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第144話 『開門:5000台の濁流と、インフラ屋の覚悟』

お待たせしました。

 昭和54年、春。

 箱根の山頂を覆っていた深い朝霧が晴れると、そこには大自然の景色を完全にねじ伏せるようにして、巨大なコンクリートとガラスの要塞が姿を現した。

 相鉄が総力を挙げて築き上げた完全独立リゾート『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。

 そのグランドオープンの朝。箱根の曲がりくねった山道は、前代未聞の熱気と排気ガスに包まれていた。

 麓の小田原市街から山頂へ向けて、数千台の車列が数珠繋ぎになっている。家族連れを乗せたカローラ、学生のグループが詰め込んだサニー、慰安旅行の団体客を乗せた大型バス。日本の高度経済成長を支える「大衆」たちのエネルギーが、山頂の巨大なゲートに向かって一本の太い濁流となって押し寄せていた。

「……時間だ。開門!! ゲートを開けろッ!!」

 司令室から相鉄の若手社員が無線で叫ぶと同時に、山頂の巨大なメインゲートが重々しいモーター音と共にゆっくりと開け放たれた。

 ウオォォォォォォォッ!!!!!

 地鳴りのような大歓声。数千人の大衆が一斉に第1層の『巨大温泉テーマパーク』へと雪崩れ込んでいく。全天候型の巨大ドーム、熱帯植物が植えられた温水プール、そして無数の露天風呂。初めて見る「空の上の楽園」に、子供たちが走り回り、大人たちが歓声を上げる。

「……す、凄い数です……! パンフレットとテレビCMの効果が爆発しています!」

 司令室のモニターに張り付いていた若手社員は、眼下でうごめく人の波に圧倒され、震える声で呟いた。だが、彼の顔には喜びよりも深い焦燥感が浮かんでいた。

「しかし高見さん! このままじゃマズいです。麓まで5000台以上の車が繋がっています。これだけの数が一気に山を登ってくれば、必ずどこかでオーバーヒートか、追突事故が起きます! もし山道の途中で一台でも立ち往生すれば、この5000台が身動きの取れない『死の渋滞』に巻き込まれて、営業初日で大パニックになりますよ!」

 若手の悲鳴に対し、現場監督の高見は、コーヒーを啜りながら鼻で笑った。

「……若えの。あいつらは人間だ。よそ見もすれば、ブレーキも踏み遅れる。事故は必ず起きる。……だから俺たちが準備したのは、『安全運転のお願い』なんていう生ぬるい説教じゃねえ」

 高見は、モニターの端に待機している『漆黒の車両群』を指差した。

「……俺たちが用意したのは、**『5分以内の完全排除』**だ」

 その言葉の直後だった。

 モニターの一つが、第1ゲートの手前のカーブで、家族連れのセダンが前の車にオカマを掘る(追突する)瞬間を捉えた。ガシャン!という鈍い音が響き、2台の車が車線を塞いで停止する。

 後続の車列がブレーキランプを赤く点滅させ、渋滞の連鎖が始まりかけた、まさにその時――。

『――第3ポスト、接触事故発生。対象2両。機動レッカー、出ろ』

 高見の冷徹な指示出しからわずか数秒。

 サイレンも鳴らさず、まるで獲物を狙う猛禽類のように、待機していた相鉄専属の「超高速レッカー部隊」が現場に急行した。

 彼らは警察の到着すら待たない。作業着姿の屈強な男たちが飛び降りるや否や、怯えるドライバーに「怪我がなければ車から離れろ!」と一喝し、神業のようなスピードでジャッキを掛け、ウィンチで大破した車体を牽引フックに繋ぎ止めた。

「ウチの敷地内(専用道)での事故だ。警察の現場検証なんて後回しでいい。事故車は路肩の『待避スペース』へ力業で引きずり出し、オイルが漏れた路面には即座にバラスト(吸収剤)を撒け!」

 まるでF1のピット作業のような、怒涛のパージ(排除)作業。

 事故発生からわずか3分後。大破した2台の車は完全に車線から消え去り、何事もなかったかのように後続の5000台の車列が再び山頂へ向けて流れ始めた。

「……じ、事故すらも、ただの『処理工程』の一つとして組み込んでいる……」

 若手社員は、インフラ屋の底知れぬ狂気に身震いした。

「渋滞という『停滞』だけは、この俺が1秒たりとも許さねえ。事故すらも物流の一部だ」

 高見はニヤリと笑い、モニターを本陣である『巨大ゲート』へと切り替えた。

 ゲートには料金所トールゲートが存在しない。チケット代に駐車料金はすべて含まれているため、ドライバーが財布を探して一時停止する無駄な時間すら排除されている。

 5000台の濁流は、一切のブレーキを踏むことなく、そのまま6車線の巨大なスロープを下り、地下の『メガ・パーキング』へとベルトコンベアのように吸い込まれていく。

「車を降りた大衆は、そのまま巨大エスカレーターに乗る。……すると地上に顔を出した瞬間、そこはもう車道が1ミリも存在しない『完全歩車分離の回廊ペデストリアンデッキ』の上だ」

 モニターには、地下の無機質な駐車場から、光あふれる第1層の温泉テーマパークへと、次々に湧き出してくる数万人の笑顔が映し出されていた。

 彼らは気づいていない。一度車を降り、この回廊に足を踏み入れた瞬間、自分たちが「交通事故のリスク」から完全に切り離され、ただ相鉄に金を落とすための安全な「ベースロード(収益源)」へと物理的に変換されたことに。

「……まずは第1層、大衆のスタートダッシュは完璧だ」

 高見が腕を組み、司令室の奥の革張りソファで葉巻を咥える相鉄のドン・川島を振り返る。

「……ああ。見事な捌きだ、高見」

 川島はゆっくりと立ち上がり、メインモニターではなく、窓の外の『別のゲート』へと視線を移した。

「……さて。一番数が多くて御しやすい『大衆』の基盤は整った。次は、一番厄介で、一番金の成る連中の出迎えだ」

 川島の視線の先。大衆の歓声とは完全に隔離された第2層の『VIP専用ゲート』に、地を這うような重低音を響かせて、真っ赤なカウンタックや純白のポルシェといった、承認欲求の塊のような車列が姿を現し始めていた。

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