第109話 事務屋の限界と、技術者の兵糧攻め
昭和52年(1977年)、冬。
新宿、小田急電鉄本社・常務室。
ビリビリに引き裂かれた一万円札の残骸が、まるで雪のようにふかふかの絨毯に散らばっていた。
御子柴は、デスクに突っ伏し、送られてきた薄汚い『犬釘』を握りしめたまま、獣のように荒い息を吐いていた。
「……小田原の地主どもめ……私の金が受け取れないだと……! ええい、五代め! この鉄のゴミ(犬釘)も忌々しい!!」
御子柴が、その赤茶けた犬釘をゴミ箱へ投げ捨てようと腕を振り上げた、その時だった。
「……常務。その『鉄のゴミ』を捨てるのは、少し待っていただきたい」
ノックもせずに常務室に入ってきたのは、作業着にヘルメットを小脇に抱えた、白髪交じりの初老の男だった。
小田急電鉄・工務部長の権藤。
箱根の険しい山岳地帯に特急を走らせるため、数々の難工事を陣頭指揮してきた、小田急の「現場(技術屋)」のトップである。
「……権藤か。現場の人間が、本社の役員室に何の用だ。私は今、気が立っているんだ!」
御子柴が血走った目で睨みつける。
しかし、権藤は散らばった一万円札の残骸を一瞥すると、鼻でふっと笑い、御子柴の手から『犬釘』を奪い取るようにして、その分厚く油染みた手でそっと拾い上げた。
「……常務。あなたは優秀な事務屋だが、現場の泥を知らなすぎる。……五代という男が、なぜわざわざこの『犬釘』を送ってきたのか、本当の意味が分かっておられない」
「……何だと?」
「……犬釘とは、何百トンという電車の暴力を受け止め、レールと枕木を繋ぎ止める『我々インフラ屋の命綱』です。……それを敵のトップに突きつけるということは、**『俺たちは血と汗で、この土地の安全(根幹)を完全に支配したぞ』**という、現場の人間同士の、最も残酷で最大級の脅し(宣戦布告)なんですよ」
権藤は、犬釘をコンコンとデスクに叩きつけた。
「……五代の部下たちは、地主たちの前でこの犬釘を打ち込む泥だらけの手を見せ、信頼を勝ち取ったのでしょう。……綺麗なブランドと札束しか知らないあなたでは、最初から勝てる喧嘩ではなかったということです」
「……き、貴様ッ! 一介の技術屋の分際で、私を愚弄するか!!」
図星を突かれた御子柴が、顔を真っ赤にして立ち上がった。
自分の敗北の理由が「現場の泥を知らなかったからだ」と、自社の部下に宣告された屈辱。
「……ええ、愚弄していますよ。誇り高き地主の顔を札束で叩くなど、三流の事務屋のやることだ」
権藤は冷たく言い放つと、小脇に抱えていた分厚い**『土木工事手配書(発注確約書)』**の束を、御子柴の目の前にドサリと投げ出した。
「……土地を買われたなら、線路を『敷かせなければ』いいだけのことです。……ここから先は、我々現場のやり方で、あの野良犬どもを殺します」
「……線路を、敷かせない……? その大量の手配書が、どう関係するというんだ」
「……五代たちは小田原の土地を手に入れた。だが、そこに辿り着くためには、小田原の手前にある巨大な一級河川『酒匂川』に巨大な鉄橋を架け、何万トンものコンクリートと鉄骨を運び込まねばならない。……しかし常務、地元のゼネコンや資材業者が、我々小田急の顔色を窺って、ただの義理だけで相鉄や京急という『超巨大な新規顧客』を追い返すと思いますか?」
権藤は、発注書の束をバンッと力強く叩いた。
「……業者は売上がなければ動きません。だから、私がこの発注書で『代償』を払ったんですよ。これは向こう10年分の、小田急による県西部の駅舎改修や商業ビル開発の確約書です。……**『相鉄と京急には、セメント一袋、鉄骨一本たりとも売るな。その代わり、小田急がこの先10年、お前たちを食わせてやる』**とね」
「……!!」
「……我々インフラ屋は、現金の札束ではなく、金を『仕事(発注)』に変えて、業者の胃袋を合法的に支配するんです。……これで県西部のすべての資材業者とゼネコンは、完全に小田急の軍門に下りました」
権藤の目に、長年この地を切り拓いてきた絶対的な権力者としての光が宿っていた。
「……さあ、常務。土地があっても、資材がなければ鉄橋は架からない。奴らは酒匂川のこちら側で、文字通り行き倒れることになります。……平地の野良犬どもに、我々小田急の技術屋が築き上げた『インフラの壁』を教えてやりましょう」
小田急の「裏の顔」である現場のドンが仕掛けた、圧倒的に残酷な兵糧攻め。
御子柴は、手元の『犬釘』と『手配書』を交互に見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
エリートのプライドはへし折られた。だが、小田原防衛線はまだ終わっていない。小田急の技術屋たちが牙を剥き、今まさに最凶の物理障壁となって、五代たちの前に立ち塞がろうとしていた。
暴走半島




