どうしてこうなるんだ
ひとしきり食べ歩き、腹もくちくなったところで部屋に戻り、今度はのんびりだらりと過ごした。気の赴くままにリュートを鳴らしたり、思いついた言葉を羊皮紙に書き散らしたりと、エルヴィラが来る以前のようにしながら。
――なのに、急に、ばたんと大きな音を立てて扉が開いた。
あれ? と顔を上げると、エルヴィラが控えの間へ駆け込むところだった。
「ちょ、どうしたのさ」
帰ったという言葉もなく、ただならないようすに少し慌てて、僕は後を追う。
まさか帰ってくるなんて思わなかった。失敗したということなのか。
確かめたほうがよさそうだ。
控えの間の扉を開けると、狭く暗い部屋の中に、エルヴィラがじっと俯いたまま佇んでいた。
そっと入って手近な蝋燭に火を灯す。小さな灯りが揺らめきながら、部屋の中をほんのりと照らし出す。
灯りの陰になったせいか、それとも今日あったことのせいなのか……エルヴィラの顔色はひどかった。どことなく思い詰めてもいるようだ。いったい何があったらあのエルヴィラがこんな顔をするのだろうか。
僕が一歩進んでもエルヴィラは俯いたままで、その視線の先を辿ると……。
「へえ、使わなかったんだ?」
ベッドサイドの小さなテーブルに、あの小瓶が置かれていた、中にはほんのりと薔薇色を帯びた液体が揺れている。
俯いたまま、エルヴィラは小さく頷いた。
「使えなかった」
「どうして?」
「私のは、違うからって、言われた」
「ふうん?」
涙を払うように瞬くエルヴィラの横顔をまじまじと見つめて、僕は小さく首を傾げる。違うとはいったい何のことなのか。あの短い時間で、サイラスと何があって何を言われたのか。
ただ、何があったにしてもこのようすなら……。
「諦めるんだ?」
「う……、諦め……うっ」
ぐっと握り込んだ拳が、微かに震えている。
がさつで残念な脳筋だし、変に浮かれた勢いだけで舞い上がって迫ったのだとばかり思っていたけれど、実はエルヴィラもエルヴィラなりに真剣だったのだろうか。
それなら仕方ない、少しくらい慰めてやってもいいだろう。
僕は微笑みを浮かべ、それから、こういう時に掛けるべき言葉をいくつか思い浮かべ、どれが今のエルヴィラに相応しいだろうかと考えて……。
「エルヴィラ」
「う……私のは、本物じゃないって、本物の恋じゃないって言うんだ。じゃ、何が、どんなのが本物だって言うんだ!」
「え? 本物?」
「もう、もう……わかんないっ!」
本物って何のことだ。
想定外の言葉に唖然とする僕の目の前で、エルヴィラはいきなり卓上の小瓶を掴み上げた。いやな予感が頭を過る。
「なっ、エルヴィラ、何を――」
エルヴィラが乱暴に蓋を開けた。瓶から、薔薇のような甘い香りが漂い出す。
「――する気だ!?」
反射的に叩き落そうと伸ばした僕の手は、瓶に届かなかった。
目の前でエルヴィラが瓶をかかげて、ひと息に中身をあおる。
「ちょ、ちょ、待て……」
まさか、まさか、自分で“惚れ薬”を飲む馬鹿が存在するなんて思わなかった。
一瞬呆然としたその隙に、エルヴィラがゆっくりこちらを振り返る。
「うわ、馬鹿こっち見るな!」
慌てて身を翻そうとしたが遅かった。背を向けるより一瞬早く、エルヴィラとしっかり目が合ってしまった。
「あ……」
大きく目を見開いたエルヴィラが、たちまち顔を真っ赤に染めて震え出す。
僕は言葉もなく、ただ立ち尽くす。
まさかこんなことになるんて。
薬に頼ろうと、あんなものを用意した僕の自業自得なのか。
この場をどうやって逃れようか。
それだけを考えて、今すぐ自分に使える魔術を頭の中に並べて、このままエルヴィラに襲われたら、僕はまずどうすべきかと考えた。
力では敵わない。僕の魔術でなんとかできるだろうか。
だが、エルヴィラは、なぜかそのまま僕を無視して乱暴に扉を開け放ち、外へと走り去ってしまった。
「……え?」
開けっ放しの扉が揺れて、ギイギイと音を立てる。
振られたショックで逆ギレ……ということで、いいのだろうか。
「なんだそれ」
脳筋娘の考えていることがさっぱりわからない。
追いかける気にもならず、僕はそのまま部屋で呆然と座り込む。
結局、まんじりともできずに朝を迎えるころになってようやく、飛び出したエルヴィラが帰ってきた。
昨日、サイラスとの間に何があったのか。
――いったい何をどう考えたら、“惚れ薬”を自分で飲み干そうなどという発想が生まれるのか。
エルヴィラの考えたことが、さっぱり理解できない。
口走った断片から察するに、初心いことを見抜かれた挙句、君はまだ本当の恋を知らないから間違えてるんだよとでも言われたのだろう。
けれど……それは、普通に考えれば、自分が悪者になりたくない男が吐く常套句ではないか。そんなしょうもない言葉を、エルヴィラを振るためだけに聖騎士が言ったのか。言われたからって真に受けるのか。
ああいや、どんな男も逃げ口上は口にするし、エルヴィラなら真に受けそうだな、と僕は溜息を吐く。
面倒くさい脳筋女に面倒くさい地雷男の組み合わせなんて最悪だ。
もういい加減、この辺りで解放してくれないだろうか。面倒臭い。
「3ヶ月ってところだね。君の魔法耐性を考えると」
「3ヶ月……」
「だから、“解呪”に行くよ。太陽神教会の教会長ならできるだろうし」
寝不足とイライラで気分が悪い。
もちろん、薬の効果なんて“解呪”してもらうつもりだ。この町には、それが可能な高神官がいて、伝手だってあるのだ。
エルヴィラも、どこでどうしていたのかは知らないが、目の下にくっきり隈を浮かべている。きっと寝ていないんだろう。このようすなら、一晩中、町の中でも歩いていたのか
「嫌だ」
「なんでだよ」
「絶対嫌だ」
「だからなんでだ。理由くらい言え」
「そんなの……とにかく、解呪なんて嫌なんだ」
話にならない。何かとにかくなのだ。意味もわからない。
僕のイライラは最高潮に達している。
「あのさあ。君、あと3ヶ月このままでいるつもり? 頭おかしいの?」
「だって、嫌なんだ」
エルヴィラは目をぎゅうっと瞑り、断固拒否の姿勢を崩さない。
「じゃあ3ヶ月どうするつもりなんだよ。僕にその気なんてまったくないし、据え膳どころか迷惑なだけだ。君だって、今、自分はただ薬の影響で変な反応してるだけだってわかってるんだろう?」
「わかってる……でも、やだ」
埒があかない。
「嫌だじゃないよ、いい加減にしろ」
「でも、嫌なんだ」
その後も、“解呪”をするしないの押し問答は太陽が高くなるまで続いたけれど、結局エルヴィラは折れなかった。エルヴィラは頑なに嫌だと繰り返し、僕の言葉を突っぱねる。
“惚れ薬”のせいで僕に魅了されているはずじゃなかったのか。
なぜ僕の言葉に従わない。
僕は仕方なく、譲歩案を出すことにした。
「君が今感じてるものは、すべて薬のせいだというのはわかっているよね」
「う」
「だから、3ヶ月は我慢してやる。君が薬の影響にあると自覚して行動する限りだ」
「ああ」
「だけど3ヶ月を過ぎてもこのままだったら、僕は本気で姿を消す」
エルヴィラがぱっと顔を上げる。その驚く顔に呆れて、僕の顔に嘲笑が浮かぶ。
「正直言えば、今すぐここから消えたいくらいなんだよ。だけど、ああいう劇薬をうかつに君に渡してしまった責任はあるから、効果が消えるまで我慢してやろうって言うんだ」
不機嫌を隠す気にもならない。眉間にくっきりと縦線を刻んで、僕ははっきりとエルヴィラに告げる。
「だから、僕にこれ以上の譲歩をするつもりはない。嫌なら今すぐ教会に行って“解呪”するしかないよ」
エルヴィラは、またしょんぼりと項垂れ、頷いた。
こいつのこの顔。
僕にこんなことを言われて、傷ついたという顔だ。
その気持ちもすべて薬のせいだということを、本当にわかっているのか。
だいたい、何が絶対嫌なんだ。
あからさまに落ち込んでいるようだが、ほんとうに落ち込みたいのはこっちのほうだとわからないのか。
溜息しか出ない。
「それにしても、君って本当に馬鹿だろう? 振られてヤケになったからって、自分から“惚れ薬”飲む馬鹿なんて初めてみたよ。物語の中にも聞いたことないね」
相手のあてもなく自ら飲み干すなんて、こいつくらいじゃないのか。
だからって、どうして僕なんだ。
ほんとうに頭がおかしい。
「それに、なんで僕が相手なのさ。もっと他にいるだろう? なんでよりによって僕なんだよ、面倒臭い」
“惚れ薬”とは、本来、自分を好きになってほしい相手に、気づかれないようこっそりと飲ませるものだ。それを自分が飲むなんて、どうでもいい政略結婚の相手をどうにか好きになりたいというケースくらいしか思いつかない。
事故でもないのに、わかっていながら自ら飲んでどうでもいい相手を見るなんて、聞いたことがない。
「これまでも散々、君には迷惑してきてるんだよ。
たしかに、最初の最初は僕の判断ミスだったかもしれない。けど、それでここまで引っ張る羽目になるなんて、いい加減おかしいと思わないか?」
「ん……と、その……」
弁解でもしようというのか。
口を開くエルヴィラを一瞥して、僕はぴしゃりと言い放つ。
「言い訳なんていらないよ。腹立たしさが増すだけだ。何も言わなくていい」
エルヴィラは身体を竦め、どうすればいいかわからないというように視線を彷徨わせ……おずおずと口を開く。
「でも、やっぱり、解呪は嫌なんだ」
「だからもう、それはわかった」
顔も見ずに返すと、エルヴィラはとうとう控えの間に引っ込んでしまった。昨日の出掛ける前の元気は、いったいどこへ消えたのか。まるで別人のようだ。
ああ、イライラする。
僕も自分のベッドに潜り込んだ。
結局、昨夜は一睡もしていないのだ。