32話:吐き続けた嘘
どうしよう、逃げる?でも何処に?
ここはクレナの中だ。出口はすぐそこだけれど、あの重い扉をどうやって一人で開ければいいのか。
それにニックがクレナの元にいる。置いて行くなんてできない。
そもそも、一体クレナは何をした?
彼女は相変わらず真っ白で美しいのに、振り返る顔にはべったりと血が付いている。
そして手には食事中であることが窺えるナイフとフォーク。
昼間は料理が並べられていたはずのテーブルにはニックがいて、意識があるようには見えない。
だって彼の手足や体、顔も形がえぐられたように崩れていて、もう半分も残っていないのだから。
クレナとニックを交互に見比べ、やっとたどり着いたのは陳腐なB級映画のような推測だった。
「……食べた?」
問いかけ、というよりかは気がついたものがそのまま口に出た。
クレナは口元についた血を袖で乱暴に拭う。私の汗を拭いてくれたのと同じ服、手で。
袖は赤黒く汚れ、落としきれなかった血がうっすらとまだ口紅のように残っている。
ナイフとフォークを放り投げ、軽い足取りで椅子から降りるとふざけたようなため息をついた。
「なんじゃ、起きてしもうたのか」
「これ……、っこれは、何ですか。どうして、ニックが」
「可哀想にのう。そんなに震えて、温かいスープでも用意させよう」
「ぃ、いらないです!質問に答えて下さい!」
「こらこら、待つが良い。順番じゃ、順番」
何故この女はこんなにも落ち着いているのだろう。
人を食べている姿を見られてもまるで慌てる素振りがない。
よくある面倒事を処理しているみたいだ。
気持ちが悪くて叫び出しそうな声を懸命に殺した。
私がいくら喚こうが、きっとクレナは今と同じため息をこぼすだけだ。
泣いて逃げる前にやることがある。
「……ニックは生きてるんですか?」
「うむ、かろうじてじゃが。寿命はまだ見えておる」
生きてる。
それを聞いただけで涙が出そうになった。
なら助けないと。こんな化け物にニックが殺されるなんて絶対に嫌だ。
クレナはテーブルに手をついて重心を預けた。
実験動物を観察するようにニックを頭からつま先まで眺め、「ふむ」と頷く。
「おぬしが話していたように再生する気配はないのう。やはり一度死ぬ必要があるのか」
衝動的に手足が動いた。
さっきまでの体の震えは消え、ただクレナがこれ以上気味の悪いことを言わないよう喉元に掴みかかった。
細い首に触れようとした瞬間、バチッという音と共に手が弾かれる。
クレナが身動きした気配はなかった。何かの魔法か。彼女は魔法使いではないのに何故?
驚くのは後だ。そう再び腕持ち上げようとしたのに言うことを聞かない。
突き刺さったナイフを目にし、遅れて激痛が走る。
「あぁ……!」
「まったく。順番じゃと言っておるのに!おぬしはせっかちじゃな」
痛みでよろめいた体は指先で押されただけで椅子にもたれかかった。
私を座らせ、満足げに笑みを浮かべたクレナはすぐ隣の椅子に腰を下ろした。
彼女に目もくれずニックの方に身を乗り出す。
見れば見るほど酷い状態だ。かろうじて呼吸はしているけれど、両脚、両腕共に肘より下の肉がない。 顔も頬の肉を失った歯が根元からむき出しになり、およそ全身の半分ほどが既に食べられてしまっている。傷口はナイフで無理に引きちぎったせいでぐちゃぐちゃだ。
「妾が今手を下すまでもないじゃろう?もうじき其奴は死ぬ」
今更睨んだところで、彼女は変わらず悠々と笑い続ける。
その薄い腹の中にニックの半分を入れておきながら、相変わらず下劣な顔をするのが許せない。
「ニックを殺そうとした理由は想像がつきます。貴女はずっと彼が不老不死なのか確かめようとしていたから。でも……、どうしてこんなやり方をするんですか?」
「ふむ……、それは何故妾が其奴を食べたのか、という問いか?」
私の無言を肯定と受け取り、クレナは頬杖をついて何から切り出すかしばし逡巡する。
今にも息絶えそうなニックと私を見比べ口を開いた。
「では先に、まず前提から改めねばならん。妾はおぬしらに嘘をついておった」
「嘘?」
「クレナは不老不死である。という嘘じゃ」
あっけなく、彼女はそれを打ち明けた。
たった一言で、言葉通り『前提が覆る』。
クレナは不老不死である。その真実だか分からない噂にすがり、私達はここまで来た。
彼女と会ってからした会話の全てが、不老不死であることを前提に行われたものだった。それが嘘だと言うのならクレナが発した今までの言葉全て、意味をなさない虚言になっていしまう。
ここにいる人達は知っているのか?いや、知っていたのならこんなにも人数が集まる訳はない。彼らは私達と同じように、不老不死の存在を求めて集っているはずだ。ただの美しい女にかしずく物好きがこれだけいるなんていくらなんでも考えにくい。
彼女は本当に、自分自身を不老不死だと偽り、各地から人を集めていたというのだろうか。
建物の中だけじゃない、クレナは世界を騙していた。
「一体何のために……、そもそも、そんなこと可能なんですか……?」
即答はせずに片肘をテーブルにつき、重心を預ける。視線は私から逸らされないが、人懐こい笑顔は失われた。
大きな目が真っ直ぐに射貫く。彼女は数秒そうして、また口の端で笑みを作る。
「可能かどうかは妾を見て分かるじゃろう。理由は……、こやつと同じじゃ」
指先をニックに向けた。物を扱う仕草のまま、「これ」と示す。
「死にたくないのじゃ」
ただそれ以上も以下もない、シンプルな欲。
クレナもまた、不老不死を求めていた。
死にたくない、そのひと言で終わってしまう単純な感情、もとい本能に何千年生きても抗えない。
たとえ取り巻く者全員を騙そうとも。
「妾、本当は魔法使いになりたかったのじゃ。魔法使いになって永遠に生きられる魔法を作りたかった……。でも素質がなくてのう、魔力を自分で操ることもできん」
魔族は全て魔力を有しているが、魔法使いになれる才があるかは生まれたときから決まっている。
セシリアのように魔力を様々なことに応用できる者は魔法使いになれる。しかしライニールやアリサのように特定の分野が魔力によって抜きん出ていたり、あるいは強化ができてもそれ以外扱うことができない者もいる。
クレナは後者だったのだろう。
「貴女は魔力で寿命を見ている……」
「そうじゃ。生まれてからずっと、視界に映る生物の寿命が見える」
一体、どれ程の恐怖なのか。
クレナの目は映るものがいつ死ぬのかを彼女に突きつけてきた。そこには当然、自分自身の寿命も含まれている。
刻一刻と焼き付けられる終わりが、彼女の生への執着となったのだ。
「寿命が見えるなんて者は他におらんかった。故にこれを消す方法を探そうにも宛がない。妾は特別なのじゃ」
自尊心に溢れた言葉は、けれど自嘲的で虚しい。
何を言うべきか、慰めようとすら思った。
しかし次にクレナと目が合ったとき、そんな思いは一瞬で消え去る。
哀れな女は瞳の色を変え、狂気的なまでに爛々とした笑顔を浮かべた。
「じゃが、じゃがな。妾、特別なことがもう一つあるのじゃ!!」
本来ならば美しいはずのその目が、まるで私を飲み込んでくるかのような錯覚。思わずのけぞった私を、逃がすまいとクレナが腕を掴んだ。ぐっと顔を近づけられ、彼女がまばたきをする度に交差する睫毛の白さが視界に揺れる。
弧を描く唇はないしょ話をするときみたいに小さく開く。それでも声は嫌にはっきりと耳に届いた。
「生き物を食べるとな、寿命が増えるのじゃ!」
ふふっ、と喜びに溢れた息が頬に触れた。
そこから寒気が全身に広がる。おぞましさで鳥肌が立ち言葉を返すことができない。
人を食べている、ということをどうして彼女は自慢げに話すのだろう。
この世界で生きる者は皆、私だって魔獣などの生き物を食べているけれど、でもそれは言葉を話さない動物だからだ。自分と同じように会話をし、思考している存在を食らうのは訳が違う。
まともな倫理観があればそんなこと思っても実行しない。
加えてクレナは、そこに罪の意識すらなかった。
「すごいじゃろう!これは妾だけの力でな、他の者にも試したが駄目じゃった。妾だけが、他人の寿命を取り込むことができるのじゃ。食ったものの寿命があと十年なら妾の寿命も十年増える。百年、五百年……、その度に増えていく」
なら、彼女は一体今までどれだけの数の魔族を葬ったのだろう。
何年生きているのか、正確な年数は知らない。しかし途方もない寿命を増やし続け、それでも完全な不老不死にはなり切れず、不老不死もどきとして生きながらえている。
数多の死体が積み重なって、クレナは作られていた。
化け物は尚も恍惚とした表情で語る。
「ただ何故か魔獣や魔法で作ったモノでは駄目だった。色々試したが、どうやら意思疎通が出来る生物に限定されとるみたいじゃ。それに寿命を取り込めるまで生きたまま食べる必要があるのは難点でのう……。こんな味付けもしとらんもの美味くもないゆえ。食べきらなくても良いのじゃが、最低半分は食わんとならんし、結構苦労するのじゃ。……まあ、一番効率が良いのは赤子じゃの!体も小さいうえに生まれたばかりじゃから残りの寿命も」
「やめて下さい!!」
私の叫び声に興がそがれたクレナは口を曲げてフォークをくるくると机の上で回した。
彼女の行動には無駄が多い。普通の人みたいに。
喜んだり、拗ねたり、悲しんだりする癖に人を食べる。
それが美味しいからとか必要な栄養だからとか、そういう理由なら納得した。
けれど自分の寿命を延ばすためなんてそんなもの、私が共感できる訳がない。
まだ熱を持っている腕を押さえ、横目でニックを見た。
もうほとんど呼吸をしていない。抱えて逃げたところで助からないことは考えなくてもわかる。
ならどうする?クレナのことを信じて、ニックが生き返るのを待つのか。
それとも一人で逃げる……?
結局、私はどちらも選ぶことはできないのだ。どうしよう、と情けなく考え倦ねるだけ。
そんな私を嘲笑うかのようにクレナは告げる。
「そろそろじゃ」
口角を吊り上げ、ニックの上に覆い被さるようにして彼が死ぬのを今か今かとカウントする。
頭がおかしくなりそうだ。
はしゃぐクレナの声がピタリと止まった。
目玉が静かにこちらへ動き、歪む。
「寿命が消えた」
「死んだぞ」
頭が痛い。腕も、体も何もかもが重いのに不思議と早く動いた。
思考が動く前に、私はナイフを腕から抜き取っていた。
聞いたこともない誰かの叫び声が聞こえたけれど、それは確かに自分自身の喉から発せられたものだ。
クレナに突き刺さるはずのナイフは虚しくも私の手から宙を舞う。
ナイフが落ちる音は、私が床に転がった音でかき消された。
顔の右半分が軋むように痛い。
両手の間に垂れた血がどこから流れたものかはわからない。
左右にぶれる視界の中心で、クレナは左手の甲をさすっていた。
「はあ、最悪じゃ。骨が折れたやもしれん」
そう言いながら手を握りしめたり、また開いたりを繰り返す。
全然折れてないじゃん、と心の中で悪態をついて口の中に溜まった血を吐き出した。
「おかしいのう、寿命が延びておらん。食う量は充分足りておったはずじゃが……。やはり男の方はまがい物じゃったか?」
己が食い散らかした食材を上から下まで観察し、その残された肉片が未だに再生されない様子を見て肩を落とした。
「なんじゃあ、本当に死んだのか?これでは完全に食い損ではないか。大失敗じゃ!」
「クソ野郎……」
罵倒されたというのに、彼女は高らかに笑った。そもそもクレナに他者への怒りという感情はない。
そんなものは覚えていない程遠い過去に消えた感情だった。
だってそうだろう。クレナはいつだって食らう側だったのだから、養分となる物体の言葉なぞ耳に入れるだけの価値しかない。向けられた言葉の意味や、相手の気持ちなんてものを察しようとすら思わなかった。そんなものに意味はないから。
「そんなに睨むな、まだおぬしが怯えるには早いぞ。無闇に食ってやろうとは思っておらん。最初から妾の本命はおぬしじゃ。長年の勘が大本はそっちじゃと告げておるゆえ、どうやってただの人間の寿命を延ばしたのかじっくり観察させてもらうとしよう」
「お断りです。貴女なんかと一秒だって同じ空気を吸いたくない」
「ああ、そうまで嫌われると妾も傷つくのう。おぬしとは誰よりも理解し合えるというのに」
聞くに耐えない戯れ言だ。誰が共食い女と相互理解などするものか。
それよりも、私の意識は彼女の背後にいる友人で占められ、彼が死んだかもしれないという想像だけで手足が震え、奥歯が軋むほどだった。
様子を確認したいのに、ここからじゃクレナが邪魔でよく見えない。
本当に再生しないのか?それともまだ時間がかかるだけ?私が死んでいたときはどれくらいで生き返ったのだろう。
もし、もしも本当にニックがもう戻らないのだとしたら、私はどうやって生きていけばいい。想像することすら恐ろしい。
彼をそんな風にした張本人がわざとらしく媚びた声で私に語り掛ける。
「聞いてくれぬか」
今更、何を。
口にも出さず剝き出しの敵意だけをクレナに向けた。
口の中は相変わらず血の味がする。顔のあちこちが痛い。鏡がないから分からないけれど、多分酷いことになっているのだろう。
自分で殴っておきながら、クレナは私に同情した。
そして同時に私からの同情も求めた。
「妾達、とても哀れじゃの」
心からの言葉だ。大勢を食らい嘘をつき続けた彼女は、信じられないことに本気でそう思っている。被害者ぶっている。
「初めからこうだったのではない。妾がまだ十数年ほどしか生きていないときは、定めに逆らう気などなかった。終わりがあらかじめ分かっていて便利だとすら思っていたくらいじゃ。……じゃが」
血まみれの両手で顔を覆い隠す。
何かから隠れているように見えたけれど、クレナが隠したかったのは自分ではなく視界そのものだ。
「残りが……、どんどん減っていくのじゃ……。目を閉じても、暗闇の中でも妾の寿命だけは見える。何をしていても、いつも、自分の終わりがそこにあることが……怖い、恐ろしい、とても耐えられない」
存在そのものが嘘みたいな彼女だが、吐露された弱さは本当だった。それは私にも分かっていた。
終わりにしたいと思ったこともあるのだろう。ただ流れ続ける年月に絶望したことも。それでも、命を玩ぶ娯楽を享受し空想のように扱われる巨大な監獄の主は、誰よりも死ぬことを恐れている。
生きる喜びじゃない。死への恐怖だけで果てしない時間を歩むことを選んだ。
この期に及んで私は、クレナに対してある種の同情を抱いた。
けれどそれも次に彼女が口を開いたときには消える。
どれだけ恐怖や苦悩があろうと、結局クレナは他人から奪う発想しか生まれ得なかった化け物だ。
だからこそ数千年生きたうえで正気を保っていられるのだ。いや……、これを正気だと言っていいのか、私には判断できない。
「のう、妾だって好きで食うておるのではないのじゃ。始めもちょっとした憂さ晴らしだったしの」
まぶたを閉じればまだ不老不死ではなかった頃、少し珍しい力を持っていただけの女が浮かぶ。
自分の目に映るものが怖くて、それをどうにかする術も持たず、唯一の安寧は寝ているときだけだった。
見た目が大人になるに連れその恐怖心は増すばかり。老いと死の圧迫で息が苦しい、気が狂いそうだ。
「その頃、ある種族の話を聞いたのじゃ。人魚という種族は不老であるという。……とても素晴らしいことじゃ。うらやましいことじゃ。きっとそやつらは妾が知る中で、一番死への実感が薄いじゃろうて。なんせ、老いぬのだからな」
生き物が死を身近に感じるのは老いるからだとクレナは言う。
自分の見た目が変化し、確実に終焉への準備を整えていく。
それが無いということは、死の直前まで意識が向かないのではないか。だって何も変わらないのだから。ある日突然終わりが降ってくるだけだ。
「どんな者達なのか見てみたくてのう、噂話を頼りに探し回ったのじゃ。今のおぬしらのように」
ふっ、とクレナは小さく笑う。
「ようやく人魚が住む湖を見つけ出し、妾は会いに行った。けれど声をかけることはできなんだ。……美しくてのう、陸にいるときすら宙に浮いているようじゃった。うらやましいことじゃ。……なんとも、妬ましいことじゃ」
天真爛漫だった彼女の声が一瞬、男女さえも分からないほど濁った。次に口を開いたときには既に消え去っていたため、聞き間違いかと思われた。
けれど私の耳には確かに残っている。あの底が見えない憎悪を孕んだ怪物の声が。
「その娘は木陰にあった岩に座っていた。水につけた足先に戯れている魔獣を見て笑っておってのう……。そう、笑っていた。妾がこんなにも苦しんでおるのに、そやつは笑っておったのじゃ。だからつい、その顔に噛みついてしもうた」
ガブッとな、そうやって不釣り合いな愛嬌のある仕草で、クレナは最初の殺人を自白した。子供がライオンの真似をしているようにも見えるが、彼女は実際に人魚の頬を噛み千切っている。
後悔が微塵も浮かんでいないのは、言うまでもないことだ。
「そやつの姿を壊したかったのじゃ。もう妾の前で笑わぬように。気が済んだ頃には妾の寿命は少しだけ増えておったというわけじゃ」
ただ目の前で笑っている人が憎らしい。そんな感情は誰でも持ち得る。自分でさえ、腹が立っているときに楽しそうな人がいたら余計に腹が立つだろう。
それを踏まえても、クレナはやはり気が狂っている。
さっき彼女は寿命を延ばすには半分ほど食べる必要があると言った。半分、人魚を生きたまま、半分も食べないと止まらない破壊衝動。
そして気がついてしまった。
ここに来るまで、私は不老不死に関する色んな噂を聞いた。その中の二つの噂。
一つ目はクレナ。不老不死のクレナという女が存在する。
二つ目は人魚。人魚は年を取らず、その肉を食べると不老になる。
この二つの噂は元々一つだったのではないか?
噂は変容するものだ。長いときを経て一つだったものがそれぞれ別の事象へと変化した。
つまり、初めに語られたのは。
『クレナは人魚の肉を食べて不老不死になった』
「全部、貴女のせいじゃないですか……」
ゼスティアで出会った哀れな女がいた。そして彼女を助けたいと言った無愛想な男がいた。
人魚の血を引く女は奴隷業者に連れ去られて自我さえも無くしていた。
大きな手が細い首を締め上げ、弱い呼吸が止まった音をまだ覚えている。
アコルが薬漬けにされ廃人になったのも、グランが友人を殺す羽目になったのも。
全ての始まりはクレナが人魚を食べたせいだ。
「貴女のせいで死んだのはきっとアコルだけじゃない……。楽に死ねなかった人だっているはずです!何人があんな、酷い目にあったと思ってるんですか!!」
「誰の話をしてるのかさっぱりわからんが……、妾がそれを知る必要もないのう。おぬしこそ自分は死にたがっているというのに、なにゆえ他人の死を気にするのじゃ?」
「私が死にたいのと、他人の死は全く関係ありません!望まない死は不幸なことです。しかもそれが他人の行動によって起こったのなら尚更……。どうして、そんなことも分からないんですか!?」
クレナは興味なさそうに毛先を指でいじり、それにも飽きて後ろに放る。
ああ、言葉が通じないんだ。
きっと私がこれから何を言ってもクレナにとってはどうでもいいことなのだろう。あの大部屋で生み出されて消えていった赤色の心臓みたいに。
不老不死を手に入れたいだけで、それ以外は考えるに値しない存在なのだ。
「おぬしは実にくだらないことに拘るんじゃな。そんなつまらぬことより、妾を不老不死にする方法を一緒に考えようぞ!まずはあの男が生き返らなかった理由からじゃの。妾が思うに……」
「死んでません」
「なんじゃと?」
「……ニックは死んでません」
クレナの目に哀れみと侮蔑、そして苛立ちが浮かんだ。
未だ男の生死にこだわって、面倒くさいことこの上ない。
彼女は舌打ちを押し込めて無理やり笑顔を作った。
「妾が寿命のことを言ったせいで諦め切れんのじゃな。余計な希望を与えてしまったことは謝ろう。けれど、もう受け入れたほうがおぬしのためじゃ。あやつは寿命が延びてはおったが不死ではなかった」
「ニックは、死んでない!!」
今度こそはっきりと歯を噛み合わせてクレナは唸った。
向けられたのは明確な殺意。けれどそう易々と私に手は出せないはずだ。
クレナは私が寿命を延ばす鍵だと思っている。万が一にも何かあって失われれば困るのは彼女だ。
どのみち、たとえ食人されたとしても私は死ねない。
「私はニックとここを出ます」
「なにゆえこの男なのじゃ?おぬしは孤独が怖いだけじゃろう。妾が一緒にいてやろうと言っておるのじゃぞ」
「嫌です。貴女とは一秒だって一緒にいたくありませんから」
ダンッと大きな音と金属が擦れる音が鳴る。
机が叩かれた拍子にカトラリーが跳ね上がったようだ。拳を握ったまま肩で息をして、怒りを必死に押し殺そうとしている。
クレナは我慢というものをしばらく、本当に長い間してこなかった。
それがたった一人の小娘によって強いられている。久しく感じていないどす黒い感情を自覚した。口を効けぬようにしてやりたかったが、不老不死の手がかりを害すことはできない。
吐き出されることのない怒りで身が引きちぎられそうだった。
そんなクレナの心情は想像に容易い。
髪をかきむしりながら目前まで迫り、馬乗りになられたときすら逃げる気よりその体の重さを意外に思った。想像していたより幾分か重かったのだ。
そっか、彼の半分か。
もう彼女に対して恐怖心は抱かなかった。そこにあるのは軽蔑だ。
「何故じゃ……!何故じゃ!?妾がこんなにも優しくしてやっておるのに!!こんなにも、恐怖しておるというのに!!何故あやつに拘る!!」
「ニックは一緒にいるって言ってくれたんです!!私が死ねなくて、この先皆がいなくなっても俺がいるから、私は一人にはならないって!!……それに貴女が、彼を不老だと言ったんじゃないですか。貴女のことは嫌いだけど、見たものは信じます。ニックの寿命に終わりがないと。わかったら、早くその腹にあるものを吐き出して下さい!!」
「……ああそうか。そうじゃな。妾の言葉を信じてくれるとは、ありがたいことじゃ。じゃがおぬしは肝心なことを理解しておらん」
灰色の目がおかしそうに歪む。
天井を背にこちらを見下ろすクレナは嘲り笑った。
「あやつは人間じゃ。永遠には生きられん」
顔を近づけられ、長い白髪が頬に滑り床へ流れた。
「妾は違う。お願いじゃ……、妾を、助けてくれ」
今更私が彼女を許すと本気で思っているのだから、救いようがない。
恐怖心で人の心も無くしてしまったのだ。
蜘蛛の巣のように絡みつく髪が鬱陶しくて手を上げたが、払いのける前にクレナが上体を起こす。
また体制を変えて殴られるのかと思ったが、そうじゃない。彼女は腹部に違和感を感じているようで、眉を寄せて腹に手を当てていた。
食べ過ぎて腹痛でも起こしたのだろうか。
けれどどう見ても、クレナはそれとは様子が違うことに感覚で気がついていた。腹を撫でる手がさする動きから、何かを探るような押し当てる動きに変わる。
そしてその何かが皮と内臓越しに手のひらに伝わった瞬間、クレナの全身から汗が噴き出た。
「なんじゃ……?これは……」
何度も何度も、右手でも左手でも確かめる。
気のせいではない。そう確信したときには既に、視覚からでもその異様さが目に見えていた。
クレナの腹が膨れている。
自分の腹の中で、何かが育っている。
まるで妊婦の女みたいだ。そう私が考え、もう一度まばたきをすると、また一回りほど大きくなっていた。
クレナは腹を抱えて嘔吐き、口から液体を溢れ出させた。
一度目、吐瀉物のように思われたそれはよく見ると血が混じっている。二度目に吐き出されたものは殆どが血であった。そして三度目、ついに耐えきれなくなったクレナは悲鳴を上げた。床には奇妙な肉片も血と一緒くたになり散らばっている。
何が起こっているのか。
それが分からないのは私も、クレナ自身も同じだ。
『何か』は自分達に考える暇さえ与えてはくれない。
最早腹の中だけでは収まりきらず、徐々に肺や骨、心臓すら圧迫し始める。
クレナの肋骨が砕ける音を聞いた。
せり上がる血と臓器で悲鳴とも呼べない声が響いて消えた。
それを見上げる私の目の前で赤い花火が咲いた。遅れて血と、大きな人影が降りてくる。
無意識に両手を伸ばすと導かれるように腕の中へ彼が収まった。
その寝顔をよく知っている。
同じベッドは嫌だと駄々をこねる癖に、布団を被るとすぐに寝息を立てる。地面が固い、これじゃあ疲れが取れないと言うくせに、朝は私より声が大きい。あと、たまにいびきを掻く。私はいつも呆れて、呑気なその頬に指を立てていた。
「ニック?」
呼びかけた私の声で、彼の目が薄く開く。
服をまとっていない血まみれのニックはまるで胎児のようだった。不気味な光景だったけれど、彼がまたいなくなってしまうことの方が怖くて両腕はニックを抱きかかえたまま固まっていた。
ニックは寝ぼけた目元を軽くこすると、血がべったりついた手のひらを見てしばらく静止する。やっと覚醒した頭で飛び起きた。
「うわっ!?何だこれ!!!血!?」
「貴方の血じゃないですよ」
「アオ……」
名前を呼ばれたのは久しぶりな気がする。
伸ばされた手に触れられ、顔に血がつく感触があった。気分の良いものではなかったけれど払いのける程でもない。
「顔をどうしたんだ?殴られたのか?」
「あ、忘れてました……」
「忘れてたって……、痛むか?」
「大丈夫です」
頬を撫でたとき自分の手が血で汚れていたことを思い出したらしいニックは腕で拭おうとするが、そこも血が付いている。
慌てている様子がおかしくて笑い声を漏らした私に安心して、ようやく彼は他のものに注意を向けた。
忙しない様子で視線を彼方此方に投げた後、最終的に自身に戻ってきた。そこで全裸であることに気がつき改めて悲鳴があがる。
今更前を手で隠したが既に見てしまったのであまり意味はない。
「どうなってる!?」
「ニックはさっきまで死んでいて今再生しました」
「……死んだ?でも、俺」
「不老不死になっていたのは本当だったみたいですね」
悲願であったはずの不老不死を手に入れた。しかしこの状況では受け入れ難いようで目を白黒させて絶句している。
「そっ……、何で死んだんだ……。俺が、本当に?」
「本当です。体もちゃんと再生してました。でも服までは戻らなかったんです」
なので裸なんです、と説明したところでほとんど寝起き状態の脳みそで理解できる訳もなく、案の定考えるのをひとまず中断したようだ。
速やかに解決しなければならないことから取りかからねば。
「とりあえず服をくれ!!!!」
「ええ……、後にしてくださいよ。服なんてここに落ちてないですし」
「何か……その、せめて隠せるものはないのか?」
「うーん。クレナが着てたのはビリビリに破けてますけど、一応布としては使えるかもしれません」
一時存在を忘れていた女は、床で肉片になったまま動かない。
腹を起点とした裂け目は顎まで達していた。無理やり開かれた体からは臓器や肉が溢れ出している。魚の開きみたいだ。
分かってはいたが、やはり不老でもなく不死でもなかったのだ。どこに心臓があるか一目で判断できないほど破壊されつくした躰はどれだけ時間が経とうと再生しないし、朽ちてゆくだけ。
背後に倒れる無残な姿になったクレナを示すと、あまりの惨状にニックがのけぞった。
「これ、クレナか!?」
「はい」
「し、死んでる……?何で、不老不死じゃ……」
「それ嘘だったんです」
「嘘!?どこからどこまで!!」
「ちょっと長くなりそうなのでそれは後で説明します」
破れて前開きになったワンピースを拾おうとする手を掴まれた。
これを着たくはないと、青い顔をしたニックは首を横に振る。
では服はひとまず諦めるかと問うとそれも微妙な反応だ。
考えあぐねている間に広間の外から慌ただしい足音がいくつも聞こえてきた。
数から察するに兵士達だろう。
今まで誰もいなかったのはきっとクレナが人払いをしていたからだ。
それが今になって現れるとは……。主に異変があったとき報せが回るような魔術でも仕込んでいたのか。
クレナの体に触れられなかったくらいだ。防御のためにここにいる魔法使いからあらゆる術をかけられていても不思議じゃない。
最も、中からの破壊には対処仕切れなかったようだが。
「どうしましょう。最悪攻撃されても生き返りますけど、拘束されたらまずいですよ」
「俺まだ全然頭が回ってないのに……。仕方ないな、ひとまず逃げよう」
「出口の扉が開いてないんです。あれを動かすのは自力じゃ無理です」
ニックもまた巨大な扉を見て口を噤む。
何も対応策を練られないまま、広間には次々と兵士や魔法使いがなだれ込んでくる。
しかし幸い、状況を把握できていないのは彼らも同じ、いや私達以上に訳が分からないだろ。
各々が顔を見合わせ、私達と部屋に視線を巡らせている。
今まさに彼らの主は私の後ろで干物のように床で開かれているのだが、原形をとどめていないおかげで誰一人としてそれに気がついていない。目に付くところに全裸の男がいるのも良い目くらましになっていた。
この隙をついて逃げられないだろうか。
そうニックに目配せすると、彼は私の意とは反対に立ち上がり、大きく決め息を吸う。そして裸のまま堂々と兵士達に向って声を張り上げた。
「聞いてくれ!俺はあなた方と敵対する意はない、むしろその逆だ!」
彼の言っている意味を図りかね、兵士は相変わらず困惑を浮かべる。
私ですらニックが何をしようとしているのか分からない。けれど彼はこの状況で勝算があるから行動しているのだ。
ただの人間で弱くたって、機転と生き延びる意思だけは強い。それを知っている。
「詐欺師から皆を解放するために俺はここに来たんだ!!」
「何を言っている……?」
「クレナは不老不死なんかじゃない!貴方達はずっと、彼女に騙されている!!」
兵士達が言葉を飲み込む前に、ニックは立ち上がり体を横にずらす。
自然と彼らの視線は背後にあった『それ』に向けられる。
しかし、一見してもそれが何なのか判別がつかない。仕方なく何人かが恐る恐る距離を詰め、覗き込んだ。
それは何かの肉片だ。
内側から溢れた内臓のせいで見えにくいが、形状的におそらく女。視線を徐々に頭部へ滑らせていくと見覚えのある白髪と灰色の眼球が散らばっている。
「っひい!!!!」
一人がその正体に気がつき、情けなく尻餅をついた。
それを皮切りに次々と嗚咽や困惑、中には嘔吐する者もいた。
彼らの頭に先の言葉が反芻する。
『クレナは不老不死なんかじゃない』
では我々は、今まで何を崇め仕えてきたというのか。
ただの詐欺師の女に人生の半分以上、いや、一生を捧げてきたとでも?
到底信じたくもない事実だ。
だがしかし、クレナは今目の前で肉片となっている。そしてそれが蘇る兆しもない。この光景が残酷な、自分達の現実であると突きつけられる。
不老不死の嘘が暴かれるのは簡単だ。実際に殺してみればいい。
冷たい床の上で惨めに散らばる肉片こそ、彼女の正体そのものだった。
なんてあっけない命なのだろう。クレナ、監獄の主よ。
跪き項垂れた兵士や魔法使いは誰もが失望や喪失感の中でうずくまった。
ニックは彼らを解放する、と言ったが、果たしてこれがそうと言えるのか。
皆クレナに命を使いきったのだ。今さら放り出されたところで彼らは何処へも行けない。
逃げようと、ここから出ようとした誰かによって重い扉が動き出す。けれどくぐろうとする者は足踏みをしたまま壁に手をつき涙している。
それでも、外界への扉だけは開かれた。
分厚い扉の向こうにはここに来る前と同じ空と荒野が広がる。
陽光の眩しさに視界が白む中で私の手を取る人がいた。
握り返すと更に強い力で応えてくれた。
ニックは絶望する人達に背を向け駆け出していく。
黒い監獄に捕らわれた彼らの中で私達を気にする者はいなかった。
手を繋いだまま二人きりで外へ飛び出し、当てもなく走る。
「これから、どうするんですか!?」
「分からない!!」
旅の目的地はクレナだったのだ。つまりもう、私達は終着点にたどり着いてしまった訳だ。その後のことなんて考えているはずもない。しかも荷物も馬も置いてきて、ニックに至っては未だに裸。
二人揃って完全に熱に浮かされていた。
「まあでも、これからのことは一緒に決めていけばいい」
振り返ったニックは私も同じことを思っていると信じて疑わない。
「大丈夫だよ!だって俺達は不老不死なんだろう!」
彼が眩しいのは、逆光のせいだけではない気がした。
目から涙が一粒こぼれて風に飛んでいく。「はい」と頷いて肩を並べる。
私もニックが、いつか死ぬ日が来るまで一緒にいてくれることを信じた。
握っている手もずっと離されることはない、そんな錯覚すら抱くほどに。
少しくらい空想に浸っても別に良いだろう。色々なことを想像して、話して、長い時間を埋めていきたい。
この世界にたった二人の不老不死になったのだから。
ずっと夢をみているようだった。
夢の中で彼は言った。
一緒にいる。
そうやって手を引いてくれた彼が大事だった。
じゃあ今、目の前の現実で頭を下げているこの男は一体誰なのだろう。
思い出と同じ顔、声で男は懇願した。
「人間に戻してくれ」、と。




