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2. 子を守る竜

 三週間前、王宮を出た日の夕方だ。


 王都の外れで、蹄の音が背中に迫った。王宮の馬が止まり、侍女が鞍から滑り降りる。頭巾の下の結い上げた栗色の髪を押さえ、小さな身体で駆け寄ってくると、侍女は弓手袋を差し出す。


「わたくしはイルメリです。お忘れの弓手袋をお持ちしました。殿下がお直しになった縫い目は、こちらです。どうぞ、お確かめください。すぐに追うよう仰せでした」


 そばかすの浮いた顔が近づき、空色のよく動く目が糸を追う。擦り切れていた革の端に、新しい糸が細かく走っていた。俺が手を通して握ると、縫い目は柔らかく曲がる。弦を引く形に、ちゃんと合う。


「ありがとう。アデリーネが道具の手入れをしてくれたんだな。もう弦に引っかからない。これなら、山で助かる」


 イルメリが薄い唇を開きかけ、俺の顔を見る。


「……糸はお切りにならないでください。お捨てにもならないでください。殿下から、お持ちになるようにと」


「切らない。すり切れたら繕う。ずっと大事に使う」


 イルメリが、暮れかけた街道の先へ目を移した。


「お気をつけて。山道は、もう暗くなりますから。足元を見てお帰りください」


「夜の山道は慣れてる。道は見失わない。心配ない。届けてくれてありがとう」


 香りの残る手袋は、土の荷紐から離してしまっておく。顔を背けられたばかりなのに、指先だけが温かい。糸の端を、革の内側へそっと収める。イルメリと別れ、夜通し小屋へ戻った。朝に食料を積み、昼には荷車を獣道(けものみち)の岩棚の下へ上げる。そこから、跡を追った。


 古い雪の端で、足跡と尾の跡が重なっている。何日も風下へ回り、松脂に混じる獣の匂いを追う。崖上の寝床の近くで、痩せた弩の男を見つけた。身なりは、雇われの冒険者だ。人の姿で眠る子が縄にかかり、その傍で、竜の母も目を閉じて眠っている。冒険者は餌を置き、低い声で笑う。


「子を縛っておけば、母が寄る。どこへも行けやしない。雇い主へ鱗を持っていくんだ。邪魔はするな」


 袋の金具に、家の印が彫ってある。母はまだ目を開けない。餌にも気づいていない。俺は男へ声をかける。


「母は寝てるぞ。子の服まで縄に巻き込んでる。誰の雇いだ?」


 冒険者が弩を持ち上げた。張り詰めた弦が、低く鳴る。


「宰相の息子だ。代金は約束されている。山の猟師に用はない。邪魔するだけなら帰れ」


 弓の弦は緩めたまま、岩に食い込んだ縄を切った。眠る子を抱えて母の前へ返すと、冒険者は弩の鏃(やじり)を母へ向ける。


「竜を相手に弓も引かないとは、腰抜けだな!」


 刃を鞘へ戻すと、眠ったままの母の鼻先が子の髪に触れる。俺は男へ顔を向けた。


「要る分だけ獲る。子を守る獣には、矢を向けない」


 母が目を開け、子を翼の下へ入れる。鏃との間へ、自分の大きな身体を置いた。土と松脂の匂いが、翼の奥から流れてくる。俺は男へ、崖際の岩を示す。


「母はもう起きてる。弦の音も聞こえてる。ここは崖際だぞ。撃てば、逃げられないのはお前だ。弩を下ろして帰ろう」


 冒険者の弩が、ゆっくり下がった。鏃が岩を向いてから、冒険者は空の縄を引く。


「それじゃ母を寄せられない! せっかく寝てるところを見つけたのに! お前が余計なことをするから!」


「子は戻した。縄も持って帰っていい。餌もしまえ。ここに置いても寄ってこないぞ。自分の飯にすればいい」


 冒険者は罠を抱え、岩の向こうへ消えた。母の翼の下で、子が目を開ける。俺の袖を引く拍子に、髪から小さな角の先がのぞく。子は縦長の瞳を俺へ向け、口を尖らせる。


「わたし、フーカ。勝手にさわらないで! 縄、嫌い! お腹もすいた! もう、嫌なことばっかり!」


「縄は外した。飯もある。そこは冷たいから、土の乾いたところで食べよう」


 食料を開くと、フーカが俺の分まで抱え込んだ。


「大きいところがいい! 小さいのだけなら怒るもん! ねえ、わたしの分もちゃんとある?」


「ある。母を待って食べよう。お前の分はそこだ。俺のまで持っていくな。ゆっくり食べろ」


「やだ! 大きいのはわたしの。小さいのも、わたしのだもん!」


「俺の飯は、見て腹をふくらませるのか?」


 湯気に鼻を寄せたフーカが、肉を腕で囲う。俺が包みに手を伸ばすと、フーカは袖まで引き寄せる。


「置いていったら怒るからね! おにくも置いてって。まだ食べ終わってない! そっち行かないで!」


「ここで一緒に食べる。もう引っ張らなくていい。戻れてよかったな。母の分は渡してくれ。お前のそばで食べてもらおう」


 フーカが、母の分だけ押し返した。竜の母は、子の後ろへ尾を回す。


「この子が寝ている間は、わたしは寝床を離れぬ。腹が減っても、先に子を見る」


 母の尾の内側へ腰を下ろした。雪の深い冬、穴の中で子を抱えたまま動かない獣を、俺は知っている。


「それ、冬の熊と同じだな」


       ◇


 寝床の傍で、飯を分けて待つ。朝は岩が冷え、昼は松脂の匂いが濃くなる。手袋の糸は、弦を引く形になじんでいった。ある朝、フーカが自分で竜の姿に戻る。全身の古い鱗が、ばらばらと岩に鳴った。


「むずむずしない! これ、もう着ないもん。ごはん係、踏むと滑るよ。転んでも知らないから!」


 竜の母が、鱗の山を俺へ寄せる。


「古い鱗は要らぬ。持っていくがいい。脱ぎ替わるまで、よく待ってくれたものだ」


 ざらつく鱗を掌に受けた。重いのに、縁は薄く、光が透ける。どれを選べばいいのか、俺には分からない。


「ありがたい。選べないから、まとめて包む。多くても、荷車なら運べる。アデリーネに見てもらおう」


 川辺で、焼き石の傍に置いた鱗に、内側から赤い枝筋が浮いた。川の冷水に浸すと、筋はすっと消える。水を切って裏返しても、もう見つからない。濡れた面を拭いていると、フーカが鼻先を寄せる。


「それも入れて。わたしが下まで持っていってあげる。落ちてるの、全部なんでしょ?」


 変わった鱗も、一緒に包む。結び目を締めるたび、新しい縫い糸と古い弓紐が手に触れる。結び目の形は、十年前に紐を分けた日のままだ。あのときは、紐だけだった。今は、アデリーネの縫った糸もここにある。今度も、ほどけないように締める。フーカは包みを咥えて崖下の岩棚へ運び、休んでは短い谷を戻ってくる。俺は谷の向こうを示す。


「この谷だけ渡りたい。上から、荷車の下りる道を見ておきたい。人も乗せられるのか?」


 フーカが翼を上げる。


「短いとこならいいよ。向こうへ行ったら戻るからね。戻ったらおにく! 褒めるだけじゃだめ!」


 母の前で、その背に乗った。荷車より一回り大きな身体に翼が広がり、谷風が鱗を鳴らす。岩棚が足の下へ遠ざかる。首をひねったフーカが、得意げに鼻を鳴らす。


「どう? こわい? ちゃんとつかまってる?」


「いや。いい風だ。山が小さく見える。お前、飛ぶのがうまいな。乗せてくれてありがとう」


「ふふん。もっと褒めて。おにくの話もして。わたし、すごいでしょ?」


 戻ると、フーカは翼を畳む。


「おにく! もう飛ばない。褒められても飛ばないもん。食べたら寝る!」


 子は食後、竜の姿のまま眠る。竜の母が、その背に鼻先を寄せた。


「長い道も荷車も任せられぬ。食事と休みが要る。眠る間は姿を替えぬ」


 荷を結んで待つ。子が起きると、竜の母は道へ顎を向けた。


「子を連れていけ。その子は、お前の飯を待っている」


 手袋を畳む間に、フーカが勢いよく立つ。


「おにくのある方なら行く! 母さん、残りは食べていいよ! わたしの分は、ちゃんとあるもん!」


       ◇


 翌朝、母に別れを告げ、岩棚の荷車へ包みを積む。母は崖上に残った。昼には小屋へ下り、夕方、王都へ発つ。人の姿のフーカが、覆いの中へ潜り込んだ。


「山の外は見たいだけ。飯でついていくんじゃないもん。おにく、忘れてないよね?」


 引き手の夜露が、手袋越しに冷たい。俺は覆いを揺らさないように、荷車を引く。


「眠っていていい。門まで運ぶ。朝の分も積んであるぞ。荷車なら、眠ってても着く」


「寝ないもん。揺れるから目をつむるだけ。……たぶん」


 逆鱗が何を指すのかも、王宮がこの荷をどう見るかも分からないまま運ぶ。それでも、荷は軽かった。夜風に寝息が混じる。


 荷車の覆いから角をのぞかせたフーカの寝顔が、車輪に合わせてゆっくり揺れる。


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