3 大聖女と黒魔導士は伝説となる
「そんな……エリック、さま……」
彼にはずっと嫌われていると思っていた。
けれど。その冷たい顔の裏で、ほんとうはずっとエルミーユを想い続けていたとしたら──。
「エリックさま……っ」
もう届かない想いを込めてエルミーユは叫ぶ。
あのひとに。あのひとに、せめて声だけでも届けられたら。
水晶玉の景色は雪山を越えようとするエリックにもどる。
なぜ彼は危険を冒してこんな場所を登ろうとしているのだろう。そう思い、エルミーユははっと気がついた。
この先。この雪山の頂上には。
聖女が封印された闇の門があることに。
「……っ、まさか」
まさか、私に会いに────?
大鴉がにたりと笑ったようだった。
「誠に面白いな。人間というものは」
「エリックさまは──彼はいま、この山を登っているのですか?」
「そのようだな。そして、」
水晶玉に禍々しい門が映りこむ。
「たどりついたようだぞ。黒魔導士が」
吹雪がやんだ。エリックは体に積もった雪もそのままに門をじっと見上げている。
「エリックさま……」
この闇の向こうに彼がいる。そう思うと胸がはちきれそうだった。
「ごめんなさい、私……気がつかなくて」
この声が彼に届くことはないだろう。それでも、エルミーユはエリックに向けて言葉を紡ぐ。
「あなたの言葉、ちゃんと聞かなくてごめんなさい。でも……私はほんとうのことを知っていても同じようにしたと思います。私が犠牲になって世界が救えるなら、私もそれで嬉しいから。
……ここまできてくれて嬉しかったです。エリックさま、ありがとうございました」
エルミーユは深々と頭を下げる。
そして、「なにをしている?」という大鴉の声で顔をあげた。
「はい?」
「面白いのはここからだぞ」
エリックは決心したように懐から一冊の魔導書を取りだす。
そして低い声で呪文をつぶやき始めた。
調伏魔法。
悪魔を使役するための魔法を。
「これは──?」
くっ、と大鴉が笑う。
「面白い。あの男、我を従える気だぞ」
「えっ?」
「魔力を磨いたのもこのためか。ははっ、よいだろう! ちっぽけな黒魔導士よ、おまえの魔力のすべてを見せてみろ!」
大鴉はばさりと翼を広げる。
エリックは呪文を唱え続け──最後に、その名を呼んだ。
『魔王、カルダフォルノ』
『エリック・C・ルルーの名のもとに汝に命ず』
『汝が心臓に我が魔力の杭を打ち込み、我が血の鎖に縛られたまえ』
大鴉は笑った。心底おかしそうに。
「我が真名まで調べたか、この若造が──!」
魔王がそう言いはなったとき、目を開けていられないほどの光がエルミーユを覆った。
「う……、」
とっさに彼女はまぶたを閉じる。──と、だれかに抱きしめられた。
エリックだった。
「エリック、さま……?」
「……エル。エルミーユ。本物なのか」
「あ……」
エルミーユはぱちぱちと瞬きをする。
そこは闇の中ではなく、門の外だった。
エルミーユは微笑む。
「……はい。本物、みたいです」
「なら『みたい』なんてつけるな」
「ふふっ……、ほんとですね」
エルミーユはエリックの胸に自分の身を預ける。
黒い外套の下の体はたくましかった。この空白の間に鍛えたのか、それとも昔からそうだったのかはわからない。
「遅くなったが、おまえを救いにきた」
「はい──」
思わずにじんだ涙をぬぐってから、「あれ、でも」とエルミーユは言う。
「だいじょうぶなんでしょうか。私が、あの、封印じゃなくなったら」
「──まあ。門は開いたが、魔王はもう俺のものだ」
エリックは魔導書を見せる。「その点に関しては心配しなくていい。……ただ、」
そのとき、地響きのような音をエルミーユの耳が捕らえた。音の出どころを探し、どうやら門の向こうから響いてきているようだと気づく。
魔界に続く門が、
人の血に飢えた魔獣たちが棲む世界に続く門が、
開こうとしている。
「門が開けば、ま、そりゃ魔獣たちもでてくるだろうな」
「な──なんとかならないのですか?」
「べつにいいだろう。魔王を従えた俺と、ついでにおまえに牙を剥くやつなんていない。それにここにいる魔獣たちは魔王を除いてほとんどが下級だった。腕に覚えのあるやつなら問題なく倒せるはずだ」
もっとも、とエリックはつけくわえる。
「鍛錬をさぼっていたやつらがどうなるか……俺の知ったことじゃないが」
大聖女が黒魔導士に救出されたことによって門の封印が解けた、その後。
魔獣たちはいままで通り草原や村の外をうろつくようになった。
かつて世界を救った勇者たちは当然、活躍を期待されたが──。
あっけなく撃退されて大聖女とそれを救った伝説の黒魔導士のもとに泣きながら逃げこんできたが、それはまたべつの話。
【完】