第140話 『開山:黄金のハンコと、新たな独立国家』
昭和52年、晩秋。
箱根山頂。強風が吹きすさぶ広大な荒野は、この数千年間、静寂と冷たい土に支配されていた。
だが今朝、その静寂は、大地を揺るがす地鳴りによって完全に引き裂かれた。
「……来たぞッ!! 第1陣、上がってきました!!」
相鉄の若手社員が、冷気で白く染まる息を吐きながら叫んだ。
彼の視線の先、箱根の曲がりくねった急勾配の山道を、地響きを立てながら登ってくる「鉄の群れ」があった。
先頭を走るのは、巨大なブレードを構えた超大型ブルドーザー。それに続くのは、山を削り取るための油圧ショベルカー、何十トンもの土砂を運ぶダンプトラックの長大な車列、そして、クレーン車。
車体に刻まれた相鉄のロゴが、朝日に鈍く光っている。それはまるで、未開の地を蹂躙し、新たな国家を建国するために進軍する重装甲部隊だった。
「……フッ。お役所仕事にしちゃあ、随分と粋な色のハンコじゃねえか」
重機の咆哮をBGMに、現場監督の高見が、土に汚れた分厚い指で図面の端を撫でた。
そこには、神奈川県庁・土木計画課の担当官が震える手で押し付けた、真っ赤な『開発許可』の決裁印が鮮やかに刻み込まれていた。
「ええ……! この小さな赤いハンコ一つで、俺たちはこの山頂の地形を、合法的に、そして完全に造り変える権利を手に入れたんです……!」
若手社員は、図面を抱きしめるようにして感極まっていた。
大衆の大量輸送、成金のクロス・サブシディ、そして真のVIPの権力。会議室で川島社長が叩きつけた冷徹なビジネスの真理が、行政の壁を粉砕し、ついにこの「黄金のハンコ」をもたらしたのだ。
「……おい若えの。感傷に浸ってんのはそこまでだ」
高見が、使い古した安全ヘルメットを深く被り直した。
「俺たちの仕事は、紙切れに絵を描いてハンコをもらうことじゃねえ。……この紙切れの通りに、物理的に大地を削り、鉄を埋め込み、コンクリートを流し込むことだ。……頭でっかちの時間は終わりだ。ここからは、俺たち『土木(現場)』の独壇場だぞ」
高見は荒野の真ん中へ歩み出ると、到着したばかりの巨大クレーンのオペレーターに向かって、大きく右腕を振り下ろした。
「……下ろせ!! まずは『背骨』からだ!!」
クレーンのワイヤーが唸りを上げ、巨大なトレーラーの荷台から「無骨な鉄の塊」がゆっくりと吊り上げられる。
それは、ただの鉄道レールではなかった。
「……アプト式の、ラックレール(歯軌条)……!」
若手社員が、その圧倒的な質量に息を呑んだ。
急勾配の物流を完全に支配するための要。3列に並んだ分厚い鋼鉄の歯車が、位相をずらして深く噛み合うように設計された、恐るべき密度の鉄の塊。
普通の線路が「道を敷く」ためのものなら、このアプト式のレールは「大地に牙を突き立て、物理的に噛み砕く」ための兵器だった。
ズドォォォォンッ!!!!!
クレーンから降ろされたラックレールが、敷き詰められた砕石の上に重い音を立てて鎮座する。
箱根の土に、相鉄の「最初の鉄」が打ち込まれた瞬間だった。
この鋼鉄の歯車が、裏の物流を支え、地上の歩車分離を成立させ、やがては日本の裏面を動かす迎賓館への極秘ルートとなる。
高見は、打ち込まれたばかりのラックレールの上にドカッと座り込み、土のついた安全靴でその重厚な鉄の歯をガンッ!と蹴り上げた。
「……いい鉄だ。これなら、何万トンの業を背負っても絶対に滑らねえ」
高見が立ち上がり、眼下に広がる芦ノ湖と、その向こうにそびえる小田急の牙城を見下ろす。
「……聞け!! 野郎ども!!!」
高見の野太い声が、箱根の強風を切り裂き、集結した数千人の作業員たちに響き渡った。
「たった今から、この荒野は俺たちインフラ屋の領土だ!! 山を削り、谷を埋め、鉄の軌道を敷き巡らせろ!! 一人の事故も、1ミリの渋滞も許さねえ、完璧な要塞を造り上げるんだ!!」
作業員たちの怒号のような歓声が、山頂を震わせる。
「……見とけよ小田急。そして、下界の連中」
高見はニヤリと笑い、芦ノ湖に向けて高々と右腕を突き上げた。
「これより、箱根山頂に……俺たちの【独立国家】を建国する!!!」
ブルドーザーの排気ガスが空を黒く染め、鋼鉄の杭が次々と大地に打ち込まれていく。
図面という名の「夢」が、インフラ屋たちの血と汗と油によって、暴力的なまでの「現実(物理)」へと変貌を遂げ始めた。
かくして、日本のリゾート史に永遠に名を残す巨大プロジェクト『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』の建設が、ついに幕を開けた。
大衆の活気、成金の欲望、そして権力者の密約。
すべての業を飲み込む巨大なコンクリートの箱庭は、今まさに、その産声を上げたのである。




