第1話 ノースライト・フィルム
東京都北区。王子駅から歩いて十分ほどの古いオフィスビル。その五階に、映像制作会社ノースライト・フィルムのオフィスは入っている。
大手ではないが、小さな仕事ばかりでもなかった。
テレビドラマの制作。舞台劇の収録・配信用撮影。企業CMの下請け。ミュージックビデオの編集。
ジャンルも規模もばらばらの案件が、常に同時進行している。華やかさよりも、実務。夢よりも、締切。
編集室のドアが開くたび、コーヒーと機材の熱の混じった匂いが流れ出る。廊下には撮影帰りの照明機材が無造作に立てかけられている。
映画産業は、不況ではない。むしろ市場規模は堅調だ。だがヒットの中心は、アニメ映画だった。
人気漫画原作。テレビドラマの劇場版。確実に動員を読める作品。
実写映画は、話題作と大作に予算が集中する。オリジナル企画が滑り込む隙間は、狭い。
ノースライトの会議スペースは、ガラスで仕切られた小さな部屋だ。社内ミーティングは、基本的にカジュアルである。紙コップのコーヒー。ノートPC。壁のホワイトボード。
城田紘一は、椅子の背にもたれたまま言った。
「……というわけで、実写の劇場映画を、そろそろやりたい」
軽い口調だが、その目は本気だ。
五十代なかば。社会派作品で名を上げた監督だが、ここ数年はテレビドラマの演出や配信向け作品が続いている。劇場用の長編実写映画は、しばらく撮れていない。
「アニメは強いですよ」
社長の息子の若手プロデューサーが苦笑する。
「配給もまずアニメ。実写は原作付き優先です」
「わかってる」
城田は頷く。
「だから“原作のあるもの”でいく」
ホワイトボードに、太いマーカーで書く。
『怪人二十面相』
部屋の空気が、わずかに引き締まる。
「パブリックドメインだが知名度は抜群。それを、いまの東京でやる」
鳴海泉は、対面の席で腕を組んだ。
三十二歳。ノースライト所属の脚本家。テレビドラマでは実績がある。だが、劇場映画の代表作はまだない。
「現代版、ですか」
「監視カメラ。顔認証。ディープフェイク」
城田は指を折る。
「“顔を奪う怪人”は、いまの方がリアルだ」
泉の頭の中に、映像が立ち上がる。
スマートフォンの光。入退館の顔認証ゲート。SNSに拡散される他人の顔。
「配給会社は?」
泉が問う。
「企画書を持っていく」
「決まってないんですね」
「決まってない」
城田はあっさり言う。
「だからまずプロットだ。完全な脚本じゃなくていい。企画書に載せる骨子が欲しい」
泉は小さく息を吐く。
「どの配給を想定してます?」
「東央か、光映あたりだな」
これも中堅どころ。アニメも実写も扱うが、慎重な会社だ。
「勝算は?」
「ある」
城田は一瞬、間を置く。
「キャスティングだ」
そして、言った。
「三浦なお」
カジュアルな空気が、一気にざわつく。
「ほほお?」
学習塾のPR動画をノースライト・フィルムが撮影・編集した。
「かわいいけど、本職のタレントではない中学生ですよ?」
「映画主演はまだ……」
「だからだ」
城田は言い切る。
「彼女は“旬”の一歩手前だ。今を逃せば、映画もオファーが殺到する」
泉は静かにその言葉を受け止める。
「小林少年役、ですか」
「そうだ」
「少女が少年を演じる」
「怪人は顔を変える。なら、小林もジェンダーの境界に立たせる」
その発想は、挑戦的だった。
だが同時に、理屈は通っている。
「了承は?」
「まだ」
城田は肩をすくめる。
「だが、プロットがあれば口説ける。配給も動く」
泉はホワイトボードの文字を見つめる。
怪人二十面相。現代版。三浦なお。
「テーマは?」
泉が問う。
城田は少しだけ考え、言った。
「顔だ」
「顔」
「人は何枚の顔を持ってるか。奪われるのは顔か、名前か、それとも自分か」
泉の胸の奥で、何かがわずかに震える。
会社での自分。家庭での自分。母としての顔。彼女もまた、いくつもの役割を生きている。
「……プロット、いつまでに」
「一週間で叩き台」
「早い」
「配給の企画会議に間に合わせたい」
城田はまっすぐ泉を見る。
「鳴海。完全な原稿じゃなくていい。お前の怪人を見せてくれ」
その言葉は、命令ではない。信頼に近い。小説家としてデビューした鳴海泉だったが、不安定な生活の中、ノースライト・フィルムに誘ってもらった恩義がある。
「わかりました」
社内のミーティングは、再び雑談混じりの空気に戻る。誰かが「なおちゃんが少年かあ」と笑い、誰かが「ビジュアルは強い」と呟く。
だが泉の中では、もう別の光景が動き始めていた。
夜の東京。顔を奪う怪人。そして、美しすぎる少年。
北区の空は曇り空だった。
小さな制作会社の一室で、まだ何も決まっていない映画が、静かに、しかし確かに動き始めていた。




