1. 荷車いっぱいの返事
春の昼、兎の包みを抱えて磨かれた床を踏んだ。靴底の泥だけが、光る床に山の色を残す。俺の足元を見た貴族が、鼻で笑う。
「猟師風情が王女に求婚?」
謁見の間は、山のどの洞穴よりも天井が高かった。恩人として俺を通した国王、王女アデリーネ、求婚候補の貴族たち。玉座の脇には宰相の影がある。案内の侍従が、音もなく滑る絹の袖で行く手を塞いだ。
「弓は門でお預かりしています。玉座の前では、その手袋も外してください」
献上の盆に、兎の毛皮の包みと弓手袋を置く。屈むと、床に、風に乱れた焦茶の髪が映った。日焼けした顔の上で、不揃いの毛先が揺れる。素直な眉を上げ、笑った貴族を見上げる。
「風情ってなんだ? 獲物か?」
貴族は袖で口を隠した。
「王女殿下のお望みなど、山の者には分かりますまい。泥を運べば喜ばれるとでもお思いですか?」
絹の擦れる音が止み、国王が玉座から身を乗り出す。
「内乱の折、この者が王女を山で匿ったのだ。その恩は忘れておらぬ。話すことを許す。イサク、今はいくつだ?」
香水の匂いが、鼻の奥に溜まる。十年前、小屋で飯を分け合ったときは、すぐ隣にアデリーネがいた。今は、俺たちの間にも磨かれた床が長く続いている。それでも、迎えに来る場所は間違えていない。俺は王女へ顔を向けた。
「十七歳だ。アデリーネ、約束どおり迎えに来た。ちゃんと覚えてる。結婚しよう」
アデリーネが華奢な背を張って振り向く。編み込んだ金の髪が肩を擦る。小さな鼻の下で、唇がきつく結ばれる。
「伝説の五宝を持ってきたら、結婚してあげる」
十年ぶりに会った王女アデリーネは、玉座の横でそう言って、ぷいと顔を背けた。
彼女の手が、盆の包みに触れる。手袋の擦り切れた指先を、そっとなぞる。手袋にはまだ、弓を握っていた形が残っている。古い弓紐へ目をやり、玉座脇の影を見てから、その手は離れていった。戻ってきた翠の澄んだ目に、俺の肩の紐が映る。
十年握ってきた結び目は、硬い。弓紐を分けたときに作った、揃いの形のまま掌に当たる。もう紐だけを見なくても、アデリーネが目の前にいる。伝説の五宝。持ってくれば、結婚する。結び目を握り直し、その二つだけを覚える。国王が候補たちへ向く。
「今、王女が出した条件は、候補全員に同じとする」
貴族たちがざわめいた。侍従が背筋を伸ばし、言い伝えにある宝の名を、覚えている順に口にする。
「お持ちいただくのは、まず竜の逆鱗です」
どこの鱗か分かれば、探す場所も決まる。俺は侍従へ顔を上げる。
「逆鱗ってなんだ? どこの鱗を持ってくればいい? 似たのを持ってきたら困るだろ?」
侍従の声が硬くなる。
「猟師にその説明まで差し上げる義理はありません。今は口を挟まず、お聞きなさい」
貴族たちの笑いが、高い天井へ抜けた。侍従は声を張って、その上へ続ける。
「火喰い鳥の尾羽、海神の真珠です」
火の山なら、小屋から煙が見える。どうやって運ぶかは、あとで考えればいい。
「火喰い鳥なら、火の山にいるって聞いた。尾羽なら拾って運べる。あの鳥の落とした羽でいいんだな?」
侍従は答えず、顎を上げた。
「月光石、氷狼王の毛皮。竜の逆鱗は一枚。それが条件です」
どれも伝説で、誰も見たことがない。
貴族が俺の空いた手を見て笑う。
「山へお帰りなさい。君には、それを運ぶ荷を用意することさえ無理でしょう。空の手を差し出されても、殿下もお困りだ」
アデリーネは、こちらを見ない。見ないまま、盆の縁を押さえている。紐を握り直し、その横顔を見る。
「わかった」
俺は頷いて、山へ帰った。
◇
三週間後、王宮の門の前には、荷車いっぱいの竜の鱗と、鱗の持ち主の子竜が並んでいる。
引き手を下ろすと、覆いの下から肉の包みが転がった。春の陽が鱗の山に当たり、門の石壁へ光の粒を散らす。山の土の匂いが、荷車の覆いから上がる。小柄なフーカがふわふわの紅い髪を覆いへ突っ込み、丸い腹を荷に押しつけて探った。
「おにく、ここに入れたもん。朝の分、まだ食べてない! ぴかぴかでも、鱗はいらないもん!」
門番が鱗の重なりを覗き込み、衛兵まで身を寄せる。門番は門内へ顎を振った。
「荷を止めろ。殿下へ報せる。このまま通したら、門が擦れるぞ」
フーカが覆いから顔だけ出し、門番を見上げる。
「止まるの? おにくは? 門の中にある? おにくまで止めるの?」
衛兵の靴音が、門の奥へ遠ざかる。山では通れた幅なのに、ここでは鱗の端が石に当たる。はみ出た端を、俺は荷の内側へ押し込んだ。
「縦にすれば入る。車輪も回るぞ。山からここまで運べたんだ。ここで動かなくなるわけない」
門内から、アデリーネが早足で来る。俺が振り返ると、門番の鎧に、俺の琥珀色のまっすぐな目が映った。細身の身体と、引き手を握って締まった腕まで見える。あの貴族も、登城の足を止めている。アデリーネは荷を見上げ、裾を揺らしたまま言う。
「……その荷は何なの? 山へ帰ったでしょう? どうして今度は、門につかえるような荷車で来るのよ?」
覆いをめくると、鱗が陽を弾いた。乾いた擦れ音が、門の下で鳴る。
「一枚でいいって言われたけど、どれが逆鱗か分からなかったから、全部もらってきた」
フーカが俺の背へよじ登る。丸い頬を寄せ、紫の縦長の瞳で王女を覗いた。服の背に翼はない。髪の間から、角の先だけが出ている。
「このひと、わたしのごはん係」
アデリーネが、鱗の山と俺の背を見比べる。顔が、みるみる赤くなった。
「な、なんで本当に持ってくるのよ!」
背中の重みを支え直す。アデリーネが、泥の靴のすぐ傍まで歩幅を詰めてくる。
「条件を果たしに来たんだ。どこが違う? 鱗は途中で落とさないようにしたぞ。運び方も決めてあったのか?」
「鱗だけでなく、その子まで連れてくるなんて! 荷に座らせるものではないわ! 落ちたらどうするのよ?」
「今は背負ってるぞ。ここなら落ちない。……アデリーネにまた会えて、嬉しい。持ってきてよかった」
彼女の手が、滑り落ちかけた鱗を押さえる。俺が笑うと、鱗の縁に置かれた手が止まった。
「勝手に喜ばないで! まだ調べていないわ、持ってきただけで結婚が決まった顔をしないで!」
「喜ぶのも、調べてからなのか?」
「そ、そうよ! 今は鱗の話をしているの! あなたが嬉しいかどうかは聞いていないわ」
背中のフーカが、俺の首に腕を回して身を乗り出す。
「このひと、あげないよ。わたしのごはん係だもん。わたしのおにく、焼いてもらうんだもん」
アデリーネがフーカを見上げ、赤い顔で声を張る。
「あ、あげないって何よ? 誰も欲しいなんて言ってないわよ!」
言い返した声が、門の石壁に跳ね返る。門番が咳払いをして、そっと目を逸らす。鎧の肩だけが少し揺れた。俺は背中のフーカを揺すり上げ、王女へ向き直る。
「調べてからか。待つぞ。鱗は勝手に動かない。邪魔なら門の脇へ寄せる?」
アデリーネは俺から目を逸らした。握った鱗だけは放さずに、覆いの中へ戻す。山の風を吸った覆いに、絹の袖が擦れる。
「……途中で荷を分けないで。私が、ちゃんと見届けるわ。鱗が揃っている方が、調べやすいでしょう?」
荷紐を引く。肩の弓紐の古い結び目に、鱗のざらつきが重なった。
「じゃあ、見ててくれ。アデリーネに渡す荷だ。全部ここにある。門へ擦らないように締め直す」
王女が門へ侍従を呼ぶ。裾が、俺の靴の泥をかすめる。
「献上の荷として、鑑定へ運びなさい。あなたもそこで待つのよ。先に帰らないで!」
「帰らない。十年かけて、ここまで来たんだ。待ってる間も、アデリーネの顔が見える」
侍従が門番へ運び先を伝える。
「鑑定室です。扉を開けてください。殿下も立ち会われますので、荷はそのままに」
貴族は荷車を見つめたまま、黙って通路の端へ寄った。俺とフーカが押す車輪は、今もちゃんと回る。軋みの先を、王女の靴音が行く。
無理難題? いや、山じゃよくある獲物なんだが。




