第120話 ダンプと枝葉と、ねっとりとした合法の壁
昭和52年(1977年)、夏。
国鉄の頭上を越え、ついに小田原駅前の「ターミナル建設予定地(更地)」へと重機を下ろした相鉄・京急の特別架橋連隊。
いよいよ巨大駅ビルの基礎工事が始まる――はずだった。
「……おい! なんでダンプが1台も現場に入ってこねえんだ! 生コンの打設時間がとっくに過ぎてるぞ!!」
真夏の炎天下、現場監督の高見が無線機に向かって怒鳴り散らしていた。
『た、高見さん! ダメです! 現場に続く一本道で、地元の農家のトラクターが、時速10キロでダンプの前を塞いでるんです! 追い越せません!』
「……なんだと!? 警察を呼んでさっさと退かさせろ!!」
『呼んだんですが……お巡りさんが「まあまあお爺ちゃん、後ろがつっかえてるから譲ってあげてね」とチンタラ身分証の確認とかをしていて、もう40分も足止めを食らってます!!』
「……クソッ!! コンクリがミキサー車の中で固まっちまうぞ!!」
高見はヘルメットを地面に叩きつけた。
これこそが、小田急が裏で糸を引く最悪の遅延工作『生コン殺し』だった。警察も「ただの交通指導」として処理するため動きが遅く、そのタイムロスで生コンクリートの寿命(1時間半)を完全に使い潰させる、合法かつ陰湿な兵糧攻めだ。
「……高見さん、こっちもヤバいです!」
今度は、仮囲いのフェンス際で重機を操縦していたオペレーターが顔を青くして走ってきた。
「……隣の地主の庭から、デカい柿の木の『枝』が、思いっきりウチの建設予定地のど真ん中まで張り出してきてるんです! 基礎の杭打ち機が入りません!」
「……あァ!? そんなもん、チェーンソーでぶった斬っちまえ!」
「……ダメです! さっき切ろうとしたら、地主の弁護士がすっ飛んできて『たとえ敷地を越境していても、枝の所有権はこちらにある! 勝手に切断したら器物損壊と損害賠償で工事差し止めの仮処分申請を出す!』って脅されたんです!!」
枝一本、葉っぱ一枚すら勝手に切れない。
巨大な重機が、その忌々しい「柿の木の枝」を避けるために身動きが取れず、完全にアイドリング状態で立ち往生していた。
さらに、現場事務所の電話は朝から鳴りっぱなしだった。
「……はい、騒音苦情ですね。……え? まだ重機のエンジンをかけただけですが……『精神的苦痛で夜も眠れない、作業は昼の12時から15時までにしろ』……? 冗談じゃねえ!!」
「……高見さん、予定地の隅にあるボロ小屋に、昨日までいなかったはずの『居座り屋(自称・借地権者)』が布団敷いて寝てます!!」
ダンプを塞ぐトラクター。敷地に侵入する不可侵の枝葉。騒音苦情。居座り屋。
一つ一つは地味で致命傷には見えないが、それが「同時多発的」に、かつ「完全に合法な形」で現場に降り注ぐことで、建設スケジュールは完全に崩壊していく。
「……はぁっ、はぁっ……クソ、クソが……ッ!!」
高見は胃を押さえ、汗と泥にまみれて膝をついた。
国鉄の無茶振りにも耐えた彼だったが、この「小田原の地元住民」と「法律」を隠れ蓑にしたねっとりとした兵糧攻めには、手も足も出なかった。
少し離れた小田急の駅長室から、その地獄絵図を双眼鏡で見下ろしていた小田急の不動産担当役員が、冷たく笑った。
「……土木で勝てないなら、法律と地元感情で縛り首にするまでだ。……いくら野良犬どもが吼えようが、この小田原の街で、ウチ(小田急)の許可なくセメント一袋、釘一本打てると思うなよ」
現場が完全に機能停止し、高見が胃液を吐きそうになっていたその時――。
「……おいおい、ずいぶんとセコい嫌がらせを受けてるじゃねえか、高見」
コツン、と。現場事務所に、五代のステッキの音が響いた。
その背後には、分厚い六法全書と権利書を抱えた、京急本社の**『法務部のエリート弁護士団』**がズラリと並んでいた。
「……小田急の連中は勘違いしているようだな。ウチら『鉄道会社(インフラ屋)』を、地元の道と法律で封じ込められるとでも思ってるのか?」
五代は窓の外、渋滞で一歩も動けない道路から視線を外し、**自分たちがたった今架け終わったばかりの『真新しい鉄橋と高架線(新幹線の頭上)』**を見上げた。
「……高見。公道(道路)が使えないなら、川崎のプラントから『自前のレール(貨物列車)』で、この更地に生コンと資材を直接ぶち込め。……法律のゴミ掃除は、ウチの法務に全部やらせる」
地元封鎖の嫌がらせに対し、五代が切ったのはヤクザではなく、**『インフラ網の物理的な暴力』と『企業法務の頭脳』**だった。
小田原の更地を巡る、泥沼の市街地戦が幕を開けた。




