男爵令息として③
『ショウも頑張って体を鍛えてもっと強くならないと』
『体を鍛えて』
『もっと強くならないと』
その言葉は重くのしかかり、胸に突き刺さった。
何でもない言葉だったかもしれない。
あの義姉さまが、いじわるで言うわけがない。
僕のことを思って、あえて、そう厳しく。
だって、あんなにやさしくて、天使のように輝いて、そんな、ありえない。
ありえない、ありえない、ちがう、そんなこと、ちがうんだ。
ぐらりとまた世界が回った。
色があったはずの世界が、急に、何もかも消えて、褪せていく。
夏の始まりは、鮮やかな色を急速に失った。
夏の始まりは、まるで季節が逆転したように心を凍えさせた。
心のままに、感じたままに生きる事の素晴らしさを教えてくれた義姉さま。
けれど、その言葉は、ナイフよりも鋭く、岩よりも重い『なにか』となり心を傷つけた。
今まで何をするのも楽しくて、世界はあんなに鮮やかだったのに。
どうしてか、何も輝かなくなった。急に褪せたその世界は退屈だった。まるで、ほんの少し前に感じたあの窮屈な世界を思い出す。自分が、やっぱり何もない。
なにも、なにも、なにも持っていない。
でも、もっと前は、楽しかったのに。何故だろう。
あんなに苦しかったのに、ずっと何もできなかったのに。
どうして。
〇〇〇
「この度はお忙しい所、時間を作ってくださりありがとうございます」
「……こちらこそ」
ほんの少しの間であるはずなのに、どうしてかとても久しぶりに感じた。
寝ていなくてもよくなって、それから、どれだけ会っていないだろうか。同じ学び舎にいても、突き放し、会話をしようともせず、どんどんそんな機会は減り、いや減らしたんだ。自分が、もっと、義姉との時間を作るために。ただ幼いころから一緒で、縁があっただけの少女と、精霊に愛され、その力を惜しむことなく使い、病を消し去った女神。世界に色をくれた、女神。
心のままに振る舞うことを美しいと言ってくれた女神の手を取った。取り続けた。
ただ縁があって、共に時間を過ごしただけ。
勉強はしているが、それでも心のままに振る舞う義姉は違って見えた。
どんな小さなことも、喜んだり、悲しんだり、大げさな感情が輝いて見えた。
今、目の前にいるのは、しゃんと背筋を伸ばし、美しい所作を身に着けた令嬢。まだ少し、沈黙が続く部屋に落ち着かないのか、緊張しているのが少しわかるけれど、それは、やっぱり令嬢として研鑽を続けた証のように見えた。やはり違う。違って見える。違って見えてきた。
どうしてだろう、なぜ、こんなにも、落ち着くのだろうか。
どうしてだろう。暖かで、こんなにも心地いいのは、いつ振りだろうか。
夜空の様な黒い髪に、月のような柔らかな輝きを放つ黄色の瞳。
美しい色。
見守られるような、暗い色なのに、暖かで優しい瞳。
夜空を彩る『星』が煌めくのは美しい帳があるからこそ。
そんな髪に輝くのは、見覚えのある髪飾り。
沢山の星々が輝く空のような、砕かれた小さな石たちが散りばめられた髪飾り。
その髪飾りの光は、控えめだが彼女であるからこそ引き出せる輝きだった。
まるで心が洗われるような、そんな美しい光。
「ショ……ガロイジュ男爵令息、本日はお時間を作って頂いてありがとうございます。
……今日、こちらへ参りましたのは、私たちの今後について、の事です。
私たちの間に結ばれていたのは、半ば口約束の様な婚約。
互いの領の利益にもつながる、政略と変わらない婚約です」
自分が、そう願った呼び方なのに、心にぐさりと突き刺さる。
自分が、そう言った。
つまらない婚約だとも、言ったのに。なんて、勝手なんだろう。
自分は、こんなにも愚かであったのだろうか。
〇〇〇
「これからはガロイジュ男爵令息とお呼びください」
「え……」
午前だけ開かれた学び舎の一角で、冷たい声が響いた。
冷たい声、冷たい瞳、冷たい態度。
何もかもが『お前になど関心はない』と察されるそんな酷い言動だった。
「そんな、いきなり、どうしてですか。
……ガロイジュ男爵令息とわたくしは、幼いころから、ともに……」
うるんだ瞳で、悲しみを訴えるその姿にショウは酷く苛立ちを覚えた。共にいるから、幼いころから、という時間だけで、自分の特別を当然のように思っているそんな態度が気に入らなかった。運命は、本当の愛とは、ある日突然訪れると知っているショウは、ただ同じ時間を過ごしただけでそれが当たり前だと思う目の前の少女がひどく傲慢に映った。
苦しんだ時間は共にいなかったというのに。
自分が縋りたいとき、不安でたまらないとき、彼女はいなかった。
苦しみも、不安も、なにも知らないのに。
「私には、愛する人がいる。ただ、ほんの少し知り合うのが早かったあなたとは
親同士が決めた政略、互いの領の為だ。
もしくは、何の力もない大人たちが勝手に言っているだけの口約束のようなもの。
そんなあなたの名を呼ぶことで、愛する人を悲しませたくありません。
そして、その逆もです。あなたから名前を呼ばれることで悲しんでほしくない。
ヤアメ子爵令嬢、これからは適切な距離をご理解頂きたい」
「……っ」
はらり、涙が落ちる。
しかし、その雫にショウは、なにも思わなかった。
愛するあの人は、どんなにつらい目に遭っても涙なんて零していないのに。
なんて弱い人なんだろう。
関心もなにもない、つまらなそうなその瞳がキツバの心を引き裂いた。
「まあ! なんて恥知らずなのっ!
婚約者に酷い態度をとって、泣かして、
よくもそんな平気な顔を晒していられるわねっ、ガロイジュ男爵令息!
そのような不誠実な態度で、わたくしの親友を傷つけないで頂きたいわ!」
うるさいを通り越して耳障りな非難の声。
そこには少し苦手意識のある令嬢が非難の声を上げていた。
令嬢らしくないその態度だが、周りは誰も彼女の言動を咎めることはない。むしろこちらを、自分をにらみ、頷くばかり。ショウは少し困惑した。ほんの少し前ならば、逆であったはずなのに。どうして、そんな疑問しか浮かばない。
ほろほろと涙を流すキツバをかばう様に前にたち、猫のような釣り目を更に吊り上げて睨む。
「婚約者に、愛する人を悲しませたくないから名を呼ぶなとは何ですかっ。
堂々と不貞をしていると言って恥ずかしくないのかしら!
キツバはあなたの為に、隣国にも足を延ばして、薬草などを集めていたのよ!
体によさそうなものを、あなたの為に!
なのに、あなたは感謝もせずに、病が治った途端に人が変わったように
義姉として迎えた子爵家の娘と日々遊んでいると、噂になっているのを知らないの!?
世の中ではそんな不誠実な態度を不貞と言うと、シアン様が仰っておられたわ!
何が愛する人よ! その方はただの恩人で義理の姉で、家族なんでしょう!?
家族への愛と、命を救われた恩を『愛』だなんて気持ちの悪い勘違いをせず、
貴族としての責務を果たすべきでしょう!?
それが嫌で『愛』に生きたいというなら、キツバに言うのではなく、
自分の親に、男爵と子爵に伝えるべき事よ!」
はあはあ、と息切れするほどの勢いで怒りをぶつけてくる令嬢。
やっぱり苦手だ。
義姉とはちがう派手な桃色と強い緑の瞳。
派手な大きなリボンの二つ結びの主張も強いし、感情をそのままぶつけてくる。
けれど、彼女はもう以前の様な我儘で勝手な印象は少ない。以前よりは。
むしろ、彼女の言う通り。
親の口約束で、ただ知り合う時間が早かっただけの政略の婚約。
『愛』を知った自分には、不要なものだ。
男爵領のためにならば、どこにでもいる普通の令嬢よりも、おとぎ話の奇跡を起こした特別な才能を持った義姉との方が男爵領の利益になる。
それはきっと父だって、男爵だってきっと理解してくれる。
義姉に迎えたのは父だ。
きっとそれは、こういうことを分かっての事だったのだろう。
普通、なんの関係もない令嬢を養女と迎えるはずがない。
きっと、そうなんだ。
「ああ、そうですね。そうでした。
ハイド子爵令嬢、あなたの言う通りだ。
ならば私は愛する義姉の為、父に相談させて頂きます。
こんなつまらない婚約を互いの為にも早く終わらせましょう。
次に会うときには、学園の入学時かもしれません。
今後、こちらで会うことはないでしょう。それでは、失礼いたします」
「なっ、お待ちなさい! ちょっと、待ちなさいって言っているでしょうっ」
さっさっとこんなくだらない場所から去らなければ。
なあんだ。
簡単な事だった。
さっさっとそうすれば、良かった。
はやく、この婚約を終わらせて、幸せにしなければ。
はやく、この婚約を、はじめなければ。
幸せに、なるために。




