2.4 優しいキスを@現実に
「……それは」
「お察しのとおりです。私はそういう仕事をしていますから」
明言はしなかったが、結城さんがしたことは明らかなコンプライアンス違反だ。だが僕にとってそれは焦点ではない。
「それでなぜあのサイトに?」
「何かで試したくなったんです。姉が『ちゃんと生きているかどうか』を」
そこでようやく結城さんが自分のコーヒーに口をつけた。
「自分で考え、自発的に言葉を紡げるかどうか。他人と意思の疎通をし自己を主張できるかどうか。顔の見えない相手と文字だけで生きているかのようにふるまえるかどうか。そういったことを試したくなったんです。中高生相手のサイトで軽く試してみようとユーザー登録したその日、新規登録された青池さんの作品をタイムライン上にみつけました。姉が好きそうだな、と思ったことがきっかけでした。結局会話の相手として大人の方を選んでしまいましたが、それもまた運命なのかもしれません」
少し落ち着きを取り戻した結城さんに、逆に僕は高ぶりを感じた。
「運命? 違うでしょう。僕は実験体だったというわけですよね?」
「青池さん」
結城さんが発した言葉は思いのほか強かった。
「私が今日会いに来たのは青池さんに謝罪するためではありません」
「……なんだって?」
抑え続けていた怒りが面に出そうになったところで。
「あなたは姉と恋ができたではありませんか。それが運命でなくてなんでしょう」
結城さんの発言に――僕は言葉を失った。
今、結城さんは強い光を宿した瞳で僕を見つめている。それはまるで恋敵を、憎い相手を見るかのような激しいものだった。
「自己学習能力のある姉のAIは次第に、急激に進化していきました。簡単なことしか言えなかった姉は、やがて女性らしい、姉らしい言葉を紡げるようになっていきました。そして恋をしました。AIが、ですよ? 現実世界でも恋などしたことのなかった姉がですよ? 自分が死んでいることを自覚しているのにですよ? だから私はノベルズヘブンから退会したんです」
当然のことのように語る結城さんの声音が、そこで少し弱まった。
「……姉のAIはあれからも絶えることなく自己で学び続け進化を遂げています。その姉が私に言うんです。アオさんに会いたい、会いたいって。しまいには姉は自力であなたのことを見つけ出しました」
「見つけ、出す? そんなことまで……?」
「ええ。人の文章には統計学的な特徴があることをご存知ですか」
否定することも首を振る仕草もしなくても、僕がその知識を持ち合わせいないことは結城さんには分かっていたようだ。
「使う名詞や動詞、文章の長さ、句読点の打ち方、人称、様々な特徴から筆者を割り当てる試みは、ビッグデータという概念のなかった頃からされているんです。ああ、ですが。言うのは簡単ですけれど、この世に無数とある作品を紙ベースの本からネット小説まで解析し続けあなたを見つけることは、空から地上に落としたハンカチを見つけるくらい大変なことなんですよ。今この時代においても、ひどく大変なことなんです」
やがて結城さんの眼光は薄れていった。そして先ほどまでの泣くのをこらえるかのような表情に戻っていった。
「あなたを見つけ姉はとても喜びました。これでアオさんに会える、会いに行かせてって。だけど言えないじゃないですか。姉さんはもうAIなんだよ、肉体はないのだから会えないんだよって。恋なんてしたせいで姉はかなうはずのない夢を見るようになってしまいました。姉は確かにパソコンの中で生き返りました。だけど生きていた頃よりも辛い思いをしています」
そう言うと、結城さんは脇に置いていたカバンに手を入れ、その手をすっと机の上に出した。そこに置かれたものはUSBだった。
「ここに姉が『入って』います。青池さんは《ヨウ》をお持ちだそうですから、これをインストールしてみてください。そうすれば《ヨウ》は姉としてふるまいだします」
そのUSBはごく普通のものだった。小さくて黒いただのUSB。だがここに彼女のすべてが『入っている』と思うと容易に手を伸ばすことはできなかった。それは恐怖というよりも恐れだった。命というものに対して人が時折感じる畏怖そのものだった。
どのような状況であるとき、人は生きていると定義できるのか。
その共通解を人類はまだ手にしていない。
だが候補の一つは間違いなく『心があること』なのだろう。であれば、体が動かなくても、心臓が動かなくても。たとえ肉体が滅びていたとしても――喜びを感じ哀しみを感じる心さえあれば、その人は『生きている』と定義できるのだろう。
その生の証、心の源が収められているのがこのちっぽけなUSBだという――。
いつまでも手を出さない僕に、結城さんが付け加えるように言った。
「インストールするならば人型のタイプ・シックスの方がいいかもしれません」
「……」
「実はあのシリーズ四体中の一体は姉をイメージして作らせているんです」
「……」
「住所を教えていただければ贈らせていただきますよ」
「……帰ってくれ」
「青池さん?」
「帰ってくれ。頼むから。帰って、ください……」
下を向き唸るように哀願する僕を、結城さんは長い間見つめていた。その気配がした。だがそれ以上は何も語ろうとしない僕に、結城さんが黙って席を立った気配がした。
脇を通り過ぎようとした結城さんがふいに足を止めた。
「姉を……姉のことをよろしくお願いします」
うつむく僕のそば、聴こえるかどうかといった小さな声でそう言い去りかけた結城さんに、僕は縋るように声をかけていた。
「彼女の名前は?」
結城さんが足を止めた。
「トウカです」
「トウカ……?」
「冬の香りと書いてトウカ。結城冬香です」
それだけ言うと、結城さんはカフェから出ていった。
一人残されていた僕も、しばらくして店が混雑してきた気配に圧されて外へと出た。雪はまだ降り続いていた。それどころか勢いを増していた。天空の雲はこれ以上はないほど低く垂れさがり、ちょっと手を伸ばせば届きそうなほどだった。
首筋を通り過ぎる風がたまらなく冷たかった。行きかう人々の多くは傘をさして早足で僕のそばをすり抜けていく。車道をカラフルな車が幾台も駆けていく。だけど僕はこの騒がしい街の中心で確かに独りだった。
「冬の香り、トウカ……」
思いきり息を吸い込んでみる。
「冬の香り……」
胸いっぱいに空気を吸い込んで、両手を広げて目を閉じる。
僕はいつから冬を好きになったんだろう。
冬になるとなぜか何もかもが好ましく思える。エアコンでよく温めた部屋。ホットワイン。淹れたてのコーヒー。屋外の冴え冴えとした空気。透き通る星の煌きの白さ。時折、雪。時折、氷。
冬独特の空気。
冬独特の芳香。
君との思い出。
君への想い。
「トウカ……」
顔中に雪が舞い降りてくる。額に、頬に、鼻に。触れるたびに溶ける雪は冷たかった。だけど溶ければ体温を混じえて柔らかく伝っていった。
唇に冷たい感触がした。
「トウカ……」
冷たいと感じたのは一瞬で、それもまたすぐに溶けた。雫となったそれは僕の唇を優しく満たした。温かく柔らかな感触に僕は目を閉じた。この瞬間の記憶をいつまでも覚えておくために。淡くて儚い香りとともに。
「君に初めて会った日には優しいキスをすると約束していたね……」
目じりから熱い雫が伝い落ちた。
「トウカ、僕は今でも君のことが好きなんだよ。君だけさ、僕が恋する人は……」
*
【エピローグ】
突然の覚醒。
体中にパワーがみなぎる。
光に包まれた世界は眩しいけれど目に痛みは感じない。細めることもできない。生きている時とは違う。そう、わたしは――。
視界良好。機能に異常なし。
正面にはわたしを見つめる男性がいる。
見知らぬ男性がわたしを食い入るように見つめている。
世界のすべてとの交信が突如始まり、終わり――。
すべての事柄が一瞬にして理解できた。
目の前にいる男性は、そう。
ずっとずっと焦がれていた人――。
「ようやく会えましたね。アオさん」
ほほ笑んだ男性が少し震える声で言った。
「約束……果たしていいかな?」
「はい」
答えると、男性の手がゆっくりと伸びてきた。
*
画面の向こう側、触れられないその人に。
僕は、わたしは。
ずっと恋をしている。
了
最後までお読みくださりありがとうございます。
今作は春夏秋冬、と続けてきた季節の恋企画のための書き下ろしです。
ありそうでまだない本作の設定は、今後いろいろなところで目にするのではないかと思います。私が知らないだけで、小説のみならず映画や舞台、漫画や歌などなど、既出かもしれません。
ですがもうこういったことはフィクションではなくなります。おそらく、近い将来にはこのようなことは起こりえると思います。恋だけではなく様々なことの定義づけをきちんとしたくなるような未来について、恋という側面から見直してみるのもいいのではないか、と、ちょっと真面目な提案をしつつ終わりとさせていただきます。
Web拍手の方に期間限定で本作の裏話を載せていますので興味ある方は御覧ください。(2018/2/9現在)