トゥーロン都市要塞内サント・ミュス病院
防空戦闘指揮室にドラゴン接近の警報が届いた時と同じくして、市内でも異変が起きていた。何台ものパトカーによる赤色警告灯が、サント・ミュス病院を浮かび上がらせていた。立ち入り禁止と印刷された黄色のテープが、あたり一帯を封鎖するように張り巡らされている。サント・ミュス病院内で連続殺人事件が発生し、国家警官が警戒にあたっていた。フランス共和国では一般警察業務は、都市圏は国家警察、地方部は国家憲兵隊が分担しており、トゥーロン都市要塞は警察組織が引き継がれ国家警察が担当を続けていた。
現場の国家警察の報告によると連続殺人事件は、今までになく悲惨でかつ残忍な現場となっていた。あたり一帯が血の海と化し、被害者は一様に身体の一部しか残されていなかった。すぐに安全保障軍の親衛隊により現場から締め出されたが、殺人事件であれば民事事件である。にもかかわらず、民事事件に親衛隊が出動した前例がなく、全く不可解な事件であった。自分たちのような国家警察の人間には軍の行動について何か知らされることもなく、職務として現場の周囲を規制するのが精一杯であった。
集まったやじ馬たちの喧騒と無線から絶えず入ってくる指示で、あたりは騒然としていた。連続殺人事件の犯人が未だに捕まっていないといえ、やじ馬たちは自分の好奇心を満足させることに熱中していた。だが、本当は違っていたのだ。連続殺人事件はフェアリーリングから侵入した最も厄介な敵によるものであり、安全保障軍の幹部しか知らない極秘項目の存在を一般の国家警官や市民が知るはずもなかった。それゆえに、これから起きようとしている惨劇についても想像すら及ばないことだった。
そして、惨劇の幕が開けられた。サント・ミュス病院の上の階から何かが壊れる音が聞こえ、続いて何かが落ちてきたのである。それは親衛隊用の軍服のように見えたが、軍服だけが勢いよく落ちてくるとも思えなかった。そうであるなら、人間そのものということになる。突然に半狂乱ともいえる女性の悲鳴が湧き起こった。単なる悲鳴とは違う、この世のものとは思えないような絶叫である。
やじ馬がどっと動いた。警官はやじ馬に突き飛ばされながらも、かろうじて動きを押さえた。もみくちゃにされながらも、やじ馬はそんなことにはまったくお構い無しだった。
「下がれ! 下がらんか!」
だが、銃声が響いて警官の声をかき消した。音の場所は、やはりサント・ミュス病院の上の階からである。
今度は、やじ馬がパニックになった。銃声に身の危険を感じとるやいなや、一斉に道路へ動いた。身をかがめるようにして狂人のようにわめきつつ、逃げ場を求めて押し合いへしあいながら道路へ向かった。前方にいた人がたたらを踏んでつんのめったが、後から押し合うばかりで前にいた人を踏み越えて逃げ惑った。
それでも警官は冷静に対処していた。その間中ずっと銃声は聞こえていたが、今では止んでいた。再び静けさが戻っている。
「親衛隊の連中は何をやっているのだ?」
現場を仕切っていた警部がうらめしそうにサント・ミュス病院を仰いだが、何もわかるわけがないとすぐに職務に戻った。すると、困惑顔の部下が正面に立っていた。
「さっきの落ちてきた死体が消えているのだ」
それは悪い冗談としか思えなかった。だが、それは本当だった。地面に血のりがはっきりと残されているため、ここに落下したことは明白だった。
「血が続いているな」しかし、それは引きずられたような形跡ではない。どうみても自分で歩いていったように点々を血痕が続いているのだ。「生きているようだ?」
それは弱々しい限りの言葉ではあった。それもそのはずで、あれだけの高さから落ちて自分の力で歩けるものだろうかと疑問が残っているのだ。とにかく生きているのなら、すぐにでも手当てが必要なはずである。血がしたたり落ちてできた跡をたどって、警官は負傷者を捜すことにした。
血に混ざって、ちぎれた腕が落ちていた。腕がちぎれても、なお自分の力で歩いていったというのだろうか? 憲兵隊には優秀な人材がそろっているとは聞いていたが、少なくとも常識的にありえるわけがなかった。普通の人間ならば、苦痛のあまりのたうちまわるほどに苦しむはずである。
「変だ。妙に嫌な予感がする」
いつのまにか警官の足が止まっていた。血の続く先の灯火のひとつが消えていた。正確には恐ろしい程に濃密な闇がどこからともなく湧き出てきたのである。周辺の灯火は生きているのに、その部分だけが光を吸収しているようでまったく闇の中は見えなかった。不思議なことにその闇は動いているように感じられた。パトカーのヘッド・ライトを点けてみたが明かりは闇に吸い込まれてしまうかのようで、不思議にも全然役に立たなかった。
電球が切れたのではないかと思った警官の一人が闇の中に入ってみた。すぐ目の前にいるはずなのに警官が闇の中に入った瞬間、彼の姿はまったく見えなくなった。仲間の一人が携帯ライトで照らし出そうとしたが結果は同じであった。
そして、沈黙は破られた。なにかが押しつぶされる鈍い音とともに警官の断末魔の悲鳴が聞こえた。
「おい、どうした?」
呼ばれた警官から返事はない。そのかわりに、闇の中からしゅーしゅーという耳障りな音が聞こえ始めた」
「なにかがいるぞ!」
その表現は適切だった。だが、実際に言葉が口からでることもなく沈黙のままだった。状況からして、人間ではない何かの得体の知れない生き物が闇の中に潜んでいることは明白だった。しかも、それは攻撃的な生き物であることに間違いはない。ただ、あまりにも突拍子のないことのように思えるのが問題だった。
目の前で闇が動いた。確かに動いている。闇の手前の明かりが段々と暗くなり最後には消えた。そのかわり、闇の奥側で見えなくなっていた明かりがなにもなかったように輝き出した。その輝きに、闇の中に消えていた警官が喉から血を流しながら押し潰されているのが照らし出された。
「発砲準備!」
警官の顔が急にこわばり、闇に向かってベレッタ92拳銃を構える。
「撃て!」
警部の命令が下されると、一斉にすさまじい発射音が響いた。壁に当たった9ミリ弾が火花を散らし、破壊されたガラスの破片が飛び散った。
「射撃止め!」
闇の中にいるなにものかには効果がまったくないらしく、進む速度を緩めようともしなかった。これで片づけられると考えていた警官たちは絶望を心の底から感じさせられた。闇はまだそこにあった。仲間同士で顔を見合わせ、どうすればいいのかとざわつき始めていた。
その時、闇が爆発した。少なくともそのように見えた。だが、そうではなかった。闇が四方に弾け跳んだのである。すると、人間、いやかつて人間であったものが現れた。簡単に表現するとしたら死人が立っているというのが適切であろう。全身血まみれで、憲兵隊の軍服はぼろぼろでほとんど全裸である。顔は半分以上崩れていて、もはや目と鼻が正しい位置になかった。左腕はちぎれている。とても、まともに見られるようなしろものではない。
「なにかの冗談だろ」
警官たちは本当の恐ろしさを知ることとなった。だが、それを知ったとしても誰にも警告する機会はない。彼らにもはや選択の自由はないのだ。
かつて人間であったものの本来なら背中にあたるところが破れ、何本もの仮捕捉手が伸びた。それは恐ろしい程の正確さで警官の数人を串刺しにした。
最初は、あまりのおぞましい攻撃に何が起こったのかわからなかったが、すぐに警官は反撃を開始した。かつて人間であったものの身体をベレッタ92拳銃の弾が穴をあけた。だが、ひるむ様子もなかった。それどころか、串刺しにした警官の脊髄を侵食し、操り人形のように操って攻撃の手を強めた。
既に組織だった攻撃はなくなり、警官は逃げ惑うばかりであった。操られている警官も身体がどんなに破壊されても情け容赦なく襲うのであった。ただ操られている警官は非常に動きが緩慢であることがせめてもの救いであった。次第に銃声が少なくなり、最後の一人が職務を放棄して一目散に逃げ出して勝敗が決まった。
獲物の捕獲が終わると、かつて人間であったものは仮捕捉手を戻した。仮捕捉手によって新しく寄宿した警官の身体を融合させて、新しい身体を構成させた。最初は七本の足を動かすのになれていなかったようであるが、すぐに新しい歩行方法を学習し、次第に足を器用に操るようになっていった。やがて七本となった足でも自由に動けるようになると、かつて人間であったものはさらに進み続けた。その先にはトゥーロン都市要塞内の中心部があるのだ。折しも、ドラゴンに対する空襲警報がトゥーロン都市要塞全域に鳴り始めたところだった。




