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第107話 泥臭きドブ板営業と、揺れる小田原

 昭和52年(1977年)、冬。

 小田原駅前の商店街。古くから続く金物屋の店先に、一台の黒塗りハイヤーが停まり、中から小田急の用地買収担当者が降りてきた。

「……ご主人。先日ご提示した『相場の5倍』の件、そろそろ首を縦に振っていただけましたかな? 我々小田急としても、これ以上お待たせするわけには……」

 担当者が傲慢な笑みを浮かべながら急かした、その時だった。

「……ほう。随分と気前のいい商売をしているな、小田急さんは」

 背後から響いた低く通る声に、担当者が振り返る。

 そこに立っていたのは、仕立ての良いスーツにステッキを手にした五代と、作業着の上にジャンパーを羽織っただけの泥臭い男、高見(相鉄)だった。

「……き、貴様らは! 京急の五代……!!」

「……邪魔をする気はない。我々も、この街の皆さんに『ご挨拶』に来ただけだ」

 五代は、小田急の担当者を完全に無視し、金物屋の老店主に向かって深々と頭を下げた。

「……突然の訪問、失礼いたします。相模鉄道・京浜急行電鉄連合の、五代と申します。本日は、我々の『小田原延伸』の計画について、ご説明に上がりました」

 老店主は、戸惑いながらも五代たちを店の中へと招き入れた。

 小田急の担当者も「どうせ無駄だ」とばかりに、鼻で笑いながら後からついて入る。

「……五代さんと言ったか。悪いが、ウチの土地は小田急さんが『相場の5倍』で買うと言ってくれている。お宅らは、それ以上の金を出せるのかね?」

 店主の言葉に、小田急の担当者が勝ち誇ったように胸を張った。

 しかし、五代は首を横に振った。

「……出せません。我々が提示できるのは、せいぜい相場通りの適正価格です」

「……ハッ! なんだ、冷やかしなら帰れ! 金もないくせに小田原に手を出そうなどと、百年早いんだよ!!」

 小田急の担当者が、下品な声で嘲笑した。

 だが、五代の表情は微塵も揺るがない。

 彼は懐から、分厚い「図面」を取り出し、土間の机に広げた。

「……我々には、小田急さんのような莫大な札束はありません。……しかし、この街を『どう生かすか』という執念なら、誰にも負けません」

 五代が広げたのは、ただの線路の計画図ではなかった。

 それは、小田原の商店街の「物流」と「人の流れ」を緻密に計算し尽くした、街全体の未来図だった。

「……ご主人。小田急さんは、この街を『箱根へ向かう観光客の通過点』としか見ていない。だから札束で立ち退かせ、自分たちの綺麗な駅ビルだけを建てようとする。……ですが、我々は違います」

 五代は、図面の一点を指さした。

「……我々のターミナルは、この商店街と直結させます。三崎のマグロを数十分で運ぶ京急の『超高速物流網』を小田原にも繋ぎ、あなた方の商売を直接支援する。……我々が欲しいのは、ただの『土地』ではない。この小田原という街の『活力(血流)』そのものなのです」

「……物流、だと……?」

 老店主の目の色が変わった。

 商売人にとって、交通インフラがもたらす本当の価値が何なのか、彼は本能で理解し始めていた。

「……御託を並べるな! 結局は金だ! 札束の前に、そんな綺麗事が通用すると思うか!!」

 焦った小田急の担当者が怒鳴り散らす。

 その時、ずっと黙っていた高見が、無言で一歩前に出た。

 そして、自分の両手を、老店主の目の前にスッと差し出した。

「……え……?」

 店主は息を呑んだ。

 高見の手は、ひび割れ、無数の切り傷があり、油と泥が染み込んだ、分厚い「職人の手」だった。

「……先日、鎌倉で暴動がありました」

 高見が、朴訥ぼくとつとした声で語り始めた。

「……ウチの電車は、窓ガラスを全部割られました。でも、俺たち保線員や駅員が、段ボールとガムテープを貼って、意地でも客を乗せて走らせました。……見た目は無様でしたが、俺たちは『絶対にこの人たちを家に帰す』という約束だけは守り抜きました」

 高見は、真っ直ぐに店主の目を見つめた。

「……小田急さんのように、綺麗な特急は走らせられません。札束もありません。……でも、俺たちは『絶対に逃げない鉄道屋』です。……あんたの土地と、この街の未来を、俺たちのこの手に預けてくれませんか」

 静まり返る店内。

 老店主の脳裏に、数日前の新聞の一面が鮮明に蘇っていた。

 暴徒の標的となり、無惨に破壊された小田急のロマンスカー。そして、ボロボロになりながらも数万人の客を運んだ、相鉄・京急の段ボール電車。

「……おい、爺さん! 早く契約書にハンコを……!」

 小田急の担当者が急かすように身を乗り出した、その瞬間。

「……帰ってくれ、小田急さん」

 老店主は、静かに、しかし絶対的な拒絶の意志を持って言い放った。

「……な、なんだと!? 相場の5倍だぞ!! 目が眩んだのか!?」

「……金じゃないんだよ」

 店主は、小田急の担当者を冷たく見据えた。

「……あんたらの金は、確かに魅力的だ。だが……いざという時に客を見捨てて逃げるような『冷たい会社』に、代々守ってきたこの土地を売り渡すわけにはいかねえ。……俺は、この泥だらけの手をした『本当の鉄道屋』に、街の未来を賭けてみたくなったんだ」

 カチャン、と。

 小田原に築かれた、小田急の「絶対的な札束の防波堤」に、決定的な亀裂ヒビが入った瞬間だった。

 そしてこの亀裂は、五代たちの執念のドブ板営業によって、瞬く間に小田原全土へと広がっていくことになる。

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