私、帰りたくないの
朝6時になった。夜も明けてきた。いつまでも頭を抱えてるわけには行かない。行動開始だ。
まず何よりも先にしないといけないことができてしまった。
俺は昨日から陽奈に普通に接触していた。もちろん彼女を助けるためだったわけだが、正直、ゾンビ化ウイルスの感染力について甘く見ていた。映画やゲームのように、噛みついたりひっかいたりしない限り感染しないだろうと思い込んでいたんだ。
しかし論文に書いてあった感染力から推測すると、俺と物理的に接触したり、至近距離で会話したりするだけで、俺から感染する可能性は十分ある。
陽奈はもう既に感染していると考えた方が良い。
もし感染していれば発症までの潜伏期は短い。短ければ20時間から24時間ぐらい、長くても2日以内には発症する。
発症した時点ではもう全身の多くの細胞がゾンビ化している。どうやっても治療することはできない。しかし発症するまでにウイルスに対する中和抗体を点滴投与すれば、なんとかウイルスを抑え込むことができる。いわゆる抗体療法だ。
抗体は……完成したのだろうか?
少なくともマウスではウイルスを抑えるのに成功したようだ。
直近の実験ノートをみると副作用の少ないモノクローナル抗体を大量に精製するところまでたどり着いている。
というか、どうも俺は帰国してからずっとこのウイルスに対する抗体の精製に専念していたようだ。それで論文を書く間もなかったんだな。
確かにそれらしきスピッツが隣の部屋の保冷庫にたくさん入っており、電源は切れていても中はまだカチカチに凍り付いているので保存状態は問題ない。
ただマウスでは成功していても、人間のように身体の大きい生物ではそもそも試すことさえされていない。
理論上は、人間に投与しても大きい副作用はないはずだ。しかしそれは実際に投与してみないと分からないし、もしショックなどの重大な副作用が出た際には、この研究室ではとても対処できない。
となると。
この大学に隣接した大学病院に彼女を連れて行き、そこでやるしかない。
しかもタイムリミットは、昨日俺達が出会った時刻から計算して、今日の午前10時頃と考えておいた方が良いだろう。
彼女を壁の外に無事送り届けたとしても、その後に彼女がゾンビになってしまっては意味が無い。
大学病院に行き、彼女に抗体を投与すること。これが最優先ミッションだ。
隣の部屋に行くと、陽奈はソファーの上で白衣とタオルケットに埋もれて丸くなり、すーすーと気持ち良さそうに寝息を立てている。寝てる姿まで猫っぽい。
せっかくだしもうちょっと寝かしておいてやりたいが、抗体治療のタイムリミットを考えると、そうは行かない。
「陽奈、すまんがぼちぼち起きてくれ」
声をかけると、目をこすりながら、まるで「眠いにゃあ」とでも言いそうな感じで、もそもそ起き上がってソファに座り直した。
ああ! また白衣の裾から生足が丸見えじゃないか。しかも膝上から派手にぱらっと。
と、とりあえず無理やり目を逸らすぞ!
彼女は一瞬ここがどこだか、俺が誰だか、分からなかったようだ。
ぼーっと辺りに視線を泳がせていたが、急にパッと姿勢を正し、
「あ、おはようございます!」
目が覚めたようだ。
「おはよう。スープとコーヒーはここに作っといた。それと賞味期限ギリギリだがロールパンがある、食うか?」
「もちろんです! ありがとうございます」
満面の笑みだ。
「そんなに喜んでもらえると俺も嬉しいよ」
美少女には似つかわしくない粗末な朝食をハフハフ言いながら嬉しそうに食ってる陽奈を見ていると、哀しみというか愛おしさというか、なんとも言えない切ない感情とともに、またしても強力な既視感がこみ上げてくる。
何かを思い出しそうな……もうちょっとで出てきそうな感じがするが……出てこない。
何なんだろう、この既視感。
いや、今はそんなことを考えてる場合じゃないか。
これから彼女に伝えないといけない事実が非常に重く心にのしかかっている。
陽奈が食べ終わるのを待って、俺は話し始める。
「陽奈、これからいくつか大事な話をするから聞いてくれ」
黙ってこっくり。いい子だ。
「まずお前に訊いとかなきゃならないんだが、お前、何か体調に変化はないか? 頭が痛いとか、熱っぽいとか、ノドが痛いとか、鼻水が出るとか」
「うーん、どこもどうもないみたいです」
「そうか、良かった。実はな……」
俺は、昨夜いろいろ分かったことを、陽奈に順を追って説明した。
元小児科医である俺が何らかの理由でゾンビ化ウイルスを作ってしまったこと、そしておそらく陽奈にも感染させてしまったこと。
潜伏期から計算すると、午前10時までに抗体を点滴しないといけないが、この研究室ではできないため、今から急いで大学病院に向かわねばならないこと。
「……以上だ」
俺は一気に話し終えた。
陽奈は目を閉じてほーっと息をついた。
「お前を助けようと思ってたが、かえってとんでもないものに感染させてしまった。しかもこんな事態を引き起こした責任の大部分は俺にある。まことに申し訳ない」
俺は謝罪の言葉を付け加え、深く頭を下げた。
「い、い、いいんです! 先生!」
陽奈はぶんぶん音がするぐらい首を左右に振った。
「私、先生が助けてくれなきゃ、今頃エレベーターの中で死んでたか、ゾンビに食べられてたんですから、いいんです、全然」
「いや、昨日も言ったが、お前みたいな可愛くて脚の綺麗な女子高生が、死んでしまったりゾンビになってしまったりするのは、俺は絶対に許せん。何があってもお前を助けるからな」
俺はまた下らないことを言って場を和ませたつもりだったが、陽奈は急に黙ってうつむいてしまった。
え、泣いてるのか?
「なんだ、どうしたんだ?」
俺はちょっと挙動った。
「先生……山野先生……ありがとうございます。私なんかのこと、そこまで言ってくれる人、いないから……」
陽奈は意外なことを話し始めた。
「私、家なんか帰りたくないんです。お母さんは弟べったりで、弟は生意気で私のこと馬鹿にしてるし、お父さんはお母さんと仲悪くて、単身赴任してる中国から全然帰って来ないし」
「……そうなのか」
「家に帰っても自分の部屋にこもってるしかないし、お弁当だって、お母さん、弟の分しか作らないから、私、朝早く起きて自分のお弁当詰めて出て、家に帰ったらお母さんと弟二人でもうご飯食べてて、私独りでレンジでチンして食べて、そもそも私の夕食は用意されてないこともあるし」
「そりゃひどいな」
「学校のイベント事だって、私の方にはお母さん来てくれたことない。勉強頑張って良い成績とっても、そんなの当たり前って言って褒めてもくれないし、書道がんばって賞もらっても『ああそう』って言うだけだし」
「……マジひどいな」
「友達は結構いい所の子が多いから、私みたいな家庭の事情、みんな『ふーん』みたいな感じで分かってくれないし」
「彼氏とか、いないのか?」
「いないです。告られたことはあるけど、私、同年代の男子って、弟とかぶってしまって何かダメなんです」
「んー、お前ひょっとしてファザコンの気があるんじゃないか?」
俺は軽く突っ込んだつもりだったが、陽奈は息を呑んでしまった。図星だったようだ。
「……たぶん……そうです。私、小さい時すごいお父さんっ子だったらしくて、お母さんはそれが気に入らなかったみたいで、どんどん意地悪になって、でもお父さんは帰って来なくなって、私、家の中で孤立しちゃったんです」
娘が美少女で、しかもパパっ子で、娘とダンナがいっつもベタベタしてたら、まあ母ちゃんとしては楽しくはないだろうな。
でもそれで実の娘に辛く当たるっていうのは、母ちゃんとして失格だ。いわゆる毒親ってやつか。母ちゃん自身が子供っぽい未熟な性格なんだろうか。
でもこんな可愛い娘を放っておいて帰って来ない親父っていうのはさらに共感できんな。
それに、まあ単身赴任先から帰ってこないっていう男はだいたい向こうに女がいるもんだし、ひょっとして単身赴任先でも可愛い娘を作ってるのかもしれん。
「だから私、いいんです。ここで先生と一緒にいて、ゾンビになるんだったらそれでいいんです。お母さんもお父さんも、誰も悲しまないし、むしろ邪魔者が消えて『ラッキー』ってなると思う」
「いや、陽奈、それは違うな」
俺は断固とした口調で言った。
「少なくとも俺は悲しいぞ。俺は絶対、お前に生きていて欲しい」
陽奈の目から涙があふれている。
「何でですか……ひぐっ……私、生きてるの辛いです……ひっく……私もゾンビになっちゃいたいです」
「何でってな、それは陽奈、俺がもう死んでるからだ」
陽奈は口を尖らし、上目使いに俺を見る。
「死んでる俺から見ると、生きてるお前はすごく輝いててな……羨ましいんだ。俺はもう二度とカップ麺食って『ああ、うめえっ!』って言うこともできんし、朝起きて『ああよく寝たわ』って言うこともできん。死んでみて初めて分かるが、生きてるっていうことはそれだけですごくラッキーなことなんだぞ」
話しながら、俺は初めて、自分がもう死んでることがちょっと悲しくなってきた。
「もしこの先お前がどうしても死にたくなったら、その時は俺にも止められん。ただな、死ぬことは、その気になりゃいつでもできるが、生まれてくることは、自分の意思では絶対できんぞ。生まれてきたってことはすごくラッキーなことなんだぞ」
「……そんなこと言われたら……ひっく……死ねないじゃないですか」
「そうだ。よっぽどのことがない限り、とりあえず生きとけ。生きててくれ。これは死んでしまった俺からのお願いだ」
「先生は……死にたくなかったんですか?」
「ああ。自分がどうやって死んだのかは思い出せんが、精一杯、抗ったはずだ。そもそもゾンビ化ウイルスを作った目的も、子供たちを死なせたくなかったから……いや、それはまあ推測だが」
「私、生きてた方がいいんですか?」
「そうだ。頼むからお前は生きててくれ……さあ、時間がない。もう行こう」
陽奈はしばらく鼻をすすっていたが、意を決したように立ち上がった。
「はい。先生が言うんだったら、もうちょっと生きます」
「あ、忘れてたがお前、スカートやタイツはもう乾いてるだろ。ちゃんと履いとけ」
「私、このままでもいいですけど」
「いや、それはとても嬉しいが……目のやり場に困るんだよ」
「でもこの白衣は着ててもいいですよね?」
「ん? 何でだ?」
「私、これ着てると何か守られてる感じがしてすごい安心するんです」
「じゃあそれはお前にやるよ」
「ありがとうございます!」
陽奈は両手でぐしぐしと涙を拭い、顔を上げて健気に笑顔を作った。
ダメだ。こんな良い子を死なせるわけにはいかない。俺が一万回死んでも、絶対にこの子は死なせない。




