第126話 ルート編:谷を捨て、山を喰うアプトの歯車
昭和52年(1977年)、冬。
深夜の「送り出し工法」によって、大渋滞の国道1号線と早川の谷間を跨ぎ、対岸の山肌へと突き刺さった巨大な鋼の橋。
翌朝、その信じられない光景を目の当たりにした小田急の役員たちは、一時的にパニックに陥ったものの、すぐに気を取り直して冷笑を浮かべていた。
「……ふん、川を跨いだくらいでいい気になりおって。だが、橋が着地した先を見てみろ」
役員が双眼鏡で対岸を睨みつける。
「あそこは箱根外輪山に連なる、ただの『急峻な山の斜面(崖)』だ。あんな切り立った斜面に、道路はおろか、鉄道の線路なんて敷けるわけがない。結局ヤツらは、崖に行き当たって自滅したんだよ」
彼らの言う通りだった。
通常の鉄道(粘着運転)が登れる勾配の限界は、せいぜい80パーミル(1000メートル進んで80メートル登る角度)。だからこそ小田急の箱根登山鉄道は、急勾配を避けるために山肌をウネウネと這い回り、何度も「スイッチバック(ジグザグ移動)」を繰り返して、時間をかけて登っていくしかなかった。
しかし。
早川を渡った対岸の斜面で、木々を伐り拓きながら重機を操る高見は、眼下の小田急線を鼻で笑っていた。
「……小田急の連中は、俺たちが『谷間を這いずる虫ケラ』と同じだと思ってるらしいな」
「ええ。我々が手にした技術は、地形の呪縛に囚われるようなヤワなものではありませんからね」
図面を広げた五代が、ステッキでその『急峻な山の斜面』を真っ直ぐに指し示した。
「……我々の車両は『アプト式』。……谷底をウネウネと這いずる小田急やマイカーとは、根本的に登坂力が違う。……道路や既存の線路の上なんか走らねえ。俺たちは『山』を一直線に登るんだよ」
五代の引いた赤いラインは、小田原駅から早川を一跨ぎした後、急峻な山の尾根筋に沿って、箱根の山頂(平坦地)まで**「一直線」**に引かれていた。
「……最大勾配、実に『150パーミル』。小田急の倍近い急勾配の斜面を、木を伐り、基礎を打ち、アプトの『歯車』を敷いて、力業で直登する。地上の渋滞も、人家の立ち退きも、複雑なカーブの計算も一切関係ない、ただの『山林土木』だ!!」
ガキンッ、ガキンッ!!
斜面では、すでに軌道の中央に、強靭な「ラックレール(歯車用のギザギザのレール)」が敷設され始めていた。
小田急の役員たちの顔色から、ついに余裕が消え失せた。
「な、なんだあの狂った急勾配のルートは!? あんな崖のような斜面を一直線に登る気か!? そんなバカな真似ができるはずが……!」
「……できるんだよ。俺たちのバスの腹には、あのレールを噛み砕く『鋼の歯車』がついているからな」
斜面の頂上近くから見下ろす高見の背後で、完成しつつあるコンクリートの専用軌道が、一直線に空へと伸びていた。
国道1号線で大渋滞に巻き込まれ、1ミリも動けないマイカーのドライバーたち。
そして、急カーブとスイッチバックで時間を浪費する小田急の乗客たち。
彼らが疲労困憊で下界を這いずっているその遥か頭上を、京急と相鉄が切り拓いた「アプト式の軌道」が、最短距離で箱根の山頂へとぶち抜かれようとしていた。
山の覇者は、もはや小田急ではなかった。
地形を喰い破る『歯車のインフラ』が、小田原の空を完全に支配したのだ。




