プロローグ1-3 ハッカーと傭兵たち
夜は、底へ沈むように深まっていた。だがスクリーンの中だけは、逆にざわめきを増していく。ログが“生き物”のように動いている。
明智は低く言った。
「……来ていますね」
アリスが応じる。
「復旧は……可能ですか?」
明智は間を置かずに答える。
「完全復旧は、今夜中には難しいでしょう」
その声音に諦めはない。
「ただし、権限の奪還は不可能ではありません。いまは、その“機”を探っています」
一拍置く。
「相手は複数で分散しています。逃げる前提の構成です。しかし――その動きには必ず癖が出る。そこを拾い、収束させる」
小林が呟く。
「……捕まえられる?」
明智はわずかに笑う。
「ええ。いずれは」
*
明智探偵事務所。
深夜の室内は、光と音だけが生きていた。モニターの白、連続するキーボード音、短い会話。その中心に座る男は、静かに画面を見つめている。
鴉。整えられた黒髪。細身の体躯に、神経質なほど端正な顔立ち。眼鏡の奥の視線は鋭いが、言葉遣いは驚くほど丁寧だった。かつては大規模侵入事件の中心にいたハッカー――明智に捕らえられ、いまはその頭脳を“使われている”側にいる。
鴉は淡々と言う。
「権限奪還は、まだ早計ですね」
榊原が応じる。
「無理、ではないんですね」
鴉は首を横に振る。
「ええ。不可能ではありません。ただ、現時点で実行すれば、相手は即座に分散を強めるでしょう。結果として、より深く潜られます」
指先は止まらない。複数のログが整然と並び、解析されていく。
「ですから、先に“構造”を把握します。人数、役割、そして――鍵を持つ個体」
真壁が問う。
「アクセスキーの所在、ですね」
鴉は頷く。
「はい。そこさえ押さえれば、奪還の成功率は跳ね上がります」
そのとき、柔らかな声が差し込んだ。
「はい、お待たせしました」
花崎まゆみだった。十四歳。明智の姪。
トレーを手に立つその姿は、場の空気からわずかに浮いている。一般の少女であるはずなのに、所作に無駄がなく、背筋は自然に伸びている。細い首筋から肩にかけての線はすっきりとしていて、顔立ちは端正。強い光を宿した目が印象的だった。
この日は高い位置で結んだポニーテール。動くたびに、輪郭がくっきりと浮かび上がる。どこか令嬢めいた雰囲気を纏いながら、その内側には遠慮のない勝気さがある。
まゆみは手際よくカップを配る。湯気とともに、落ち着いた香りが広がった。
「コーヒー、濃いめにしてあるよ。甘いものも少し」
榊原が受け取る。
「ありがとう」
すぐに画面へ戻る。
鴉もカップを手に取り、一口だけ含んだ。
「……良いですね。雑味がない」
まゆみは軽く肩をすくめる。
「集中切れたら困るでしょ」
そのまま自然にモニターへ視線を落とす。
「……あ、この端末」
指先で画面の一角を示す。
「ここだけ、ちょっと動きが遅い」
鴉の視線が動く。
「具体的には?」
「防御の更新、半拍遅れてる。誰かが後追いで触ってる感じ」
数秒の沈黙。
鴉はわずかに口元を緩めた。
「……的確です」
すぐに操作を切り替える。
*
数分後。
新たなウィンドウが開く。侵入成功。だが、鴉の表情は変わらない。
静かに呟く。
「……やはり」
榊原が問う。
「ありましたか?」
鴉は首を横に振る。
「いいえ。アクセスキーは存在しません。ここは中継用の端末です」
真壁が息を吐く。
「捨て駒……」
鴉は淡々と続ける。
「その通りです。ただし、収穫はあります。この端末、他のノードと密に接続されています。ここを起点にすれば、残りの配置が見えてくる」
*
同時刻、別の場所。
照明を落とした室内で、数名の男たちが静かに待機している。人数は少ない。だが全員が無駄のない体躯と、研ぎ澄まされた気配を持っていた。
精鋭の工作員。
机の上には簡易な装備と通信機器、そして湯気の立つコーヒー。
一人がカップを口に運ぶ。
「……明智のところからか。悪くない」
短い言葉。
誰も余計な会話はしない。ただ、待っている。目標が定まれば、即座に動く。そのためだけに。
*
事務所に戻る。
鴉は静かに言う。
「いいでしょう。全体像が見えてきました」
榊原が身を乗り出す。
「何人です?」
鴉は答える。
「最低でも三名。おそらく四」
淡々とした分析。
「役割が分かれています。回線操作、実行、監視、そして――鍵保持者」
真壁が問う。
「その“鍵”は?」
鴉はわずかに視線を細める。
「まだ特定には至っていません。しかし、動きは絞られてきています」
まゆみが小さく呟く。
「……三つ、迷ってる」
鴉が振り向く。
「迷い、ですか」
まゆみは頷く。
「うん。同時に判断遅れてるところが三つある」
数秒の沈黙。
鴉は静かに頷いた。
「興味深い観察です」
再び画面へ向き直る。
「では、その三点を軸に絞り込みましょう」
キーボードの音が加速する。
スクリーンの上で、散らばっていた点が線で結ばれ始める。逃げているはずの動きが、逆に収束していく。
鴉が言う。
「場所が割れれば、終わりです。データではなく、人間を押さえる。そのための追跡です」
榊原が頷く。
「戦闘部隊も、待ってますしね」
鴉は短く答える。
「ええ。その瞬間に、すべてが決まります」
まゆみはカップを手に、静かにスクリーンを見つめていた。
「……もうすぐだね」
その声には、不思議な確信があった。
見えない網が、静かに、しかし確実に閉じていく。
逃げ場は、もう多くは残されていなかった。




