第108話 箱根細工の差し入れと、柴犬の断末魔
御子柴は、目の下の隈を濃くしながら、小田原の都市計画図を睨みつけていた。
用地買収部隊に「相場の5倍の札束」を持たせて小田原の地主たちを回らせてから数日。そろそろ、すべての土地を小田急の資本下に収めたという吉報が届くはずだった。
「……常務。京浜急行の五代様より、常務宛てに『お中元には少し早いですが』と、お荷物が届いております」
秘書が、訝しげな顔で一つの木箱を運んできた。
「……五代から、だと?」
御子柴の肩がビクッと跳ねた。あの三崎のマグロ(鮮度の刺客)のトラウマが蘇る。
デスクの上に置かれたのは、美しい幾何学模様が組み合わされた**「箱根寄木細工」**の立派な小箱だった。
小田急の聖域である「箱根」の伝統工芸品。それをわざわざ敵である京急が送ってくるという、底知れぬ悪意。
「……ええい、開けろ! 中に何が入っている!」
「……は、はい。……からくり箱になっていますね……こうして、スライドさせて……」
カチャッ。
秘書が寄木細工の箱の蓋を開けた瞬間、御子柴は息を呑んだ。
箱の中に敷き詰められていたのは、小田原名物の蒲鉾でも、梅干しでもなかった。
それは、数日前に御子柴自身が金庫から出させた**『小田急の帯封が巻かれた、相場の5倍の札束(現金)』**だったのだ。
「……な、なんだこれは……!! なぜ、ウチの買収資金が、五代から送られてくるんだ……ッ!?」
御子柴が血相を変えて立ち上がった。
「……じょ、常務! 札束の上に、何か……鉄の塊が乗っています! それと、手紙が……!」
秘書が震える手で取り出したのは、赤茶色に錆びつき、油と泥にまみれた一本の太く重い鉄の杭――レールを枕木に固定するための**『犬釘』**だった。
そして、それに添えられていたのは、美しい便箋などではない。
暴動の日に相鉄・京急が窓の穴塞ぎに使ったのと同じ、『ちぎれた段ボールの切れ端』。そこに、極太のマジックペンで、五代の乱暴な筆跡が書き殴られていた。
『――小田原の民意は、この犬釘一本(インフラ屋の意地)で打ち抜いた。その紙屑(札束)は受け取れないと地主たちが言うので、我々の物流網で返品する。
追伸:その紙屑は、割られたロマンスカーのガラス代の足しにでもしたまえ。――京浜急行電鉄・五代』
* * *
「……あ、あ……」
御子柴の手から、段ボールの切れ端が滑り落ちた。
理解してしまったのだ。
小田急が絶対の自信を持っていた「相場の5倍の札束」が、あの泥臭い男たちの「段ボールの英雄譚」の前に、完全に敗北したという事実を。
地主たちは、小田急の現金を突き返し、京急の物流と相鉄の泥まみれの手を選んだ。
この返品された札束は、小田原の防衛線が完全に決壊したことを告げる、死刑宣告書だった。
「……五代ェェェ……!!」
御子柴は、箱根寄木細工の箱に手を突っ込み、その札束を鷲掴みにした。
「……私の! 小田急の美学を! 金を! 箱根を!! ……お前らのような、泥まみれの野良犬どもが、土足で踏みにじるなぁぁぁぁっ!!!」
バリィィィィィッ!!!
エリートの象徴たる御子柴が、発狂したように一万円札の束を力任せに引き裂き、空中に放り投げた。
紙吹雪のように舞い散る、無価値となった万札。
その中心で、御子柴はデスクの上にあった油まみれの『犬釘』を握りしめ、獣のように泣き叫んだ。
「……許さん! 許さんぞ五代!! 小田原を取られたくらいで、私が終わると思うな!! この先には天下の険、箱根山があるんだ!! お前らみたいな平地の野良犬に、箱根の山が登れるものかァァァッ!!」
誇り高き柴犬の、完全に正気を失った断末魔の遠吠えが、新宿のビルに虚しく響き渡っていた。




