いいところだったのに
潮が満ちるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
つまり、潮が引くまではもっと時間がかかるということだ。
僕はふと、傍らのエルヴィラを見つめた。エルヴィラが、「何だ?」言いたげな顔できょとんと僕を見返す。
――そうだ。いい暇つぶしがあるじゃないか。
「暇つぶしでも、しようか」
「暇つぶし?」
「そう、大人の暇つぶし」
首を傾げるエルヴィラを抱き竦めて耳元で囁いた。
意味を理解して、たちまち真っ赤になったエルヴィラは、目を丸くして「え」と声を発したまま、固まったように動かなくなる。
ぱくぱく口を開け閉めしながら視線を彷徨わせ……あうあうと言葉にならない声を発したあと、急にぐるりと身体の向きを変えて僕に抱き着いた。
「する! 暇つぶしする!」
「ちょ、苦しい。あと、ただの暇つぶしだからね」
「いい。暇つぶしでいい」
ぎゅうぎゅう締め付けながら、エルヴィラは何度も頷く。本当にわかっているのか、不安になる勢いで。
「あくまでも暇つぶしだよ。勘違いしないで」
「暇つぶしでいい。ミケとなら、暇つぶしで構わない」
何だそれ。
僕は抱き着いて顔を埋めたエルヴィラを、つい凝視してしまう。
「君、安い女だって言われるよ」
「ミケ相手なら、安くていい」
「ずいぶんちょろくない?」
「ちょろくていい」
腕の締め付けは相変わらずだ。むしろさらに強まってるかもしれない。
このまま僕の背骨をへし折りたいとでも思っているのか……なんて考えてしまうほど、ぎゅうぎゅうに力を込めている。
しばらくようすを眺めているうちに、だんだんと笑えてしまった。ずいぶんと必死なんだなと。親鳥から離れまいと必死についてくる雛鳥、といったところか。
「じゃ、遠慮せず」
そう、エルヴィラの耳元で囁き、腕が緩んだ隙を狙ってひょいと抱き上げて、キスをした。真っ赤に染まった顔には、うれしそうに蕩けた笑みが浮かぶ。
これがあの、僕の腹に拳を叩き込んだ乱暴者かと思うと、非常に感慨深くはある。ずいぶんと変わったものだ。
ベッドに腰を下ろし、エルヴィラを膝に乗せたままキスをする。しっかりと目をつぶったエルヴィラが、僕に応えて口を開く。
背を撫でただけで身体がびくりと跳ねた。
筋肉しか詰まっていない脳味噌に比べたら、エルヴィラの身体は極上だ。少々筋肉がつきすぎるくらいではあるけれど、脂肪もちょうどいいくらいに乗っているから固すぎるなんてことはない。胸だって、片手には余るくらいたっぷりと肉がついて柔らかだし……
と、いきなりガンガンとうるさく鐘が鳴り響いた。危険を知らせる半鐘の音だ。
「な、何……」
“いちゃいちゃ”の余韻でぼんやりとしたまま、エルヴィラが呟く。
それでも、この鐘の音が尋常ではないと感じたのか、窓へと視線を向けて、軽く目を眇めた。
「さあ?」
僕も窓をちらりと見やる。
たぶん魚人の襲来だろう。今日みたいな高潮の日に、よくあることだ。
大抵は町の奥深くまで入り込む前に撃退されて終わるものだ。
けれど、さっきまでうっとりと僕に集中していたはずのエルヴィラは、すっかり気もそぞろだ。どうにも半鐘の音が気になってしかたないらしい。
そのうち、誰かの怒鳴る声までが聞こえてきた。
エルヴィラは僕にキスをされながら、迷うように視線を動かしている。
「魚人だ! 魚人の襲撃だ! 」
今度こそはっきりとそう聞こえて、エルヴィラははっきりと目を見開いた。
僕を押しのけるように窓を振り返って、いつもの口調で「なんだと」と呟く。
「魚人だってさ。どうする?」
「どうする、って」
僕が尋ねると、エルヴィラは不思議そうに首を傾げた。
「このまま“いちゃいちゃ”を続けるか、それとも打って出るかだよ」
「いちゃいちゃしたい……でも、打って……打って……」
エルヴィラは真剣に悩んでいるようだった。
いったい何と何を比べているのか……つい笑ってしまう僕を潤んだ目で見上げたエルヴィラの眉間に、皺が寄る。
「いちゃいちゃした……でも、でも、集中できないんだ……でも、いちゃいちゃを辞めるのは……せっかく、ミケと暇つぶしなのに……」
うっ、と声を詰まらせて、エルヴィラの目から涙がこぼれ落ちた。
「集中、できないんだ。ミケと暇つぶしなのに、せっかくミケがいちゃいちゃする気になってくれたのに、集中できない……うっ、集中、できないんだ……」
ぼろぼろ涙を流しながらそんなことを言い出すエルヴィラに、僕はぶはっと噴き出してしまった。
どのあたりに泣くほどのことがあったのか。
「うっ……笑いごとじゃ、ない」
目を潤ませながら僕を睨み付けて、エルヴィラは眉根を寄せる。
「ミケといちゃいちゃしたいのに、気になって……」
「じゃ、やめとく?」
「う……だって、せっかく、ミケが誘ってくれたのに……」
窓と僕の顔を交互に見詰めながら、うっうっと涙を流してエルヴィラは本気で悩んでいた。いったい何を天秤に掛けているのか。
まったくもって、馬鹿じゃないのか。
普通の女なら、そこは悩むところじゃないだろうに。
いつもは簡単に流されるくせに、こういう時ばかり流されないのは、さすが騎士と言うべきか。
おかしくて、僕は肩を震わせて笑ってしまった。笑いながらエルヴィラの身体を持ち上げて、床に立たせる。
「仕方ないから行っておいでよ。気になるんだろう?」
「えっ、でも、でも、ミケが誘ってくれたのに……」
やっぱり泣き続けるエルヴィラは、おもしろい顔をしている。それほど離れたくないくせに、そんなに気になるものなのか。
半分呆れながら、僕はじっと見つめるエルヴィラの頬にキスをした。
「終わってから、また続きをすればいいじゃないか」
「――なんだと!? ほんとうに、続きをするのか!?」
エルヴィラの目がまん丸に見開かれる。
そんなこと、考えても見なかったという顔だ。
「ほんとうだよ。戻ってきたら続きをしよう。だから行っておいで」
たちまちエルヴィラが輝くように笑った。満面の笑顔で思い切り頷いて、窓の外に向かって鼓舞しを振り上げる。
「魚人なんてとっととやっつけて、急いで戻ってくる!
――くくく、魚人どもめ、おとなしく深海の暗闇に引っ込んでればいいものを。このエルヴィラ・カーリスの目の前で暴れたのが貴様らの運の尽きだと思い知るがいい!」
「そういうのどうでもいいから、早く服を着なよ」
「なんだと! こういうのは最初が肝心なんだ!」
「はいはい」
エルヴィラは渡した服を着てすばやく鎧を身につけると、すらりと抜いた大剣を掲げて高笑いを始めた。
「あ、ちょっと待った」
「なんだ?」
ふと思い出して、僕はそばに置いてあった鞄を引き寄せる。中を探るとすぐ目当てのものを見つけて、エルヴィラを呼んだ。
「こっち来て……少しちくっとするけど、我慢して」
がしゃがしゃと鎧を鳴らして寄ってきたエルヴィラの頭を、抱えるように引き寄せる。見つけたものは小さな真珠のついたピアスだ。ただのピアスではなく、立派な魔道具でもある。
「“水妖の涙”だよ。付けてると水の中で呼吸はもちろん、水圧だって気にせず動けるようになる。
そうは言っても鎧を着けたら沈むことには変わりないから、ここを出るときに“飛空”の魔法薬を飲むのを忘れないで。水の中で飛ぶんだよ」
「わかった。ミケは?」
「僕も“飛空”の魔法薬は飲むよ。けど、さすがに“水妖の涙”はそれだけなんだ。君が水の中に入ったら歌は届かないから。十分気をつけて」
「わかった、任せろ! ミケも気をつけるんだぞ」
エルヴィラは耳に付けたばかりの“水妖の涙”にそっと触れると、窓の外へと飛び出した。
「あ、ちょっと!」
ふはははは、という高笑いが尾を引いて遠ざかっていく。
エルヴィラは、今日も絶好調だ。
慌てて身繕いをして外へ出ると、高く飛び上がったエルヴィラがきょろきょろと周りを見回していた。
僕もその横にならんで、目を凝らす。
「ああ、やっぱり海側が大変みたいだね」
「なんだと!」
やっぱり、騒ぎの大きい場所を探していたらしい。エルヴィラは目を輝かせて僕の指さす方向を見やった。
「よし、あっちだな」
「たぶん、今回も率いてるやつがいると思うよ。そいつを叩けば、すぐ引いていくんじゃないかな」
「そうなのか?」
すぐにでも飛んでいこうとするエルヴィラにそう言うと、「ん?」と留まった。今度は、話を聞く気になったらしい。
「率いてるやつが魚人とは限らないんだ。あいつら、深海の勢力としては大きいから、他の種族と手を組んだりすることが多いしね」
「わかった」
エルヴィラが、戦いの激しくなっている海上目指して飛ぶ。僕もすぐにその後を追った。追いながら、どんな魔法が必要かと考える。
「いくら魔道具があるからって、うかつに水に入るなよ!」
「わかった!」
脇目も振らず突進するエルヴィラには、正直不安しかない。けれど、戦いに関しては侮れない勘を持っているし、今回も、本当に危険なことにはならないだろう……たぶん、ならないと思いたい。





