労働など、ただの「無力な肉塊」の足掻きでしかないのだと。
「……あぁ……。あぁぁぁ……」
大貫の口から、星野のような甲高い絶叫ではなく、地鳴りのような、低く、重い嗚咽が漏れた。
握りしめた拳から、力が抜け落ちていく。
大貫は、泣いていた。
顔をくしゃくしゃに歪め、脂汗と涙を混じらせながら、自分たちの十五年間が、完全に、一欠片の希望も残さず「無価値」にされた現実を、その巨大な身体全体で受け止めていた。
「……すまねえ、星野。……すまねえ……」
大貫は、泣き叫ぶ星野を強く抱きしめ、霞が関の大理石の床に、額を擦り付けんばかりに深く、深く頭を垂れた。
油まみれのスーツの袖が、無残に散らばった青焼き図面の上に重なる。
「……俺たちの負けだ。……現場の汗は……計算機は……。カネと政治には、勝てねえんだよ……ッ」
それは、昭和39年からこの国の空を支え続けてきた「アルウェーグの遺産」が、完全に息の根を止められた瞬間であった。
大議室には、技術者たちの無残な慟哭だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
最後尾の席で、京急の五代が、満足げに紫煙を吐き出す音すら、彼らの耳にはもう届いていなかった。
第1章:アルウェーグの遺言 7
大議室の冷たい大理石の床で、日立の若きエース・星野の精神が崩壊し、現場の男・大貫が十五年分の無念を堪えきれずに嗚咽を漏らしている。
それは、日本のインフラ史において、純粋な「技術」が、政治とカネという「暴力」の前に完全に屈服した、あまりにも悲惨で、象徴的な光景であった。
だが。
大蔵省主計官・桜田は、足元で泣き崩れるその二人の男を、まるで道端の石ころでも見るかのような無機質な目で見下ろしていた。
「……委員長。いつまでこのような非生産的な感傷に時間を割くおつもりですか」
桜田の嗄れた、しかしよく通る声が、大議室の沈黙を切り裂いた。
彼は、自らの高級革靴に星野の涙が跳ねるのを嫌悪するように、わずかに足を引いた。
「我々大蔵省は、国家の血税をお預かりしている立場です。民間企業の『お涙頂戴』の苦労話や、用地確保という基本中の基本すら怠った杜撰な計画書につきあっている暇はありません。……議事の進行を」
その言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。
数分前まで、教壇に立つ星野と大貫に向かって「素晴らしい!」「これぞ日本の技術だ!」と割れんばかりの拍手を送っていた審議委員たち。交通経済学の権威たる大学教授や、国鉄OBの重鎮たち。
彼らの顔から、先ほどの「熱狂」が、さァッ、と潮が引くように消え失せたのである。
「……う、うむ。桜田委員の仰る通りだ。いかに技術が優れていようとも、用地確保の目処が立っていないのでは、計画としては『砂上の楼閣』に過ぎん」
先ほど大貫の手を握りしめていた老教授が、誤魔化すように咳払いをし、手元の資料に目を落とした。
「まことに残念だが、東京モノレール案は『実行不可能』として却下せざるを得ない。……社長さん、そういうことです。お引き取り願おう」
他の委員たちも、次々と老教授に同調し始めた。
「民間企業特有の見通しの甘さが出ましたな」
「技術力には敬意を表するが、国家のインフラ計画としては未熟すぎた」
「早急に、次の『京急案』の審議に移るべきだ」
掌返し。
いや、彼らはただ、「絶対的な権力(カネの出どころ)」の風向きに従って、首の角度を変えただけなのだ。彼らとて、桜田の背後にある大蔵省の巨大な力に逆らえば、自分の大学への研究費や、天下り先への補助金が即座に絶たれることを熟知している。
この霞が関の大議室において、「正しさ」とは物理法則ではなく、大蔵省主計局が握る「予算の配分」そのものであった。
「……お前ら……」
大貫は、床に突っ伏したまま、ギリリ、と奥歯を噛み締めた。
怒りすら湧かない。ただ、目の前に座る最高学府の秀才たちが、あまりにも滑稽で、あまりにも醜悪な「権力の奴隷」にしか見えなかった。
こんな連中のご機嫌を取るために、俺たちは十五年間、塩風の中でボルトを締めてきたのか。こんな連中の拍手をもらうために、星野は血を吐く思いで計算尺を弾いたのか。
「……立て、星野」
大貫は、虚脱状態のまま震えている星野の脇に太い腕を差し入れ、強引に引き起こした。
「もういい。こんな腐った場所に、俺たちの十五年を置いていく必要はねえ。……帰るぞ」
大貫は、桜田の靴の下で無残に引き裂かれた青焼き図面の欠片を、油で汚れた太い指で、一枚、一枚、丁寧に拾い集めた。
それは、死んだ我が子の骨を拾うような、あまりにも悲痛な手つきだった。
社長もまた、一言も発することなく、深く、ただ深く委員たちに頭を下げ、大議室の出口へと重い足取りで向かった。
彼らが退室していくその後ろ姿を、傍聴席の最後尾から、京急の五代専務が悠然と見送っていた。
五代は、純金製のジッポライターをポケットにしまい、ゆっくりと立ち上がった。
そして、遥か前方、委員長席の隣に座る桜田と、一瞬だけ、視線を交わした。
(……ご苦労だったな、死神先生。お前さんの残酷な『処刑』のおかげで、羽田の空は、我々京急のものになる)
五代の目が、そう雄弁に語っていた。
桜田は、五代の視線に気づきながらも、表情一つ変えなかった。
桜田にとって、モノレールを潰したことも、京急のダミー会社を利用したことも、すべては「大蔵省の台所事情」という至上命題をクリアするための、単なる盤上の駒の操作に過ぎない。
私鉄の野望など、どうでもいい。ただ、国費の無駄遣いを防ぎ、自らの権力を誇示できればそれでいいのだ。
ギィィィ……バンッ。
大貫たちが退出すると同時に、大議室の重厚な扉が、彼らを永遠に締め出すように、冷酷な音を立てて閉ざされた。
「……さて。邪魔者も消えたところで、本題に入ろうか」
桜田は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷ややかな声で言った。
「京浜急行電鉄による、羽田空港地下乗り入れ計画。……さあ、莫大な補助金をせびり取ろうという君たちの『夢物語』が、果たして我々大蔵省の審査に耐えうるか、見せてもらおうじゃないか」
大議室の空気は、モノレールという「生贄」の血を啜り、さらなる巨大な欲望の渦へと飲み込まれていった。
一方、扉の外。
霞が関の冷たい廊下に放り出されたモノレール陣営を待っていたのは、先ほどの熱狂とは打って変わった、絶対的な「無関心」だった。
「……社長。どうやら、モノレール案は駄目だったようですね。京急の審議が始まりましたよ」
「やはり、大蔵省に睨まれては勝ち目はありませんでしたか」
廊下にたむろしていた記者たちは、敗軍の将たる彼らに、もはやマイクを向けようともしなかった。彼らの関心はすでに、密室の中で始まった「京急vs大蔵省」の、数百億円を巡る新たな利権の攻防へと移っていたのだ。
大衆の熱狂など、所詮はその程度のもの。
新しいオモチャを見つければ、古いオモチャはすぐに見向きもされなくなる。
「……すまん。大貫。……星野くん」
誰もいなくなったエレベーターホールで、社長が、絞り出すような声で二人に謝罪した。
「私の、政治力のなさが招いた結果だ。君たちの十五年を、こんな形で……」
「……社長。謝らないでください」
大貫は、破れた図面を胸に抱いたまま、前を向いて歩き出した。
その目は、完全に死んでいた。いや、すべてを諦め、自分たちが「ただの機械の部品」であることを、心の底から受け入れてしまった者の、虚無の目だった。
「俺たちは、帰ります。……帰って、またボルトを締めるだけです。俺たちの仕事は、それだけですから」
エレベーターの下降を知らせる電子音が、昭和39年から続いた彼らの「夢の終わり」を告げる、葬送曲のように響き渡っていた。
第1章:アルウェーグの遺言 8
昭和54年、冬。午後十一時四十五分。
海からの風は、今朝よりもさらに鋭く、冷たさを増していた。
東京湾の最深部に浮かぶ人工島、昭和島車両基地。
霞が関の白亜の殿堂から、この油と潮風にまみれた「現実」へと帰還した大貫は、すでにあの窮屈な紺色のスーツを脱ぎ捨てていた。代わりに身を包んでいるのは、長年着古して油の匂いが繊維の奥まで染み込んだ、いつもの分厚い防寒作業着だった。
プレハブ小屋の冷たいパイプ椅子に、日立製作所の星野が、魂を抜かれた抜け殻のように座っていた。
彼の膝の上には、桜田の革靴によって無残に引き裂かれ、泥の足跡がくっきりと残った「新・待避線計画」の青焼き図面が、セロハンテープで不格好に繋ぎ合わされて置かれている。大貫が霞が関の床から拾い集め、無言のまま星野に手渡したものだ。
「……大貫さん……」
星野が、ひび割れた声で虚空に向かって呟いた。
「俺たちの計算は……間違っていなかったんですよね……。物理の法則は……正しかったんですよね……」
大貫は、プレハブの隅に置かれた石油ストーブの上に缶コーヒーを置きながら、短く答えた。
「ああ。お前は正しい。日立の頭脳も、俺たち現場の腕も、間違っちゃいなかった。……ただ、勝負した『土俵』が違っただけだ。俺たちはコンクリートの強度と時間の限界と戦っていた。だが、あいつらは『カネ』と『土地』という、俺たちには見えないルールで戦っていた。……それだけのことだ」
「……悔しいです……。悔しい……ッ! あの桜田って男の、俺たちを見下ろす目が……! 俺たちの十五年を、ただの『一円の価値もないゴミ』を見るような、あの冷たい目が……!」
星野の両手から、再び嗚咽が漏れた。
若き天才エンジニアの純粋な自尊心は、霞が関の密室で、資本主義という名の怪物によって完全に噛み砕かれていた。彼が再び計算尺を握れるようになるまで、どれだけの時間が必要になるのか、大貫にも分からなかった。
ギィィ……と、プレハブの薄いドアが開いた。
夜勤明けの若い整備士、高橋が、不安げな顔を覗かせた。
「……大貫さん。その……お疲れ様ッス。……審議会、どうだったんスか? ニュースじゃ、京急の地下トンネル案が有力だって、夕方からずっとやってて……」
高橋の視線が、星野の膝の上にある無残な図面に落ちた。そして、すべてを察したように言葉を濁した。
「……負けたんだよ」
大貫は、石油ストーブで温まった缶コーヒーを星野の震える手に握らせると、自らの工具箱から「テストハンマー」を取り出した。
「国は、俺たちに一円の金も出さねえ。京急のダミー会社に土地を抑えられ、待避線も作れねえ。……明日からも、ダイヤはこのままだ。羽田の客がどれだけ溢れようが、俺たちはこの『傷だらけの単線』を使い倒して、だましだまし客を運ぶしかねえんだ」
大貫は、ハンマーの冷たい柄を、右手にギュッと握りしめた。
その感触。
霞が関の高級なマホガニーの机でも、大理石の床でもない。鉄と油の、冷たくて重い、確かな「現実」の感触だった。
「……行くぞ、高橋。最終電車の入庫だ」
「えっ? あ、はいッス! ……でも大貫さん、今日くらい休んでも……」
「馬鹿野郎。誰が休むって言った」
大貫は、プレハブの扉を開け放った。
深夜の東京湾の、凍てつくような塩風が、室内の澱んだ空気を一気に吹き飛ばした。
「国が俺たちを見捨てようが、大蔵省の死神が俺たちの図面を破り捨てようが、そんなことはどうでもいい。……俺たちが十五年前に、あのヘドロの海の上に産み落としちまった『未熟児』は、俺たちがボルトを締めてやらなきゃ、明日、空から落ちるんだよ」
大貫の背中が、暗闇の中で異様なほどの熱を帯びていた。
それは、もはや「仕事への責任感」などという生易しいものではない。己の人生のすべてを否定された男が、それでもなお、己の存在意義を証明しようとする、呪いにも似た「怨念」だった。
「……星野」
大貫は、扉の外から、背中越しに若きエンジニアに呼びかけた。
「泣くのは今日で終わりにしろ。お前は日立に帰って、新しい車両の図面を引け。……待避線が作れねえなら、一両に乗れる客の数を力技で増やすような、化け物みたいな新型車両を考えろ。カネがねえなら、知恵を絞れ。……あいつらが俺たちから『土地』を奪ったのなら、俺たちは『技術』の暴力で、羽田の空を独占し続けてやる」
星野は、顔を上げ、涙で滲んだ目で大貫の背中を見つめた。
返事は、なかった。だが、彼の手は、繋ぎ合わされた青焼き図面を、破れないようにそっと、しかし力強く握りしめていた。
大貫と高橋は、吹きすさぶ風の中、コンクリートの軌道の下へと歩みを進めた。
頭上を、最終の500形モノレールが、重い金属音とゴムタイヤの摩擦音を響かせながら、ゆっくりと車庫へと滑り込んでくる。
キーィィィィン……ガシャンッ。
車両が停止し、電気が降ろされる。
完全に静まり返った巨大なコンクリートの蛇の下に、大貫は再び、自らの体を潜り込ませた。
そして、暗闇の中で、ヘッドライトの光だけを頼りに、巨大なアルウェーグ式台車のボルトに狙いを定めた。
ドイツから買ってきた未完成の図面。
十七ヶ月の狂気の突貫工事。
塩害で剥がれ落ちるコンクリート。
大蔵省の死神による、無慈悲な処刑。
そのすべての呪いを、一本のボルトのネジ山に込めるように。
――カンッ。
高く、澄んだ金属音が、深夜の昭和島に響き渡った。
「……よし。規定トルク、異常なし。次だ」
アルウェーグの遺言。
それは、「未来の乗り物」という華やかな幻影などではなかった。
ただひたすらに、己の手と耳だけを信じ、油にまみれ、コンクリートの軋みと格闘し続けること。国家にも、資本家にも理解されない、現場の人間たちだけに課せられた、永遠に終わることのない「贖罪」の十字架。
その重い十字架を背負った男たちの、テストハンマーを叩く音だけが、海風に混じって、いつまでも、いつまでも東京湾の闇に吸い込まれていった。
第一章 完。
第2章:泥と血の地下帝国 1
ギィィィ……バンッ。
東京モノレールの整備班長・大貫と、若きエンジニア・星野の背中が消え、大議室の重厚なマホガニー製の扉が完全に閉ざされた。
部屋に残されたのは、数十人の審議委員たちと、大蔵省主計官・桜田、そして最後尾の傍聴席に座る男だけだった。
数分前まで、日立の計算尺と現場の汗が織りなす「純粋な技術の結晶」に熱狂し、涙すら浮かべていた委員たち。だが今、彼らの顔に感傷の色は微塵もない。彼らの視線はすでに、次なる「巨大な利権の塊」――すなわち、自分たちの大学の研究費や、関連企業への発注という名の『甘い汁』を滴らせてくれる、新たな獲物へと完全に切り替わっていた。
「……さて。センチメンタルな余興は終わった」
桜田が、冷たい声で静寂を破った。
彼は懐から純白のハンカチを取り出し、自らの高級革靴の先端――先ほどまで星野の青焼き図面を踏みにじり、若き技術者の涎と涙でわずかに汚れた部分――を、まるで汚物でも拭き取るように、丁寧に、かつ執拗に拭った。
「委員長。議事を進めたまえ。我々大蔵省は、特捜部の連中と違って暇ではないんだ。無駄な時間は一秒たりとも使いたくない」
特捜部の執拗な取り調べを夜通し受け、記録的な大渋滞の中を泥まみれになって駆けつけてきた男の言葉とは思えない、氷のような落ち着きだった。桜田のその圧倒的な「国家権力の体現者」としてのプレッシャーに、委員長はビクンと肩を震わせ、慌てて手元の進行表に目を落とした。
「は、はいッ! 桜田委員の仰る通りです。……ええと、それではこれより、京浜急行電鉄株式会社より提出された『羽田空港・地下トンネル乗り入れ計画』についての審議を開始いたします。……京急さん、前へ」
その声に応えるように、大議室の最後尾、最も暗い傍聴席の影から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
京急電鉄・専務取締役、五代である。
カツ、カツ、カツ。
五代の履く、イタリア製の特注品の革靴が大理石を叩く音が、大議室に響き渡る。
先ほどの大貫の、重く、引きずるような油まみれの安全靴の足音とは対極にある、軽快で、しかし確実に獲物の急所へと迫る肉食獣の足音だった。
五代は、仕立ての良さが一目でわかるスリーピースのスーツを優雅に着こなし、髪はポマードで一糸乱れぬオールバックに撫で付けられている。彼が歩みを進めるたびに、大議室の澱んだ空気に、高級な葉巻と、男の野心の匂いが混じり合った、濃密で甘い香りが漂った。
五代は、数分前まで大貫と星野が絶望の淵に立たされていた教壇(プレゼン席)へと上がり、歩みを止めた。
そして、ふと視線を足元へと落とした。
そこには、星野が引き裂かれた図面を拾い集めた際に残った、わずかな指の跡と、乾きかけた涙のシミが、大理石の表面に薄っすらと残っていた。
「……いやはや。技術者というのは、いつの時代も純粋で、美しく、そして……ひどく脆い生き物ですな」
五代は、マイクを通さずに、しかし最前列の桜田にだけはっきりと聞こえる声で囁き、口の端を歪めて笑った。
桜田は無表情のまま、ハンカチを懐にしまい、五代を見据えた。
「……御託はいい。君たちはあのモノレールの連中と違って、私が『一円も出さない』と言えば、その瞬間に首を吊る覚悟でここへ来ているんだろうな? 五代専務」
「ご冗談を、死神先生。我々民間企業は、国家の財布の紐を握る大蔵省様に、首を吊らされるような間抜けな真似はいたしませんよ」
五代は、うやうやしく一礼すると、傍らに控えていた部下から、分厚い黒革のファイルを受け取った。それは、モノレール陣営が抱えていた手書きの青焼き図面のような泥臭い代物ではない。金箔で『京浜急行電鉄・羽田空港直通プロジェクト』と刻印された、莫大な資本の匂いがする「国家戦略書」であった。
五代は自らの手でマイクのスイッチを入れ、委員たちをぐるりと見渡した。
「……委員の皆様。本日は、我々京急の悲願であり、同時にこの『大日本帝国』……失礼、この『経済大国・日本』の威信を懸けた、真の国家プロジェクトをご提案させていただきます」
五代の声は、滑らかで、力強く、そして圧倒的な自信に満ちていた。
「先ほどのモノレールさんのご提案。既存のコンクリートを使い倒すという、あの涙ぐましい『町工場の根性論』には、私も胸を打たれました。しかし、皆様。冷静になってお考えいただきたい」
五代は、両手を大きく広げた。
「これから我が国は、ジャンボジェットの時代を迎えます。年間数千万人もの国際線客が、日本の玄関口である羽田に降り立つ。その彼らを、あのような『遊園地の延長線上の乗り物』で、しかも雨風に晒され、塩害でいつ崩れ落ちるかもわからないコンクリートの細道を走らせて、東京都心へ運ぶおつもりですか? ……それは、国家の恥です」
五代の言葉に、委員たちがゴクリと息を呑む音が聞こえた。
先ほどまでモノレールを「日本の技術の結晶」と称賛していた舌の根も乾かぬうちに、彼らは五代の放つ「国家の恥」「威信」という甘美な響きに、あっさりと絡め取られていく。
「真の国際空港のアクセスとは、大量輸送、高速性、そして何より『圧倒的な安全性と美観』を兼ね備えていなければならない。それを実現する唯一の手段……」
五代は、黒革のファイルを開き、一枚の巨大な透視図をホワイトボードに掲げた。
そこには、東京湾のどす黒い海面のさらに下、深く、暗い海底の泥岩層を貫いて、一直線に羽田空港のターミナル地下へと伸びる、巨大なコンクリートの円筒が描かれていた。
「東京湾の海底を、直径十メートルを超える超大型シールドマシンで一直線に掘り抜く。天空の細道ではなく、大地の底に、我が京急の赤い電車を最高時速百二十キロで走らせる『巨大な地下帝国』を建設するのです!!」
大議室が、どよめきに包まれた。
海底トンネル。
それは、海風や塩害を気にする必要もなく、用地買収のハードルすら「地下深く潜る」ことで物理的に回避しようという、あまりにも壮大で、あまりにも暴力的な解決策だった。
モノレールが十五年間、地上でチマチマとボルトを締め、コンマ五秒を削る努力を続けてきたその真下を、巨大な鋼鉄のモグラで一息に貫いてしまおうというのだ。
「……素晴らしい……! これぞ、新時代のインフラだ!」
「海の下なら、騒音問題も景観問題も一挙に解決する! やはり京急案こそが本命だったんだ!」
委員たちが、またしても無責任な歓声を上げ始める。彼らの脳内にはすでに、この巨大工事に伴う莫大なゼネコンへの発注と、そこに群がる利権の構図が、黄金の輝きを放って描かれていた。
五代は、委員たちの歓声を、指揮者のように満足げに浴びていた。
だが。
ドンッ!!
突然、最前列で、分厚い資料の束が机に叩きつけられる鈍い音が響いた。
委員たちの歓声が、ピタリと止む。
資料を叩きつけたのは、もちろん桜田だった。
彼は、眼鏡の奥の氷のような瞳で、教壇で笑みを作る五代を真っ直ぐに射抜いていた。
「……三文芝居はそこまでにしてもらおうか。五代専務」
桜田の声は、地獄の底から響いてくるように低かった。
「シールド工法による海底トンネル。確かに、絵に描いた餅としては非常に美しい。……だがね」
桜田は、手元の計算機を人差し指で弾きながら、極めて残酷な問いを放った。
「その直径十メートルの巨大な穴を、水圧とヘドロに耐えながら数キロにわたって掘り進めるための費用。そして、羽田の滑走路の真下に巨大な地下駅を建造するための費用。……総額でいくらかかると思っている? そして何より……」
桜田の目が、五代の心臓を物理的に抉り取るように細められた。
「その天文学的な『カネ』を、一体誰が払うつもりで、君はそこへ立っているんだ?」
大議室の温度が、再び絶対零度へと急降下した。
大蔵省・桜田と、京急・五代。
絶対に相容れない、国家の財布と、私鉄の欲望が、ついに真っ向から激突した瞬間であった。
第2章:泥と血の地下帝国 2
「……その天文学的な『カネ』を、一体誰が払うつもりで、君はそこへ立っているんだ?」
大蔵省主計官・桜田の、地を這うような低い声が、大議室の空気を完全に凍結させた。
先ほどまで「シールド工法」や「海底トンネル」という甘美な響きに酔いしれ、ゼネコンへの発注という名の利権を夢見ていた委員たちは、一瞬にして現実に引き戻された。
桜田は、手元の計算機を弾くこともやめ、冷たい視線でホワイトボードの巨大な透視図を睨みつけた。
「シールド工法。……なるほど、確かに地上部の用地買収からは逃れられるだろう。だが、東京湾の海底、しかもあのドブのようなヘドロ層のさらに下にある硬い泥岩層を、直径十メートルもの刃で削り進む。水圧との戦い。出水事故のリスク。そして何より、現在もジャンボジェットが離着陸を繰り返している滑走路の『真下』に、巨大な地下駅の空洞を建造する……」
桜田の細い指が、トントン、と机を叩く。
その規則的な音は、まるで死刑台への階段を上る足音のように、大議室に響いた。
「五代専務。我々大蔵省の試算では、君たちの描いたその『地下帝国』の総工費は、少なく見積もっても【一千五百億円】を下らない。……オイルショックの後遺症で喘ぎ、赤字国債の山に埋もれかけている現在の日本国に、一企業の鉄道を羽田に引き込むためだけに、そんな莫大な予算を捻出する余裕があるとでも思っているのか?」
一千五百億円。
その途方もない数字の質量に、委員たちは完全に沈黙した。先ほどモノレール陣営が「国費を一円も使わずに」と宣言したことで、大蔵省の予算に対するハードルは、すでに異常なほど高く設定されてしまっていたのだ。
「国庫からは、一円も出さない。いや、出せない。……それが大蔵省の絶対的な回答だ」
桜田は、冷酷な目で五代を見据えた。
「さあ、五代専務。君たちは先ほどのモノレールのように、この場で図面を破り捨てて泣きながら帰るか? それとも、一千五百億円という途方もない借金を自社で抱え込み、京浜急行電鉄という会社そのものを東京湾の底に沈めるか。……どちらかを選びたまえ」
完璧なまでの、予算という名の暴力。
技術力も、政治的な根回しも、すべてを「カネがない」という絶対的な現実の前で粉砕する。これが、霞が関における大蔵省の無敵の論理であった。
だが。
教壇に立つ五代専務の顔から、あの不敵な笑みが消えることはなかった。
彼は純金製のジッポライターを指先でもてあそびながら、ゆっくりと口を開いた。
「……さすがは死神先生。我々の試算と一桁の狂いもない。素晴らしい計算能力だ」
五代は、全く怯む様子を見せず、むしろこの絶望的な状況を楽しんでいるかのように両手を広げた。
「おっしゃる通り、一千五百億円という巨費を、我が京急単独で負担することは不可能です。会社が三つあっても吹き飛びますからね。しかし、大蔵省様が『国庫からは一円も出さない』と仰るのも、百も承知でここへ参りました」
「……ならば、どうやって掘るつもりだ。まさか、運賃を十倍にでも値上げする気か?」
「いえいえ。……我々は、こう提案しているのです」
五代は、傍らに控えていた部下から、新たな書類の束を受け取り、それを委員長の机へと滑り込ませた。
「『第三セクター方式』による、新会社の設立です」
「第三セクター」。
その言葉が出た瞬間、桜田の眼鏡の奥の瞳が、わずかに、しかし鋭く細められた。
「国や地方自治体、つまり運輸省や東京都が半分を出資し、我々民間企業が残り半分を出資する。そして、その新会社が主体となってトンネルを掘り、我々京急はそこに『線路を借りて走る』。……これなら、大蔵省様の負担は半分以下に減り、さらに建設のための財投(財政投融資)の枠組みも使えるはずです」
五代の提案は、巧妙だった。
完全な民間事業ではなく、国策としての公共事業の皮を被せることで、巨大な国家予算のパイプラインに直接ストローを突き刺そうというのだ。
「……ふざけるな」
桜田が、吐き捨てるように言った。
「名前を変えようが、国庫から数百億円のカネを吸い上げることに変わりはない。それに、なぜ一介の私鉄である君たちのために、国がわざわざ新会社を作ってまで海底を掘ってやらねばならない? それならば、国鉄を延伸させた方がまだ理にかなっている」
「果たしてそうでしょうか?」
五代は、教壇から一歩、桜田の方へと歩み寄った。その声のトーンが、一段と低く、ねっとりとしたものに変わる。
「……桜田主計官。あなたは先ほど、モノレールの連中を処刑する際に、彼らの『用地確保の甘さ』を指摘されましたね。彼らが待避線を引こうとしていた昭和島隣接の都有地が、すでに民間企業に払い下げられていた、と」
五代の言葉に、大議室の空気が再び張り詰めた。
先ほど、星野の精神を崩壊させた、あの一枚の「土地登記簿謄本」の記憶が蘇る。
「あの土地を買い上げたダミー会社、『相模トラスト開発』。……当然、裏で糸を引いているのは我々京急と相鉄です。我々は、あの一帯の土地を、市場価格の数倍の値段で『すでに』買い占めております」
五代は、内ポケットから数枚の書類を取り出し、宙でヒラヒラと振ってみせた。
「海を埋め立て、海底を掘るだけでは、インフラは完成しません。掘り出した土砂の捨て場、シールドマシンを搬入するための巨大な縦穴(立坑)を掘るための広大な『地上部の土地』が、絶対に必要になる」
五代の目が、蛇のように桜田を捉えた。
「そして現在、羽田周辺でその条件を満たす土地の所有権は、すべて我々が押さえている。……お分かりですか? 我々京急を排除して、国鉄や他の企業が羽田の地下を掘ろうとしても、すでに『足場』が存在しないのです。土地収用法を適用して我々から強引に奪い取ろうとすれば、泥沼の法廷闘争で十年は着工が遅れるでしょうね」
これが、五代が用意していた「悪魔のカード」だった。
モノレールを潰すために使った土地を、今度は国家(大蔵省)の首根っこを掴むための「人質」として突きつけてきたのだ。
「国庫から数百億を出して、我々と組んで第三セクターを作るか。それとも、羽田のアクセス改善という国家の至上命題を、我々との裁判で十年以上塩漬けにして、国際社会の笑いものになるか。……選ぶのは、大蔵省様ですよ」
五代は、最前列の桜田を見下ろしながら、ポマードの匂いとともに、絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべた。
大議室は、完全なる沈黙に支配された。
民間企業が、たった一枚の「土地」という切り札を使って、国家の中枢である大蔵省を堂々と脅迫している。そのあまりにも巨大で、あまりにも醜悪なスケールの取引に、委員たちは息をするのすら忘れていた。
だが。
五代に見下ろされていた桜田は、激昂するでもなく、狼狽するでもなく。
ただ、薄い唇を三日月のように歪めて、こう呟いたのだ。
「……なるほど。私鉄の分際で、この大蔵省の喉元にナイフを突き立ててきたつもりか。……面白い」
死神が、ついにその「真の牙」を剥いた瞬間であった。
第2章:泥と血の地下帝国 3
「……なるほど。私鉄の分際で、この大蔵省の喉元にナイフを突き立ててきたつもりか。……面白い」
大蔵省主計官・桜田の薄い唇から漏れたのは、怒りではなく、深い、あまりにも深い「冷笑」だった。
その氷のように冷たい笑い声が響いた瞬間、大議室の温度はさらに数度下がり、先ほどまで京急のシールドトンネル案に歓声を上げていた委員たちは、一斉に背筋を凍らせて沈黙した。
五代は、手元の純金製ジッポライターを弄る手を止めず、教壇の上から桜田を見下ろしたまま、余裕の笑みを崩さなかった。
「ナイフなどと、物騒な表現はおやめください、主計官。これはあくまで、国家と民間が手を取り合って羽田を救うための、極めて建設的な『交渉』ですよ。我々が確保した土地を使えば、第三セクターのトンネル工事は明日からでも着工できる。……お互いにとって、悪い話ではないはずです」
「確保した土地」。
それは、五代がダミー会社を使って買い占めた、羽田周辺の広大な地上部。トンネルを掘るための巨大な縦穴(立坑)を穿ち、掘り出した莫大なヘドロを捨て、資材を搬入するための絶対不可欠な「足場」である。そこを完全に押さえている以上、大蔵省は京急と組むしか道はない。それが五代の絶対的な自信の根拠だった。
カツン。
桜田はゆっくりと立ち上がると、教壇に向かって歩みを進めた。
そして、五代のすぐ横を通り抜け、ホワイトボードに掲げられた巨大な透視図――京急が描いた、現在の羽田空港のターミナル直下へと続く美しい地下駅のパース図――の前に立った。
「五代専務。君は先ほど、モノレールの連中を『町工場の根性論』と笑ったな」
桜田は、ホワイトボードの隅に置かれていた黒板消し(イレーザー)を手に取った。
「だが、君のやっていることも、所詮は『不動産屋の地上げ』の延長に過ぎない。君たちは足元の泥(土地)ばかりを見ていて、本当の『国家の地図』というものを見たことがないのだ」
ズザッ、ズザザッ。
次の瞬間、桜田は躊躇なくイレーザーを振り動かし、五代が用意した美しき地下駅の透視図を、乱暴に擦り消し始めた。
チョークとインクが混じった黒い汚れが、ホワイトボードの上に無残に広がっていく。
「なっ……! 何をするッ、桜田主計官!」
五代の背後に控えていた京急の部下たちが、血相を変えて抗議の声を上げた。
だが、五代は無言で手を挙げ、部下たちを制止した。五代の額に、初めて一筋の冷汗が流れていた。この死神が、ただの感情的な癇癪でこんな行動に出るはずがない。何か、決定的な「罠」がある。
桜田は、地下駅の図面を半分ほど消し去ると、今度は赤いマーカーを手に取り、現在の羽田空港のさらに東側――つまり、東京湾のどす黒い海面の上に、巨大な「四角形」を乱暴に描き殴った。
「五代専務。君がダミー会社を使って買い占めたというその『土地』は、現在の羽田の西側、旧ターミナルの周辺だな?」
「……それが何か?」
五代の問いに、桜田は赤いマーカーで描いた海上の四角形を、トントンと叩いた。
「君は、運輸省の航空局が極秘裏に進めている『羽田空港・沖合展開事業』の最終答申案を読んでいないのかね? ……ああ、無理もない。君たち私鉄のロビイストが入り込めるほど、霞が関の奥の院は甘くないからな」
「沖合展開事業」。
その言葉が出た瞬間、交通経済学の老教授が「あっ!」と小さく叫び、ガタッと椅子から腰を浮かせた。
「現在の羽田は、騒音問題と発着枠の限界で、すでに機能不全を起こしている。だから我々国家は、空港そのものを『東京湾の沖合(海の上)』へ、数キロメートル丸ごと移動させる計画を決定したのだよ。新たな広大な埋め立て地を造り、そこに巨大な新ターミナルと三本の滑走路を建設する」
桜田の冷徹な声が、大議室に響き渡る。
五代の顔色から、ついに余裕の笑みが完全に消え去った。
「空港が、海の上へ移動する……?」
「そうだ」
桜田は、冷酷な笑みを浮かべて五代を振り返った。
「つまり、君が数百億円の借金をしてまで買い占めたその『人質の土地』は、新しいターミナルから数キロも離れた、ただの辺鄙な空き地になるということだ。……そこから地下トンネルを掘り始めたところで、新しい空港までは届かない。届かせようとすれば、海底のさらに奥深くを、追加で数キロも掘り進まなければならない」
桜田は、五代の胸元に歩み寄り、その仕立ての良いスリーピースのスーツの襟を、指先で軽く弾いた。
「一千五百億だと言ったな? 甘い。新ターミナルまで海底を掘り抜くなら、総工費は【三千億円】に跳ね上がる。……さあ、五代専務。君の用意した『人質の土地』は、一瞬にして何の価値もないただの泥沼に変わった。その上で、三千億円の巨大事業を、我々大蔵省に『第三セクターで半分持て』と、もう一度その口で言ってみたまえ」
完璧な、国家による【ちゃぶ台返し】。
私鉄が一つの土地を抑えようが、国家は「地図そのものを書き換えてしまう」ことができる。五代が仕掛けた周到な罠は、桜田が広げた「沖合展開」という巨大な風呂敷の前に、あっけなく無力化されてしまったのだ。
「……ッ!」
五代の奥歯が、ギリリ、と不快な音を立てて鳴った。
いつもは余裕で回している純金製のジッポライターが、手汗で滑り、カシャン、と音を立てて大理石の床に落ちた。
その純金が床に落ちる音は、京浜急行電鉄という巨大私鉄の野望が、大蔵省という国家の化け物の前に、完全にへし折られたことを告げる「敗北の鐘」であった。
「……理解できたようだな、私鉄の分際が」
桜田は、床に落ちたライターを一瞥すらせず、自分の席へと戻りながら、冷たく言い放った。
「大蔵省は、羽田の沖合展開という数兆円規模の国家プロジェクトを控えている。君たちの泥遊びのトンネルに回す予算など、一円たりとも存在しない。……本日の審議はこれで終了だ。京急案も、却下とする」
死神の死刑宣告。
モノレールに続き、京急までもが、たった数分の論理戦で完全に屠り去られた。
大議室は、圧倒的な国家権力の暴力に、ただただ沈黙するしかなかった。
第2章:泥と血の地下帝国 4
カシャン……。
大理石の床に落ちた純金製のジッポライターの音が、完全に静まり返った大議室に、ひどく虚しく響いた。
大蔵省主計官・桜田が放った「羽田空港の沖合展開」という、地形そのものを書き換える国家の巨大な一撃。それは、京急・五代が周到に用意していた「土地の買い占め」というカードを、一瞬にしてただの『無価値な泥の山』へと変えてしまった。
桜田は、五代に背を向け、自らの席へと戻りながら冷酷に告げた。
「……本日の審議はこれで終了だ。モノレール案に続き、京急案も却下とする」
委員たちが、安堵したような、しかし巨大な利権が消滅した落胆を隠しきれないような、複雑なため息を漏らしながら席を立ち始めた。
勝負は決した。国家の金庫番は、民間企業の強欲を完璧な論理でねじ伏せたのだ。誰もがそう思った。
だが。
教壇の上で、顔面を蒼白にしていた五代専務の肩が、微かに、小刻みに震え始めた。
それは、敗北の震えではなかった。
「……くっ……くくくくッ……!!」
五代の喉の奥から、押し殺したような、だが確かな『笑い声』が漏れた。
席を立とうとしていた委員たちが、不気味なものを見るような目で一斉に振り返る。桜田もまた、足を止め、冷ややかな視線を背後へ投げた。
「何がおかしい。五代専務。自らの会社を傾かせるほどの不良債権(土地)を抱え込んだショックで、正気を失ったか?」
五代は、ゆっくりとしゃがみ込み、床に落ちていた純金のライターを拾い上げた。
そして、スーツの膝についた埃を優雅に払いながら、立ち上がる。その顔には、先ほどまでの「余裕ぶった策士」の仮面は完全に剥がれ落ち、底知れぬ欲望を剥き出しにした『生粋の商人』のギラついた笑みが張り付いていた。
「……いやはや。お見事です、桜田主計官。これほどの強烈なカウンターを喰らったのは、私の人生でも初めての経験ですよ」
五代は、チャキ、とライターの蓋を開け閉めしながら、桜田の方へと歩み寄った。
「しかし……一つだけ、あなたに伺いたい。モノレールを『用地不足』で潰し、我々京急の土地を『無価値』にした。結構だ。……では、数年後に海の上へ移動した巨大な新ターミナルへ、年間五千万人もの国際線客を、一体『誰が』『どうやって』運ぶおつもりですか? まさか、大蔵省の役人たちが、一人一人おんぶして海を渡るわけでもあるまい」
その本質を突く問いに、委員たちはハッと息を呑んだ。
そうだ。どんなに大蔵省が予算を渋ろうが、羽田空港が巨大化する以上、「そこへ至る鉄の道」は絶対に、物理的に必要なのだ。
「……言ったはずだ。国鉄を延伸させるまでのこと」
桜田が冷たく切り捨てる。
「ご冗談を!」
五代が、大声で笑い飛ばした。
「今の国鉄に、海の下を数キロも掘り進む気力と体力がありますか! 毎日のように労働組合がストライキを起こし、巨額の累積赤字で首が回らないあの『沈みかけの泥船』に、国家の威信を懸けた空港アクセスを任せる? ……主計官、あなたの優秀な計算機が、そんな非合理的な解を弾き出すはずがない」
五代は、桜田の目の前まで歩み寄り、その冷徹な眼鏡の奥の瞳を、真正面から覗き込んだ。
「……桜田主計官。あなたは最初から、モノレールでも国鉄でもなく、我々『京急』にトンネルを掘らせるつもりだったはずだ。なぜなら、それだけの巨費を調達できる信用力と、狂気じみた情熱を持っている私鉄は、我が社しかないからです」
「……」
「しかし、あなたは我々が最初から『おいしい条件』で国庫の補助金(第三セクター)を引き出そうとするのが気に入らなかった。だから、沖合展開という爆弾を落として、我々の『人質の土地』の価値を暴落させ、私の鼻っ柱をへし折った。……我々から、極限まで『血』を搾り取るための交渉術としてね」
大議室が、張り詰めた沈黙に包まれた。
五代の言葉が真実だとすれば、先ほどからの桜田の「処刑」は、すべて京急から圧倒的に有利な条件を引き出すための、恐るべき布石だったことになる。
桜田は、数秒の沈黙の後。
ふ、と薄い唇を歪め、初めてその顔に「悪魔の微笑」を浮かべた。
「……さすがは、五島慶太のDNAを継ぐ赤い私鉄の男だ。鼻が利くな」
桜田のその一言で、五代の推測が完全に正しかったことが証明された。
「五代専務。君の言う通り、我々大蔵省は一円も出したくないが、羽田への鉄路は絶対に必要だ。……よって、君の提案した『第三セクター方式』による新会社設立を認めてやろう。三千億円という巨額の総工費に対し、国家の血税(予算)を投入してやる」
その瞬間、五代の目が歓喜にカッと見開かれた。
だが、死神の言葉はそこで終わらない。
「ただし。その金庫を開けるための『代償』として、二つの条件を飲め」
桜田は、内ポケットから万年筆を取り出し、自らの手帳に冷酷な数字を書きつけ始めた。
「一つ。君たちが相模トラスト開発で買い占めたあの土地。あれは沖合展開工事の『土砂捨て場』として、国家が買い取ってやる。だが、価格は君たちの買い値の『十分の一』だ。……まずはここで、数十億円の特大の赤字を被ってもらう」
「……ッ!」
五代の顔が引き攣った。
「二つ。海底シールドトンネルという前人未到の難工事。……出水事故や地盤沈下で、予定の三千億円をオーバーする事態は必ず起きる。その『超過分のコスト』については、いかに数百億円に膨らもうとも、大蔵省は一円も追加負担しない。第三セクターの枠組みを超え、すべて君たち京急が『単独のリスク』として全額補填しろ」
それは、民間企業に対する「拷問」に近い要求だった。
土地の大赤字を確定させられた上に、未知の海底トンネルという「底なし沼のコスト」の全責任を、一介の私鉄に押し付けるというのだ。一歩間違えれば、京浜急行電鉄という会社そのものが倒産する猛毒の契約である。
「……その猛毒の杯を飲み干せば、我々に何を与えてくれるんですか?」
五代が、血の滲むような声で尋ねた。
「簡単なことだ」
桜田は手帳から書きつけたページを破り取り、五代の胸ポケットにねじ込んだ。
「『事業免許』だよ。……未来永劫、羽田の地下という巨大な黄金郷を、君たち京急が独占支配することを許す、という名の、大蔵省の絶対的な保証書だ」
その瞬間、五代の脳内に、数十年後の未来図が閃光のように駆け巡った。
目先の数十億の赤字など、未知のコストオーバーのリスクなど、いずれ回収できる。羽田という「日本の心臓」に赤い電車を直接突き立て、そこに群がる年間数千万人の乗客から、数十年にわたって運賃を搾り取り続ける権利。
それは、どんな宝石よりも価値のある、究極の利権であった。
「……くっ……はははははッ!!」
五代は、天井を仰ぎ見て、狂ったように高笑いした。
「えげつない! あまりにもえげつない男だ、あなたは! 血も涙もない死神だと思っていたが、とんだ『最高級の悪徳商人』じゃないか!!」
「褒め言葉として受け取っておこう」
五代は、笑い涙を指で拭いながら、桜田に向かって右手をスッと差し出した。
「……商談成立だ、主計官。その猛毒の杯、我が京急が喜んで飲み干させていただこう!!」
桜田は、五代の差し出した手を見ることもなく、ただ一言、冷たく言い放った。
「君の汚れた手は握らない。……だが、契約した以上、トンネルは死んでも掘り抜け。途中で音を上げれば、会社ごと解体するぞ」
大議室の空気は、完全に黒く染まっていた。
先ほど大貫たち技術者が流した清らかな涙は、すでに乾ききり、跡形もなくなっていた。
残されたのは、国家の血税と、私鉄が負った途方もない借金とリスクが、複雑に絡み合いながら東京湾の底へ沈められることが決定した、という「恐るべき事実」だけであった。
第2章:泥と血の地下帝国 5
大議室の重厚な扉が閉まり、京急の五代専務がその姿を消した。
後に残されたのは、大蔵省主計官・桜田と、彼の背後に控えていた数名の若手官僚たち、そして完全に大蔵省の「台本通り」に踊らされていたことに気づき、青ざめている審議委員たちだけであった。
「……桜田主計官」
沈黙を破ったのは、桜田の右腕である若手官僚の一人だった。彼は手元の分厚いファイルにペンを走らせながら、怪訝な声で尋ねた。
「よろしかったのですか? いくらリスクを全被りさせるとはいえ、羽田という国家の最重要インフラの『地下独占権』を、一介の私鉄に売り渡してしまって。……奴らは商人です。数十年かかろうが、必ずあの三千億円を回収し、巨大な利権を築き上げますよ」
桜田は、自らの席に深く腰を沈め、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
その口元には、五代と対峙していた時以上の、深く、暗い「支配者の嘲笑」が浮かんでいた。
「構わんさ。私鉄の強欲など、所詮は『カネ儲け』という分かりやすい枠の中に収まる。……我々大蔵省が真にコントロールすべきは、国家の血税を無尽蔵に食いつぶす『巨大な寄生虫』の方だ」
「寄生虫……国鉄、ですか?」
若手官僚の問いに、桜田はゆっくりと頷いた。
当時の日本国有鉄道(国鉄)は、毎年のように数千億円規模の赤字を垂れ流し、労働組合のストライキでダイヤは乱れ、もはや自力での再生は不可能な「沈みゆく泥船」であった。大蔵省にとって、この国鉄の赤字をどう処理するかは、国家予算を組む上での最大のガン細胞だったのだ。
「いいか。先ほど五代から『十分の一の価格』で買い叩いた、羽田周辺の広大な土地。……あれは単なる土砂捨て場ではない。あそこを足場にして、いずれ完成する沖合の『新ターミナル』へと続く、新たな鉄路を敷く」
「新たな鉄路? しかし、京急に地下を掘らせるのでは……」
「地下は京急にやらせておけばいい。我々が敷くのは『地上と天空』のルートだ」
桜田は、手元のチョークを手に取り、先ほど五代の図面を消し去ったホワイトボードに、新たな線を引き始めた。
それは、現在の浜松町から羽田へと伸びる「東京モノレール」の軌道を、さらに海側へ、新しいターミナルへと「延伸」させるルート図だった。
「……ま、まさか。先ほど主計官ご自身の手で『用地不足』を理由に処刑した、あの東京モノレールを、沖合の新ターミナルまで延伸させるおつもりですか!?」
若手官僚が驚愕の声を上げる。
桜田は、チョークを置き、フッと冷たく笑った。
「私が処刑したのは、あいつらの『独立心』だ。……考えてもみろ。今日、この場で計画を全否定され、絶望の淵に立たされた東京モノレールは、明日の朝には株価が暴落し、銀行からの融資も止まる。完全に『息も絶え絶えの瀕死状態』になる」
桜田の言葉の恐るべき真意に、委員たちも息を呑んだ。
「そこへ、我々国家が『救いの手』を差し伸べるのだ。五代から巻き上げた土地を無償で提供し、沖合までの延伸を認めてやる、とね。……ただし、絶対服従の『首輪』をつけてな」
桜田の目が、狂気じみた冷たい光を放った。
「首輪の条件は二つだ。一つ、沖合への延伸区間は、すべて国と東京都が資本を握る『第三セクター方式』とすること。つまり、彼らの持つ天空のインフラを、実質的に我々大蔵省の完全なる支配下に置く。そして二つ……」
桜田は、ホワイトボードに書かれた「東京モノレール」という文字の上に、大きく「国鉄(JNR)」という文字を上書きした。
「東京モノレールという会社そのものを、あの赤字まみれの『国鉄』の傘下(子会社)に吸収させる。……国鉄に、羽田アクセスという『唯一の黒字を生む金の卵』を抱かせることで、彼らの膨大な赤字をわずかでも相殺させ、我々が国鉄に投じる補助金を減らすのだ」
完璧すぎる、悪魔のグランドデザイン。
京急に海の底で泥水を啜らせてリスクを全被りさせつつ。
地上と天空のルート(モノレール)は、国鉄の再建という巨大なパズルの一片として、最も安いコストで「国のもの」にしてしまう。
大貫たち現場の技術者が流した血の涙すら、桜田にとっては「モノレールの企業価値を意図的に暴落させ、国鉄に飲み込ませやすくするための、単なる株価調整作業」に過ぎなかったのだ。
「……恐ろしい。これなら、羽田の空も、地下も、そして国鉄の財布の紐も、すべて大蔵省の思い通りに動く……」
若手官僚が、震える声で呟いた。
桜田は、満足げに自らの高級スーツの襟を正した。
「インフラとは、コンクリートと鉄でできているのではない。カネと法律と、そして『権力』でできているのだ。……大蔵省という国家の頭脳が存在する限り、この国の動脈は、未来永劫、我々の管理下にある」
桜田の高笑いが、霞が関の密室に響き渡った。
己の知力と権力が、永遠にこの国を支配し続けると信じて疑わない、絶頂期の男の笑い声。
彼らは知る由もなかった。
この約二十年後。彼ら大蔵官僚が作り上げた「第三セクター」という強固な利権の要塞が、官僚自身の驕りと、新宿・歌舞伎町の「ノーパンしゃぶしゃぶ」というあまりにも滑稽で下劣なスキャンダルによって内部崩壊を起こし、「大蔵省」という組織そのものが歴史から完全に消滅(解体)させられるという、残酷な未来が待っていることなど。
歴史の神だけが、この密室で高笑いする死神を、哀れむように見下ろしていた。
* * *
同じ頃。
霞が関から遠く離れた、東京湾の最深部。昭和島車両基地。
ビュゥゥゥゥゥッ……!
海から吹き付ける北風は、深夜を回り、さらに殺人的な冷たさへと変わっていた。
大貫は、油にまみれた防寒着の襟を立て、巨大なコンクリートの軌道の下で、一人、テストハンマーを握りしめていた。
自分たちの十五年間の結晶である「新・待避線計画」が、桜田の靴の下で踏みにじられ、紙くずになったあの日。
彼らはまだ、自分たちの会社が国鉄の赤字の穴埋めとして身売りされることや、沖合新ターミナルへの延伸が「国の支配下(第三セクター)」で行われるという、残酷な未来を知らない。
知っているのは、ただ一つ。
「カネはない」「土地はない」「明日からも、このボロボロのコンクリートを使い倒して、客を運ぶしかない」という、絶望的な現実だけだった。
「……クソが。また三番台車のボルトが泣いてやがる」
大貫は、凍える指先で巨大なトルクレンチを握り直し、アルウェーグ式台車の複雑な骨組みの中に腕を突っ込んだ。
ギリリリリッ。
金属と金属が強烈に擦れ合う音が、海風にかき消されそうになりながらも響く。
霞が関の密室で、スーツを着た男たちが数千億円の数字を弄り、国家の未来地図を書き換えていたその瞬間も。
大貫たち現場の人間は、数ミリのボルトの緩みと戦い、数グラムの油を差し、天空のコンクリートの軌道が崩れ落ちないように、ただひたすらに腕を動かし続けていた。
――カンッ。
ハンマーが叩き出した、高く、澄んだ打音。
国家の権力闘争にも、資本家の強欲にも一切関わりのない、ただ純粋な「安全」だけを証明するその音が、東京湾の暗闇に吸い込まれていく。
誰に褒められることもない。誰に理解されることもない。
それでも彼らは、ボルトを締める。
それが、羽田の空を守る男たちの、血を吐くような「矜持」だった。
第2章:泥と血の地下帝国 6
第一回の運輸審議会から、わずか二週間後。
再び霞が関に召集された「第二回・特別運輸審議会」の大議室は、前回とは全く異なる、異様で、ひどく陰惨な空気に包まれていた。
教壇(プレゼン席)に立たされているのは、二組の敗残兵たち。
一組は、前回の審議会で「用地不足」を理由に計画を完全粉砕され、すでに銀行からの追加融資もストップして息も絶え絶えになっている、東京モノレールの社長と大貫たち。
そしてもう一組は、分厚い決算報告書を抱えて脂汗を流している、日本国有鉄道(国鉄)の幹部たちであった。
前回、最後尾の傍聴席で不敵な笑みを浮かべていた京急・五代専務の姿は、今日はない。すでに彼らは「事業免許」という黄金の切符を手にし、この泥臭い敗者の処理場から早々に立ち去っていた。
「……さて。本題に入ろう」
最前列の黒革の椅子から、大蔵省主計官・桜田の氷のような声が響いた。
「羽田空港は、沖合へとその姿を移す。それに伴い、新たなターミナルへの『地上アクセス』をどう構築するか。……国鉄さん。君たちは以前から、羽田への新線建設を主張していたね?」
指名された国鉄の幹部が、ビクッと肩を震わせ、マイクを握った。
「は、はい。我が国鉄のネットワークを羽田に直結させれば、全国からの……」
「黙りたまえ。君たちのその『口先だけの夢物語』には、もうウンザリしているんだ」
桜田の言葉は、まるで鋭いムチのように国鉄幹部の顔面を叩いた。
「君たちの現在の累積赤字はいくらだ? 労働組合のストライキで何日ダイヤを止めた? ……国から何千億円もの補助金という名の『点滴』を打たれなければ、明日にも倒産する巨大な寄生虫が、どの口で『新線を引く』などと抜かすのだ!!」
「……ッ!!」
大議室に響き渡る、国家による国鉄への【完全なる公開処刑(晒し上げ)】。
委員たちも、あまりの桜田の剣幕に息を呑んだ。国鉄幹部は顔を真っ赤にして俯き、ただ屈辱に耐えることしかできない。
「大蔵省は、これ以上君たちの無能な経営に血税を注ぎ込む気はない。……だが、君たちのその無様な赤字を、わずかでも自力で相殺できる『特効薬』を、くれてやろう」
桜田は、冷酷な視線を、今度は隣に立つ東京モノレールの陣営へと向けた。
大貫が、ギリリと奥歯を噛み締める。
「東京モノレールさん。君たちには、沖合の新ターミナルまでの『延伸』を認めてやる。……ただし」
桜田の口元が、三日月のように歪んだ。
「新設される延伸区間は、すべて国と東京都が出資する『第三セクター方式』とする。そして、東京モノレールという会社そのものを、この『国鉄』の傘下……つまり、彼らの子会社として組み込むことが、延伸認可の絶対条件だ」
「なっ……!?」
モノレールの社長が、悲痛な声を上げた。
それは、昭和39年から血と汗で築き上げてきた「独立企業としての誇り」を、巨大な赤字官公庁の穴埋めのために完全に売り渡せという、悪魔の宣告だった。
「主計官! 我々は、我々の手で羽田を守り抜いてきた! それを、なぜ国鉄の……!」
「嫌なら、今の軌道のまま、沖合に取り残されて朽ち果てたまえ。……選ぶのは君たちだ」
反論の余地など、最初から一ミリも存在しなかった。
首を縦に振らなければ、会社は倒産し、天空のコンクリートは本当のゴミになる。大貫は、社長が震える声で「……承知、いたしました」と屈辱の降伏宣言を口にするのを、ただ握りしめた拳から血を滲ませながら聞いていることしかできなかった。
一方の国鉄も、モノレールという「黒字の卵」を強引に押し付けられ、大蔵省に完全に首根っこを掴まれる形となった。
何も知らない者たちの、あまりにも無惨な敗北。
死神・桜田が描いた「地上と天空の支配計画」は、この日、完璧な形で完了した。
* * *
その日の夜。
霞が関から車で数分の距離にある、赤坂の最高級料亭の「奥座敷」。
昼間の大議室の冷え切った空気とは打って変わり、そこには最高級の松阪牛がしゃぶしゃぶの鍋で煮える甘い香りと、熱燗の湯気、そして男たちの「下劣な笑い声」が充満していた。
「いやはや! 見事でしたよ、桜田主計官! あの国鉄の幹部どもの顔、青を通り越して土気色になってましたなァッ! 傑作だ!」
上座に座る桜田に向かって、上機嫌で純金製の銚子を傾けていたのは、なんと京急の五代専務であった。
その隣には、彼らと裏で手を組んでいた相模鉄道(相鉄)の幹部も座り、相好を崩している。
「……あれくらいやっておかなければ、国鉄の労働組合が後でうるさいからな。首輪は、完全に息の根が止まる一歩手前で締めるのが最も効果的だ」
桜田は、五代から注がれた最高級の日本酒を、表情一つ変えずにグイと飲み干した。
「それにしても、五代専務。君の『第一回審議会での大根役者ぶり』には、冷や汗をかかされたよ。もう少しで私が笑い出しそうになった」
「はははッ! 仰る通り! 『我々京急が喜んで自腹を切らせていただこう!』なんて、よくあんな臭い台詞がスラスラと出てきたものだと、自分でも感心しておりますよ!」
そう。
あの第一回審議会での、大蔵省と京急の「三千億円の予算と土地を巡る命懸けの論理戦」。
あれはすべて、事前にこの赤坂の密室で完全に台本が書き上げられていた【出来レース(茶番)】だったのである。
相鉄のダミー会社を使った土地の買い占めも、それを桜田が「沖合展開」のブラフで無価値化して見せたのも、すべては「京急がリスクを被ってでも地下を掘る」という大義名分を世間にアピールし、同時に、モノレールの独立心を完全にへし折るための「残酷な演劇」だったのだ。
真実を知らなかったのは、大理石の床で涙を流した日立の星野や大貫、そして今日晒し上げにされた国鉄の幹部たちだけであった。
「……しかし、これで羽田の地下は完全に我々京急のもの。そして地上は、大蔵省様が第三セクターという『永遠の財布』を使って国鉄ごと支配する。……まさに、完全無欠のウィン・ウィンですな」
五代が、満足げに松阪牛を頬張りながら笑う。
「ああ。国費(血税)を流し込む以上、第三セクターという『天下り先』と『利権のパイプ』は、我々大蔵省の優秀な後輩たちのために、盤石なものにしておかなければならないからな」
桜田は、自らの盃を、隣に座る一人の「若手官僚」へと向けた。
「……なぁ? 伊藤くん」
名を呼ばれたのは、大蔵省主計局の次代のエースと目される、まだ二十代の若きエリート官僚だった。
彼は、最高級のスーツを着崩し、顔を酒で真っ赤に紅潮させながら、桜田に媚びへつらうような卑屈な笑みを浮かべた。
「はいッ! 桜田先輩が築き上げてくださったこの『第三セクター』という完璧な利権……我々後輩が、骨の髄まで、一滴残らずしゃぶり尽くさせていただきますッ!」
「……言葉には気をつけろ。これは国家のためのインフラだ」
桜田が眉をひそめるのも意に介さず、若手官僚・伊藤の目は、異常なほどの「欲望の濁り」に満ちていた。
「も、もちろんです! 国家のためです! ……あ、そういえば五代専務! 最近、新宿の歌舞伎町に、ものすごく『面白いしゃぶしゃぶの店』ができたと、銀行の連中から聞きましてね……!」
伊藤は、下卑た笑いを浮かべ、五代の耳元に顔を寄せた。
「なんでも、床が全面ガラス張りで、下着を穿いていない女の子が肉を運んでくるらしいんですよ! 次回の『接待』は、ぜひそこで……!」
「……おい。下劣な話は他所でやれ」
桜田が冷たく言い放つと、伊藤は「ひッ、す、申し訳ありません!」と慌てて首をすくめた。
五代は、その若きエリートのあまりの「安っぽさ」に呆れながらも、適当に相槌を打って笑って見せた。
この赤坂の密室で、国家の地図を書き換えるという神をも恐れぬ完全犯罪を成し遂げた、死神・桜田。
彼は、自分の隣で下品に笑うこの「ノーパンしゃぶしゃぶ野郎」と、彼のような腐敗したエリートたちの驕りが、約二十年後の平成の世で、大蔵省という組織そのものを木端微塵に解体させる【致命的な爆弾】になることなど、知る由もなかった。
ただ、最高級の肉の脂と、権力の甘い蜜の匂いだけが、昭和の夜の奥座敷に、どこまでも濃密に漂っていた。
第2章:泥と血の地下帝国 7
赤坂の密室で、大蔵省・桜田と京急・五代、そして相鉄・川崎による「羽田分割の出来レース」が完了してから、数年の月日が流れた。
東京湾の吹きすさぶ風は変わらないが、昭和島車両基地の「空気」は、決定的に、そして絶望的に変質していた。
大蔵省のシナリオ通り、東京モノレールは沖合新ターミナルへの延伸を「第三セクター方式」で認可されることと引き換えに、強引に『日本国有鉄道(国鉄)』の傘下……実質的な子会社として組み込まれたのだ。
「……おい、そこの作業員。工具を床に直置きするな。国鉄の安全基準では、工具は必ず指定のトレイに置くことになっている」
新品のヘルメットと、油のシミ一つない清潔な作業着を着た男が、甲高い声で怒鳴った。
国鉄本社から「監査役」として天下ってきたエリート職員である。彼らはモノレールの現場の特殊な事情など一切知ろうともせず、ただ巨大組織の無意味なルールと書類仕事だけを、この海風吹きすさぶ昭和島に押し付けにきたのだ。
「……ッ、すまねえな」
大貫は、スパナを拾い上げながら、感情を押し殺した声で答えた。
その顔には、かつて「自分たちの手で羽田の空を守っている」と胸を張っていた頃の覇気はない。会社が国鉄に実質的に買収され、自分たちが血と汗で育て上げたアルウェーグの軌道が、大蔵省と国鉄の赤字穴埋めのための「ただの集金マシーン」に成り下がったという現実が、大貫の分厚い背中をひどく小さく見せていた。
「大貫さん……」
足元で台車に潜っていた若い整備士の高橋が、悔しそうに唇を噛む。
「なんなんスか、あいつら。自分たちの会社はストライキばっかりで大赤字のくせに、俺たちの現場に土足で踏み込んで、偉そうに……ッ!」
「やめろ、高橋。……俺たちは、国鉄の『部品』になったんだ。部品は、黙って言われた通りにボルトを締めてりゃいいんだよ」
大貫が自嘲気味にそう言い聞かせた、その時だった。
「……部品じゃありませんよ、大貫さん」
聞き慣れた、しかし数年前のあの審議会の日とは違う、低く落ち着いた声がプレハブ小屋の方から響いた。
そこに立っていたのは、日立製作所のエンジニア、星野であった。
大蔵省の死神に図面を踏みにじられ、大理石の床で泣き崩れた若き天才は、今や日立の交通システム設計部を背負って立つ、鋭い目つきの男へと成長していた。
彼の手には、一つの巨大な「黒いアタッシュケース」が握られている。
「……星野。お前、その顔は」
「大貫さん。……国が待避線を作らせてくれないなら、力技で輸送力を上げるしかないって、あの日、大貫さんが俺に言いましたよね」
星野は、国鉄の天下り監査役が遠ざかるのを確認すると、大貫の目の前でアタッシュケースを開いた。
中に入っていたのは、今までの500形とは全く次元の違う、巨大で、そして恐ろしく先鋭的なフォルムを持った『新型車両』の図面だった。
「……『1000形』プロジェクトです。現在の単線のまま、一編成あたりの乗車定員を極限まで引き上げる。床下機器をミリ単位で圧縮し、車体を限界まで大型化する。コンクリートの負担を減らすために、台車の軽量化も徹底的にやりました」
星野の目は、死んでいなかった。
いや、大蔵省という国家の暴力に一度殺されたからこそ、技術者としての「純粋な殺意(意地)」が、青白い炎のように燃え上がっていた。
「国鉄の連中がなんと言おうが、大蔵省が俺たちをどう扱おうが関係ない。……俺たちのインフラは、政治家のためのものじゃない。羽田へ急ぐ、客のためのものです。……大貫さん。俺の計算通りに、この化け物を組み立てて、昭和島の海風の中で保守する腕が……アンタたちに残っていますか?」
その言葉に、大貫の死んだような目に、かすかな、しかし確かな「油の光」が戻った。
大貫は、手に持っていたテストハンマーを、カンッ、とコンクリートの軌道に軽く打ち付けた。
そして、顔に深く刻まれた皺を歪め、十五年前と同じ、あの不敵な現場男の笑みを浮かべた。
「……誰にモノを言ってやがる。計算尺の坊主が。……俺たちは、東京モノレールの整備班だぞ。国鉄の天下りどもにルールを押し付けられようが、俺たちの指先に染み込んだコンクリートの感触だけは、絶対に奪えねえんだよ」
会社を奪われ、誇りを踏みにじられ、絶望の泥水を啜らされても。
技術者と現場の男たちは、決して「インフラの魂」を手放すことはなかった。
彼らの逆襲(1000形の開発)が、今、国鉄という巨大な泥船の底で、静かに始まろうとしていた。
昭和50年代後半。羽田空港の地下深くでは、京急の巨大なシールドマシンが「3000億円の咆哮」を上げながら、地獄の底を削り続けていた。
浸水と地圧。未知の泥岩層が牙を剥く凄惨な現場。だが、視察に訪れた五代専務の顔に、悲壮感は微塵もなかった。むしろ、その口元には余裕に満ちた商人の笑みが浮かんでいた。
「……五代専務。本当によろしかったのですか?」
泥にまみれた部下が、訝しげに尋ねる。
「大蔵省との密約……我々が掘り終わった後、あの巨大な立坑の跡地は、第三セクター経由で国鉄に譲渡されることになっています。我々が血を吐いて作った足場を、ライバルの『昭和島駅の拡張(待避線)』のためにくれてやるなんて……」
「馬鹿野郎。くれてやるからいいんだよ」
五代は、懐の純金製ジッポライターを弄りながら、暗いトンネルの先を見据えた。
「羽田の地下という巨大すぎるパイを、我が京急だけで100%独占してみろ。必ず政治家や世論の反発を買い、ろくでもないことになる。……だから、空の上の『モノレール』という適当な競争相手を残しておき、仲良くかけっこをしているフリをするんだ。それに、あいつらに昭和島を拡張させて恩を売っておけば……」
五代の目が、暗闇の中で蛇のように細められた。
「あの巨大な怪物……『国鉄(JR)本体』が、羽田へ直接乗り込んでくるという最悪の事態だけは防げる。……たかが空き地の一つや二つ、JR避けの防波堤代わりと思えば安いものだ」
すべては、赤坂の密室で決められた「出来レース」。
京急は最初から、モノレールを生かしておくために、あえて土地を渡す台本に合意していたのだ。
* * *
同じ頃、深夜の昭和島車両基地。
星野が「1000形」の図面を広げ、大貫の現場魂に火をつけた直後のことである。
国鉄の天下り監査役たちの監視の目を潜り抜けるようにして、基地の隅に一台の白いハイエースが走り込んできた。
――ガラガラッ、バンッ!!
重いスライドドアが開く。高見が駆るその「現場の司令室」の荷台には、日立の極秘ラボで組み上げられた新型の主制御装置や、大量の特殊部品がぎっしりと積まれていた。
「……大貫さん。部品だけじゃありません。もう一つ、報せがあります」
ハイエースの傍らに立つ星野が、夜風の中で言った。
「決まりました。京急のトンネル工事が終わった後、あの立坑の跡地は、第三セクターを経由して俺たちに引き渡されます」
「……京急の掘りカスが、俺たちの陣地になるってことか」
「ええ。大蔵省と京急の茶番です。俺たちを『適当な競争相手』として生かしておくための、手切れ金みたいなもんでしょうね」
星野は自嘲気味に笑ったが、大貫は静かに首を振った。
「……茶番でも、出来レースでも、何でもいい」
大貫は、ハイエースのライトに照らされた「1000形」の図面を、太い指でなぞった。
「あの土地さえ戻ってくれば、十五年前に桜田の野郎に握り潰された『昭和島待避線』が作れる。待避線ができりゃあ、この化け物(1000形)の性能を100%引き出して、もっと多くの客を羽田へ運べるんだ。……政治家や商人の腹黒い計算なんて、俺たちのボルトには関係ねえよ」
現場の男たちは、自分たちが巨大なチェス盤の「駒」であることを知りながらも、ただ純粋に「インフラを回す」という一点において、絶対的な矜持を持っていた。
「……高見の旦那。ハイエースから資材を下ろしてくれ」
大貫の言葉に、ハイエースのヘッドライトが力強く二回、点滅した。
* * *
霞が関。大蔵省・主計局。
桜田は、窓の外の東京の夜景を、神のごとき冷徹さで見下ろしていた。
「……地下は京急、天空はモノレール。そしてそのどちらにも、大蔵省の『第三セクター』という血脈が通っている。……完璧なバランスだ」
桜田の隣で、若き日の伊藤が、汚れた欲望を隠そうともせずに笑う。
「完璧ですね、先輩。我々の退職後の椅子も、これで未来永劫安泰です。……あ、お祝いの『ノーパン』の店、予約しときましたよ」
「……フン。ほどほどにしておけよ、伊藤」
桜田のその言葉は、数十年後の自分たちへの「呪い」だった。
彼は知らなかった。自分が作り上げたこの「完璧な出来レース」が、後輩たちの下劣なスキャンダルによって、大蔵省という組織そのものを滅ぼすこと。
そして、自分たちが「適当な競争相手」として残したモノレールの現場の男たちが、そのおこぼれの土地を使って、自らの誇り(待避線と新型車両)を完璧な形で復活させることを。
昭和の夜が更けていく。
地下のドリル、天空のボルト、そして密室の出来レース。
すべてが、平成という名の「断罪」へと向かって、静かに、しかし確実な足音を立てていた。
第3章:事業免許下付、そして西の関ヶ原へ
昭和の終わりのある日。霞が関。
大理石の冷たい床に響く靴音とともに、羽田空港の未来を決定づける「事業免許」が、ついに下付された。
京浜急行電鉄・五代専務は、恭しくその分厚い書類を受け取った。
彼の顔には、微かな笑みが張り付いていた。
国費という「他人の財布(第三セクター)」で三千億円もの海底トンネルを掘らせ、自社は一切の借金を背負うことなく、羽田の地下という黄金の果実だけを啜る。さらに、掘削後の無用な跡地をライバルであるモノレールにくれてやることで、最強のバケモノである「国鉄(JR)本体」の羽田乗り入れを物理的にブロックする。
完璧だった。民間企業による、国家を手玉に取った「ノーリスク・ハイリターンの完全勝利」が、この一枚の免許証に刻まれていた。
一方、東京モノレールの社長は、屈辱に唇を噛み締めながら免許を受け取った。
彼らは生き残る代償として、赤字まみれの国鉄の「傘下」に組み込まれるという屈辱の首輪を嵌められた。だが、その免許には、京急からのおこぼれである「跡地」の権利が確かに明記されていた。
それこそが、彼らが待ち望んだ「昭和島待避線」を建設するための、唯一無二の切符であった。
死神・桜田主計官は、二人の経営者が去った後の執務室で、静かに茶を啜った。
地下は私鉄、天空は国鉄。そして両者を束ねる大蔵省。
完璧な出来レース。誰もが自分の思い通りにインフラを支配したと信じて疑わない、霞が関の静かな午後だった。
* * *
その日の深夜。
東京湾の潮風が吹き付ける、昭和島車両基地。
国鉄の天下り連中が寝静まった暗がりに、一台の白いハイエースが停まっていた。
現場の咆哮を運び、重機と火花の「鋼鉄の円舞曲」を指揮する高見の移動指令室。そのスライドドアの傍らで、大貫と星野が、一枚の図面を広げていた。
「……大貫さん。これで、数年後にはあの土地が手に入ります。京急のおこぼれだろうが、大蔵省の茶番だろうが、土地は土地だ」
星野が、闇の中で静かに笑った。
「ああ。土地さえあれば、待避線が作れる。待避線ができれば……」
大貫は、ハイエースのヘッドライトに照らされた、出番を待つ新型車両「1000形」の冷たい鋼鉄の肌を撫でた。
「この化け物の性能を、限界まで引き出して客を運べる。……政治家や商人がいくら紙切れで地図を書き換えようがな、最後にこの国を動かしてんのは、俺たちの握ってるボルトなんだよ」
――カンッ。
大貫のテストハンマーが、コンクリートの軌道を叩く。
それは、権力者たちの茶番をせせら笑うような、泥臭くも純粋な「現場の勝利宣言」だった。
羽田の空を巡る長き血闘は、こうしてそれぞれの陣地に杭を打ち込む形で、静かに幕を下ろした。
* * *
だが、インフラの歴史に安息の時などない。
羽田という「海の戦場」で決着がついたその瞬間、カメラは一気に西へと飛ぶ。
東京湾から内陸へ。急激な人口増加によって膨れ上がる多摩丘陵と、神奈川の境界線。
――舞台は、『町田』。
巨大なベッドタウンにして、果てなき欲望が渦巻く西のフロンティア。
そこでは今、南西の覇者たる**【小田急電鉄】と、新宿からの刺客たる【京王電鉄】**が、新たな鉄脈と不動産利権を巡って、互いの喉笛に牙を突き立てようとしていた。
大蔵省の死神が描いた海の地図の裏で、今度は山を切り拓く血みどろの陣取り合戦の火蓋が、切って落とされようとしている。
【次回更新予定】
201話〜 3月14日(土曜日)




