第167話 『日常:番外編(5) 領収なきゴールと、月下の放心』
昭和54年、深夜。
箱根山頂。高見の「鉄人(重トラック)」が、コースそのものを物理的に粉砕して停止した、その静寂の中。
破壊されたアスファルトの隙間から、プゥゥゥゥゥゥン……という、頼りない、しかし一定のリズムを刻む電気モーターの音が響いてきた。
「……あ? まだ誰か来んのかよ」
重トラックの運転席で、高見はハンドルを握ったまま力なく呟いた。
暗闇から現れたのは、真っ白な**『電動ゴルフカート(事務用・相鉄マーク入り)』**。
運転しているのは、相鉄・箱根支部の経理部、請求書係の佐藤(45歳・独身)だった。
「……お疲れ様です、皆様」
佐藤は、事務用のグレーのジャンパーを羽織り、膝の上に「バインダー」を置いたまま、無表情でアクセルを踏んだ。
そのカートの走りは、もはや「走行」ですらなかった。
高見が破壊した路面の「穴」をミリ単位で避け、川島が残した「タイヤの跡」を最短距離で結び、五代専務が荒らした砂場の「僅かに固まった端」を、重力を無視したような軽やかさで滑り抜けていく。
スゥゥゥ……。
何のドラマもなく、何の火花も散らさず。
カートは、高見の巨大な重トラックのタイヤの横、1ミリのズレもなく白線を越えて停車した。
「…………」
川島社長は、その「事務的なゴール」に、思わず葉巻を落とした。
高見は、重トラックのキャビンから身を乗り出し、呆然と下を見つめた。
「……佐藤。お前、今どうやってそこを通った?」
高見の問いに、請求書係の佐藤は、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
「……最短ルートを計算しただけです。……それよりも、高見さん。こちら、本日の『清算書』になります」
佐藤はカートから降りると、淀みのない動作で三枚の請求書を差し出した。
一枚目(宛先:京急電鉄・五代専務殿)
「砂場構造維持費:200万円(※中古枕木にて相殺処理済み)」
二枚目(宛先:相鉄・川島社長殿)
「ハイエース専用タイヤ摩耗・特殊清掃費:50万円」
三枚目(宛先:相鉄・工務部・高見殿)
「アスファルト全面再舗装・重機燃料代・コース破壊賠償金:1200万円」
「……じ、1200万……!?」
高見の顔から血の気が引いた。自分が現場の意地で粉砕した路面は、そのまま自分への「借金」として突きつけられたのだ。
「……社長。専務。高見さん。皆様がどれほど『伝説』や『誇り』を語ろうとも、インフラを維持するには『数字』が必要です。……壊したものは、直さねばなりません。それが、私の『秩序』です」
佐藤は事務的な一礼をすると、再びカートに乗り込み、音もなく闇の向こうへ消えていった。
残されたのは、粉砕されたアスファルトと、一通の多額の請求書。
川島社長は、無言で夜空を見上げた。
高見は、重トラックのバンパーに腰を下ろし、真っ白な請求書を握りしめたまま、空に浮かぶ銀色の円盤を見つめた。
「…………」
「……おい、高見。どうした」
川島の問いに、高見は力なく笑い、ただ一言、こう漏らした。
「……いやぁ。……月が、綺麗だなぁと思って。……社長」
「…………。……そうだな。高見、明日の砂の均しは、俺も手伝ってやるよ」
箱根の山頂。
数千万のスーパーカーも、王者の軽トラも、ドンのハイエースも、現場の重機も。
最後は一人の「請求書係」が導き出した、冷徹な数字の前に跪く。
日常という名のインフラは、こうして今日も、誰かの溜息と共に回り続けるのであった。




