生きてる?
無事に研究室にたどり着いた俺たちは、大した移動距離でもなかったのに、途中の出来事のせいかぐったり疲れていた。
パソコンを起ち上げる前にお茶でも飲んで一息入れよう。
俺の左手は葵に手当てされ、丁寧に包帯を巻かれてしまった。でも、もう文句は言わず、ありがたく巻かれておこう。
「あいつら、ここにも来るかしら?」
ぼさぼさ髪が直った葵が心配そうに言う。
昨日陽奈がコンビニから持って来たコスメ用品を二人でシェアしたようで、髪も整えメイクもきちんとし直して美人度がまた一段上がっているが、その表情は冴えない。
「そうだな、連中は明らかに生存者を探し出して抹殺しようとしていた。おそらく今も大学の建物をしらみつぶしに探し回ってるだろうし、いずれここにも来るだろうな」
「この建物って、逃げ出せるような出口はあるの?」
「通路の端まで行って非常口を出れば外に非常階段があると思うが、俺がハンターなら、間違いなくそっちにもメンバーを配置して待ち伏せするな」
「まあ、そうするわよね」
「建物内でどこかに隠れるという手もあるだろうがリスクが高い。だから連中がこの建物に到着する前には逃げておかないといけないな」
「いつ頃来るかしら?」
「大学構内は広いし、捜索すべき建物はいっぱいあるし、ゾンビもウロウロしてるし……まあ、そんなにすぐには来ないだろうが、奴らも素人じゃあるまい。二三日中には来るだろうな」
「あなたはいつまで動けるの? 確か、ゾンビが動けるのは長くて1週間ぐらいって、あなた自身が言ってたけど」
「正確には分からんが、マウスの結果から推測すると、まあそんなもんだろう」
「じゃあ、私はあなたが動けなくなるまでは一緒にいるわ」
「いや、だめだろ。そんな危険なことさせられん」
「危険なことはさせられんって、どの口で言ってるの?」
そう言われると俺は反論できない。葵をこんな事態に巻き込んだのは間違いなく俺だ。
「いや、すまん……でも今、俺が言ってるのは」
「私も、別に帰りたい所もないし、壁に近づくのが危ないなら、お二人と一緒にいたいです」
そこに陽奈も加わってくる。
いやしかし、よく考えると、こんな美脚美女二人としばしのスローライフなんて願ってもないことだ。
活動限界が来て動けなくなる最期の瞬間は、二人に片一方ずつ膝枕をしてもらいながら迎えたい。
いや、だめだ、だめだ。
「俺も、君達のような脚の……あ、いや、美女二人とこのままここでのんびりできるなら嬉しいんだが、今も言ってた『生存者狩り』の連中に加えてもう一つ、それを許してくれない存在がいる」
一拍おいて俺は続ける。
「それは俺自身だ。今も俺の体内では細胞同士が共食いしながらどんどん数を減らして行っている。それは脳の神経細胞も例外じゃない。俺がこうしてしゃべってられるのも、そう長くないかもしれん」
「あとどれぐらいの期間、理性を保ってられそうなの?」
「それは……さっぱり分からん。本来ならゾンビ化したら脳の神経細胞は一部しか生き残れないはずで、だからゾンビの行動というのはプリミティブなものになるんだが、それに反して俺が普通にしゃべったり思考したりできる理屈が、今の俺にも分からない」
「そこのノートパソコンを起動したら、その辺のことも分かるのかしら」
「だったら良いんだがな……現に俺の脳の働きはどんどん落ちて来てる。そのうち理性を失って、君達二人に噛みつくかもしれん。まあ、トイレのブラシで殴るなりして撃退してくれたらいいが」
「思い切り蹴っ飛ばしてもいい?」
すかさず葵が突っ込む。
「ああ、理性を失ってからにしてくれよ」
「了解」
「ええっと、話を元に戻すとだな……何の話だったっけ……ああそうだ、だから俺たちはここに長居はできん。早く外部に連絡を取って生存者がいるっていうことを広く認知させ、安全に壁の外に出られる方法を探らないと、俺はともかく、君達の命が危ない」
「壁の外に出るならあなたも連れて行くわ」
「いや、だから、それが無理なのは葵も分かってるだろ。俺の身体からはウイルスが拡散してる。俺が外に出たら間違いなく新たなパンデミックを引き起こすことになる。俺は壁の内側でこのまま消えて行くべきなんだよ」
「……本当に無理なの? 元の身体に戻る方法はないの? そのノートパソコンに何か手がかりがあるんじゃないの?」
「それは無理だろ。発症した時点で既に全身のほとんど細胞のゲノムが書き換わってる。どんなに中和抗体を大量に使ってウイルスを駆逐しても、書き換わった細胞のゲノムを元に戻すことはできん。それに俺の心臓はもう止まってるしな」
「……本当に心臓止まってるの? ちゃんと診断したの?」
「ああ、自己診断だけどな」
「……私がもう一度診るわ。脱いで」
あーあ、やっぱりこういう展開になるか。まあどうせ葵は言い出したら聞かない。とりあえず気が済むまで俺の死体を診察させてやろうか。
上着を脱いでタートルとシャツをたくし上げた俺の胸に葵は聴診器を当てる。
「息を吸って……止めて……吐いて……はい、後ろ向いて」
言われた通りにおとなしく従う。
「はい、息吸って……吐いて……吸って……吐いて……はい、こっち向いて」
瞳孔の対光反射も、きちんとペンライトを使っての診察だ。
「どうだ? 死んでるだろ?」
「……」
葵は黙ったまま、笑い出したいのを必死で堪えてるような表情をしてる。不気味だ。何を言われるんだろう。
最後に3回、丁寧に血圧を測って診察終了だ。
葵はドヤ顔で俺に宣告した。
「圭、あなたマジでヤブ医者ね。あなたまだ死んでないわよ」
はあ?
「ええーっ!? どういうことですか!?」
横で見ていた陽奈が素っ頓狂な大声を上げた。
「心臓の動きは完全には止まってないし、呼吸も時々はしてるわ。変だと思ったのよ。いくらゾンビだって言ったって、心臓や呼吸が完全に止まってたら、そんなに脳が動くはずないし。それに手の傷からも、ちょっとだけど出血してたし。血圧もゼロじゃないわ」
葵は興奮気味に話しながら隣の部屋に行って、病院から持って来た荷物をごそごそ漁っている。
俺は慌ててもう一度頸動脈や手首で脈をとろうとするが、やはり脈はない。呼吸も、してないよな?
「いや、やっぱり脈はないぜ。呼吸もしてない」
何だか先生に間違いを指摘された生徒みたいに、どうしても言い訳じみた言い方になってしまう。
「山野先生、それ、お医者さんとして、どうなんですか? 『俺はもう死んでる』って言ったじゃないですか」
陽奈がまたこっちを睨んでいる。
「いや、あの、灯台下暗しと言うか……医者の不養生というか……」
「意味不明です」
そう言い捨てながら陽奈も口元には笑いがにじみ出ている。
「とりあえず、これやりましょう」
葵が隣の部屋から持ってきたのは小型のAEDだ。心臓が止まりかけてる時に蘇生のために使う、いわば電気ショック装置だ。
しかしAEDは、本人が既に意識を失ってる状態で使うのが前提だ。意識がある状態で使うと激痛と衝撃でかえって死にそうになる。
「い、いや、俺、意識あるんだけど!」
慌てて主張するが、葵は聞いてくれない。
「しょうがないでしょ。あなた男なんだし我慢しなさい」
「いや、そんなの男も女も関係ないだろ! 性差別良くねえよ!」
「先生、往生際が悪いですよ」
陽奈も突っ込んでくる。
「いや、だから俺はもう既に往生してるんだよ!」
「はい、つべこべ言わずそこに横になりなさい。たぶん心室細動の状態になってるから、AEDやったら普通の心拍に戻るかもしれないでしょ」
「そこに横になれって、この床にか?」
「仕方ないでしょ。嫌だったらタオルか何か敷きなさいよ」
仕方なくタオルを何枚か床に敷いてその上に横になった。葵は手際よく俺の胸をはだけさせ、電極を貼り付ける。
「心臓がちょっとだけ動いてるんなら、かえってAEDしない方がいいんじゃないのか? よけいに心停止にならないか」
「はいはい、死んでる人はべらべらしゃべらないの。このAEDに簡易心電図がついてるから、ボタンを押すかどうかはそれを見て決めたらいいでしょ」
必死に抗う俺を葵は苦笑しながら受け流す。
「分かった。分かったけど、やる時にはやるって言ってくれよ。いきなりやるなよ。心の準備が要るからな」
「ほら、もう、しゃべってたらノイズで心電図見れないじゃない。いい加減もう観念して黙りなさい」
とうとう黙らされてしまった。




