ゾンビメイカー
本棚は部屋の左右の壁を占める巨大なものだ。その大半の棚が研究書や医学書、それに論文のプリントアウトを整理したファイルボックスで埋まっている。
中に自著、つまり俺自身が書いた論文のファイルボックスがいくつかある。ファイルはちゃんと年代順になっている。これを順に読んで行けば、俺がどんなことを研究してたのかは分かるだろう。
最初の方の論文は日本の医学雑誌や学会誌に日本語で出した普通の医学論文だ。例えばこんなタイトルの論文を書いてる。
『小児拡張型心筋症に対する血漿交換療法の適応について』
小児科医として、普通に、子供の病気の治療について書いている。所属欄には『啓蒙大学医学部附属病院小児科』とある。
ただ、しばらくして大学院に進んだようで、そこから所属が小児科ではなく『病理学教室』に変わっている。
俺はこの時点で小児科医を辞めたのか。
確かにこれ以降、書いている論文も、医学というよりはバイオサイエンスの領域になっている。かなりのハイペースで論文を量産し、しかも全て英語で、結構有名な雑誌に載せてる。大学院生としては非常に優秀だ。
大勢の子供たちに慕われていた小児科医が臨床をきっぱり辞めて研究に没頭……いったい何があったんだろうな。
その後は所属が米国の大学になっている。やはり大学院を卒業後にポスドクで留学したようだ。
米国でもかなり論文を量産している。驚いたことに、国際学会賞をもらった論文もある。引き出しに入っていたメダルや盾がそれか。すごいじゃないか。これは日本に帰国すれば凱旋だ。講師どころじゃない、いきなり准教授の座を狙える業績だ。
しかし、俺の研究業績はそこでぷっつり途切れてしまっている。日本に帰ってきてからは全く論文を書いてない。
どうしたんだ? 山野クン。スランプに陥ったか?
しかし論文の中身を読み始めて、俺はだんだん気分が悪くなってきた。
俺がやっていたのは、まさに細胞をゾンビ化する研究だったからだ。やはりそうか……だから俺はゾンビが存在し得ることを知っていたんだ。
論文のタイトルをいくつか発表順に並べるとこんな感じだ。
『細胞の無酸素過程の増強と細胞の不死化について』
『細胞の無酸素過程増強に関するゲノム操作について』
『細胞の不死化における共食い能力の役割』
長くなるが、内容を説明させてくれ。
動物の身体は多数の細胞からできており、どの細胞も基本的に酸素呼吸をして生命エネルギーを得ている。しかし特殊な状況下では、細胞は酸素なしでも一定時間は生きられる。
そこで、ある種のウイルスとゲノム(遺伝子)編集と呼ばれる技術を使って細胞のゲノムを改変し無酸素への耐性を引き上げる。そうするとその細胞は、『不死化』と言うと大げさだが、酸素なしでも長時間生きて活動することができる。つまりその動物は、心臓や呼吸が止まってもしばらくは生体活動を維持できるってことだ。
心臓や呼吸が止まっていればそれは『死体』だ。それでも細胞が生きていれば『動く』ことはできるんだ。
つまり、ゲノムの改変により心臓や呼吸が止まっても身体の細胞が活動を続けるようになった動物。それこそ『ゾンビ』に他ならない。
心臓が止まって細胞に供給されなくなるのは酸素だけじゃない。水分やミネラル、エネルギー源もだ。
それを解決するために、さらに別のゲノム改変を行い、細胞同士が共食いして隣の細胞から水分やミネラル、エネルギー源を得るようにした。
要するに不死化、ゾンビ化した細胞は、周囲にある他の細胞を食い散らかしながら、しばらく生きていくことができるわけだ。
おぞましい。
細胞そのものがゾンビ的な振る舞いをしている。
もちろん細胞同士が共食いをしていれば細胞の数はどんどん減っていく。だからゾンビと言ったって活動できる時間には限りがある。
論文の中で俺は、心臓と呼吸を人為的に止めたマウスが1週間そのまま動き続けていることを確認している。通常の死の定義で言えば完全に死んだはずのマウスが、1週間も動き続けていた。まさにゾンビに他ならない。
しかし、その時に見られたマウスの行動は、正常とは言えなかった。
ゾンビと化したマウスは食欲と攻撃性の権化となり、健康な他のマウスに対して噛みつき、噛み殺した上にその死体を食べ出した。通常、マウスという動物は共食いなどしない。これは明らかに異常行動だ。脳の中の特定部位の細胞だけが生き残ってしまうために起こる症状だ。
おそらく、今、俺の身体の中でもそういうことが起こっているのだろうと思うと、改めて恐ろしくなって来た。
俺はいつ理性を失って陽奈に襲いかかるのだろう。
何とかそれまでに彼女を外の安全な場所に送り届けてやらないといけない。
そして、この一連の研究ではさらに困ったことが起きていた。
ここで使われているアデノウイルスというウイルスは、ゲノム編集の研究に頻用されるものだが、通常、研究用のゲノムを組み込んでもウイルスそのものの挙動や特性は変わらない。
それにこいつは、感染力や消毒耐性こそ比較的高いが、人間に感染してもせいぜい風邪症状や結膜炎を起こすぐらいのもので、大した病原性は持たないウイルスだ。
ところがこのアデノウイルスにゾンビ化ゲノムを組み込むと、ウイルスの性質が大きく変化して、感染力と病原性が爆発的に高まって暴走し、どうにも制御できなくなる。
単なるゲノムの運び屋に過ぎないウイルスが、まるで別物の凶悪なウイルスに変身すると言って良い。
『細胞の不死化に対するアデノウイルスの活用』
『細胞の不死化過程におけるアデノウイルスの暴走と制御』
『暴走したアデノウイルスに対する抗体治療について』
論文の中で、俺は必死でウイルスをコントロールしようとしているが、苦戦している。
意図しないウイルスの暴走について、中和抗体による抑制も研究しているが、発表された論文を見る限り、マウスでしか成功していない。
また感染力を抑えたり、感染後の増殖スピードを抑えた改良型のウイルスを作った形跡もあるが、実用化はできていないのだろう。論文としては発表していない。
ヒト5型アデノウイルス改。
これこそ人類史上最も恐るべき存在、『高い感染性を持ったゾンビ化ウイルス』だ。
そしてそれを作ったのは、俺なんだ。
目覚めた時から感じていた悪い予感は完全に現実になった。
全身に冷や汗が噴き出して来た。
心臓も呼吸も止まっているはずなのになのに、胸がドキドキして息苦しい。椅子にふんぞり返ってられなくなって身体を起こした。
間違いない。今、この大学で起っているゾンビパニックは、俺が作ったウイルスがパンデミックを起こしたものだ。
ゾンビメイカーは俺だった。
俺のせいだ。俺の責任だ。
たくさんの人を巻き込んでしまった。たくさんの人をゾンビにしてしまった。
俺はいったいどうしたらいいんだろう。何とお詫びをしたらいいのだろう。
目の前が真っ暗になった。
死んでお詫びをするしかない……そういう言葉がしきりに頭に浮かんでくる。この国の人間はすぐにそう考えたがる。
いや、待て。
そこのソファーですやすや眠ってる、あの可愛らしい女子高生をどうするんだ。
あの子をこんなゾンビパニックの渦中に放り込んだままおさらばするのか。それは卑怯過ぎるだろ。無責任過ぎるだろ。美脚マニアのおっさんとしてもそれは絶対に許されない。
落ち着け。
落ち着け、俺。
落ち着け。
よし。ちょっと落ち着いてきた。
そもそも俺はもう死んでいる。死んでお詫びなんてできないだろ。馬鹿だな。
それに、落ち着いて考えると、まだいくつか腑に落ちない点がある。
俺がゾンビ化ウイルスを作った、これは事実だとしても、ウイルスが勝手に研究室から出て行くわけじゃないし、少量が漏出したとしても、いきなりこんな大規模なパンデミックにはならないはずだ。
ゾンビパニックはオカルトではない。それが起こるにはゾンビ化ウイルスが『同時に大勢の人間に感染すること』が必須だ。つまり誰かが明らかに悪意を持って、人々が感染しやすい形で大学内にウイルスを播いたんだ。
一体誰がやったんだ?
まさか、俺がやったのか? この脚フェチで頼りなさそうなおっさんが? 実は俺はずっと世を恨み、着々とゾンビ化ウイルスによる大規模バイオテロを計画してたんだ、とか?
……我ながら、それはなさそうな気がする。
それだと何故、俺自身が頭に大ケガを負ってトイレの中で死んでたのか説明がつかない。自身がゾンビになってしまってるのも解せない。
それに、テロを起こそうと思ってるなら、わざわざ自分の研究を論文にして発表しないだろ。俺が今からこんなことやりますよ、ってみんなに見せてるようなもんだ。
俺が自分で播いたんじゃないとすると誰が? 誰かが俺の作ったウイルスを盗んで播いたのか?
そうか、ちょうどここ数日磁気嵐のせいで大規模停電に電波障害と世の中は混乱している。誰かがそれに乗じてやったんだな。
なるほど。そこだけは話がつながったな。
しかし、誰がそんな恐ろしいことをしたんだ? しかも何のために?
分からんな。全く見当もつかない。
他にも分からないことがまだいくつか。
俺自身も間違いなくゾンビなんだが、何故他のゾンビと違って、中途半端というか、こんなハーフゾンビみたいな状態なんだ。何で完全なゾンビになりきってないんだ?
感染から時間が経ってないから?
いや、感染が成立してしまえばその後の経過に大きな差はない、という記載が論文のあちこちにあった。
俺にだけウイルスに対する抗体があるとか?
いや、それだと発症するかしないかのどちらかで、発症してしまえば抗体があってもその後は変わらない。こんな中途半端なゾンビになるというのはおかしい。
分からんな。
そして、もう一つ大きな疑問がある。
そもそも俺は何がしたかったんだ?
ゾンビを作りたかったのか? ゾンビ化ウイルスを作ろうと思って、小児科医を辞めてまで研究に没頭したのか?
論文を読んでいると、どうもそうではなかったような印象を受ける。本当は何か違うことがやりたかったのに、失敗して、こんなものができてしまいました、みたいな。
小児科医を辞めてこの研究を始めた頃の論文の中で、俺は『死』にこだわり、
『心臓や呼吸が止まることイコール死なのか?』
という疑問を繰り返し提起している。
何か事情があったのだろうか? 心臓や呼吸が止まっても、子供たちの細胞を死なないようにすべき事情が。
様々な疑問への答えが分かるかと思い、最後にダメ元でノートパソコンのスイッチを入れてみた。
幸いバッテリーは残っているようで、パソコンは微かな音を立てて動き出し、液晶画面も少し明るくなった。
しかしそこから進まない。液晶には何も表示されないままだ。ログイン画面すら出てこないんじゃ、デタラメにパスワードを入れてみることすらできない。
壊れてんのか?
いや、これは何かロックがかかってるんだな。このままでは起動しないようになってるんだ。
窓の外は徐々に明るくなってきていたが、俺はたくさんの疑問を抱えたままデスクで呆然としていた。




