第155話 『日常:成金編(3) 磨き上げられた愛車と、逃げられない「お見送り」』
昭和54年、初夏。
箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第2層のチェックアウト・カウンターは、昨夜の狂騒が嘘のような、静謐で重厚な空気に包まれていた。
赤いスーツの男は、隣に女を侍らせたまま、フロントの分厚い大理石のカウンターに立っていた。
彼の目の前には、黒革のバインダーに挟まれた『200万円の請求書』が静かに置かれている。
内訳は、最高級スイートの宿泊代、深夜の緊急牽引費用、そして「特殊砂の全入れ替えおよび清掃費」。昨夜、自ら進んで砂場に突っ込んだ、見栄と虚勢の代償だ。
「……ご一括でよろしいでしょうか」
シニア・コンシェルジュが、極めて優雅な所作で尋ねる。
「あ、ああ……もちろんだ。……こんなはした金、俺の走りの『テスト代』としちゃあ安いもんだぜ」
男の背中には、冷や汗が滝のように流れていた。
背後にあるラウンジのソファからは、昨夜煽り合ったポルシェの男をはじめ、他の成金たちが「あいつ、本当にVIP待遇の請求書を払ってるぜ……」と羨望と嫉妬の眼差しを向けている。
ここで「高すぎる! ボッタクリだ!」などと騒げば、すべてが台無しになる。男は、顔面を限界まで引きつらせた笑顔を作りながら、震える手で分厚い札束とカードをトレイに置いた。
「……確かに、頂戴いたしました。領収書の但し書きは『特別テストラン施設利用料』でよろしいですね?」
「お、おう。……頼む」
支払いを終えた男が、重い足取りで『VIP専用・出庫ゲート』へと向かう。
男の心の中は不安でいっぱいだった。
(……支払いは意地で済ませたが、俺のカウンタックはどうなってる? あの猛烈な砂煙の中に突っ込んだんだ。エンジンルームに砂が入り込んでたら……ボディが傷だらけだったら……絶対に後で弁護士を立てて、相鉄を訴えてやる……!)
200万円を毟り取られた男にとって、愛車に「1ミリの傷」でもあれば、それを口実に全額返金と損害賠償を叩きつける気満々だった。それが、成金の浅ましい自衛本能だ。
だが、インフラ屋は、そんな三流の反撃など、設計段階から完全に封じ込めていた。
ゴゴゴゴゴ……。
出庫ゲートの巨大なシャッターが開き、地下ドックから円形のターンテーブル(巨大リフト)がゆっくりとせり上がってくる。
「……なっ!?」
男は、目を疑った。
ターンテーブルの上に鎮座していた真っ赤なカウンタックは、傷一つないどころか、納車時以上の『異常なまでの輝き(鏡面仕上げ)』を放っていたのだ。
タイヤの溝の奥、ホイールの裏側、さらにはマフラーの排気口に至るまで、砂の粒子ひとつ残っていない。完全にチリ一つない無菌状態のスーパーカーが、そこにあった。
「……お待たせいたしました。当館の特殊整備班が、徹夜で完璧な状態に仕上げております」
コンシェルジュが恭しくドアを開ける。
司令室のモニターでそれを見ていた若手社員が、呆然と呟いた。
「……た、高見さん。どうやってあんなに綺麗に……? 砂場に突っ込んだ車なんて、普通は洗車に何日もかかりますよ」
「……バカ野郎。俺たちを誰だと思ってる。鉄道屋だぞ」
現場監督の高見が、鼻で笑う。
「……特急列車の台車にこびりついた鉄粉や泥を、短時間で吹き飛ばすための『超高圧エアー』と『工業用バキューム』の設備が、地下ドックには丸ごと入ってるんだ。……砂場の砂なんざ、あの設備を使えば30分でチリひとつ残さず消し飛ばせる」
高見がスイッチを押すと、モニターの音声が切り替わった。
「……素晴らしい走りでした。エンジンの調子も、最高潮(絶好調)でございます」
出庫ゲートには、コンシェルジュだけでなく、純白のつなぎを着た整備士たち(実は相鉄の保線作業員)がズラリと並び、男に向けて最敬礼をしている。
完全なる「伝説のVIP」に対する、壮大なお見送りセレモニーだ。
「……あ、ああ……そうか。……お前ら、いい仕事するじゃねえか……」
男は、愛車の完璧な輝きと、ズラリと並んだスタッフの敬礼を前に、用意していたクレームの言葉を完全に飲み込むしかなかった。
「……これが、ウチの『逃げられないお見送り』だ」
司令室の奥で、川島社長が満足げに葉巻を燻らせた。
「客がクレームを言ってくるのは、『サービスに隙』があるからだ。……車に傷一つなく、砂一粒残さず、これ以上ない最高級の敬意を持って送り出されたら、彼らはどうする?」
「……『文句のつけようがない』……ですね」
「そうだ。そして彼らは、200万円を払わされたという『被害者』から、200万円の伝説のサービスを受けたという『特権階級』へと、自らの記憶を完全に書き換える」
川島の言う通りだった。
男は、完璧に磨き上げられた運転席に滑り込み、エンジンをかけた。
ヴォォォォォォンッ!!
絶好調のV12エンジンが、箱根の山頂に咆哮を轟かせる。
「……じゃあな! 次に来る時も、俺専用のテスト・トラックを空けておけよ!」
男は、助手席の女にドヤ顔を見せつけながら、ズラリと並ぶスタッフと、ラウンジから見下ろす成金たちに向けて、最高に勝ち誇った笑顔で手を振った。
そして、真っ赤なミサイルは、完璧なエキゾーストノートを残して、箱根の峠道を下っていった。
彼の財布から200万円は消え去った。
だが、彼はこれから一生、「俺は箱根の相鉄で、伝説のVIP待遇を受けた」と、飲み屋で自慢し続けるだろう。そして、それを聞いた他の成金たちが、「俺もその待遇を受けてやる」と、新たな札束を握りしめて箱根の山を登ってくるのだ。
「……哀れな回遊魚どもの産卵(集金)が、また始まるな」
川島社長は、モニターから消えていく赤い車体を見送りながら、えげつない笑みを深く刻み込んだ。
なぜここに線路屋が?




