医者を辞めた男
狭いエレベーターの中でまともに寝てなかったんだろう。陽奈は白衣を二枚重ねに着込んでソファーに横になるなりすぐに寝息を立て始めた。
白衣の裾からは白くて綺麗な生足がこぼれ出ている。綺麗なだけでなく触り心地も良さそうだ。
うーん、見てると誘惑に負けてタッチしてしまいそうだ。それにそのまま足を出して寝てると夜更けには冷えてしまうぞ。
足もとにバスタオルをかけておいてやろう。よし、これでいろいろ大丈夫だ。
すやすや眠る陽奈を見守りながら、俺はオフィスチェアにどっかり座った。
さあこれからどうする? 山野先生。
まあ、そうだな。とりあえずもう一度、今日の出来事を思い出しながら頭の中を整理しようか。
まず、目が覚めたら俺は、トイレの個室で頭から血を流して死んでいた。しかも死んでいるのに起き上がって動いている状態、つまりゾンビになっていた。
ゾンビになったせいか生前の記憶は全く失われ、自分の名前すら分からなかった。ただやたらと医学知識があることから、生前は医者だったことが推測された。
トイレの外に出てみると、周囲もゾンビだらけだった。いわゆるゾンビパニックの状態だ。ここは啓蒙大学のキャンパスの中、理学部の建物だということは分かったが、何でこんなことになってるのかは今も不明だ。
ただ何故か俺はゾンビが存在し得るものだと認識しており、自分がこのゾンビパニックに深く関わってるんじゃないかという嫌な予感がした。
とりあえずこの建物内を探索するため、地下に降りて緊急発電装置を起動させたが、すぐに止まってしまった。
しかしこれで停止していたエレベーターが動いたようだ。エレベーターの中に閉じ込められていた付属高校3年の陽奈は、2日ぶりに外に出ることができた。
だが近くにいたゾンビに襲われ、悲鳴をあげて階段を駆け下りてきて、俺とばったり出くわした。逃げようとしてかえってゾンビに囲まれてしまったのを、俺がこの部屋にかくまって助けた。
俺が一人で探索の続きに出ようとすると、一緒に行きたいと懇願するため、武器としてトイレのデッキブラシを持たせて連れて行った。建物1階のロビーでゾンビ2体に襲われたが、俺が何もできない内に彼女がブラシを振り回して撃退してくれた。その攻撃力の高さには驚いた。
建物の外に出て大学の正門まで歩いて行ったが、正門はおろか大学全体が鉄板の壁で隔離・封鎖されており、うっかり壁に近づくと威嚇射撃されるほどの厳戒態勢だった。
日も暮れてきたため仕方なくコンビニで食料品や携帯の充電装置などをゲットしてこの部屋に戻ってきた。しかし携帯は全くつながらず、その原因は太陽活動による磁気嵐で大規模停電や電波障害が起っているためと推測された。
俺のミッションはまず陽奈を守り安全な場所に逃がしてやることだが、夜間は動くことができない。彼女を寝かせてやり、今はオフィスチェアにふんぞり返っている。
まあ、こんなところだな。
正直、まだ分からないことだらけ、謎だらけだ。
だが何より一番気にかかるのは、何故俺はゾンビが存在し得ると知っているのか、ひょっとして俺はこのゾンビパニックに深く関わってるんじゃないのか、そこだ。
俺が何者かが分かれば、その辺がもうちょっとはっきりしてくるかもしれない。
それに、ここが俺の研究室なんだとすると、このデスク周りの物や書籍、雑誌などを調べれば俺の正体も分かるだろう。
よし。まずは俺が何者かを探ろう。
俺は改めて周囲をキョロキョロ眺め回した。
正面に無造作に置いてあるノートパソコンが気になるが、起動したとしてもどうせログインにパスワードが要るだろう。今は置いておこう。まずはこのデスクの袖にある引き出しを開けて見る。
一番上の引き出しには文房具やらハンコやらと一緒に名刺の束が入っていた。
自分の名刺みたいだな。
『啓蒙大学 理学部生物学科 助教 山野 圭』
やはりそう書いてある。
しかしよく見ると名前の前に肩書きとして
『医師・医学博士』
と併記されている。
ああ、やはり元・医者か。しかも医学博士を持っているということは大学院まで行ってるんだろうな。
もう一つ名刺ケースがあって、そっちには英文の名刺も入っていた。
見ると所属は米国の大学になっている。ゲノム系の研究で有名な所だ。おそらく大学院を出た後にポスドク(ポストドクトラル・フェロー)で留学したんだろう。これはその頃の名刺だな。あるいは今でも客員教員として所属してるのかもしれない。
ふーん。医者の中でも結構エリートコースだな。
それが、何故医学部を辞めて理学部の教員をしているんだろう。そのまま医学部にいれば少なくとも講師クラスのはずだ。別の学部で、しかも格下の助教をしてるということは、医学部にはいられなくなったか、いたくなくなったか、いずれにせよ何かワケアリだな。
脚フェチがらみで何かやらかしたか? いや、それなら大学そのものにいられなくなるはずだな。教授とケンカしたのか? それとも患者さんとトラブったか?
うーん、分からんな。
まあいいや。次、行こう。
二番目の引き出しを開ける。上の段と比べて乱雑にいろいろなものを放り込んである印象だ。
その中でまず目に入ったのが聴診器だった。
しかも患者さんの胸に当てる部分、チェストピースが小さいタイプ……これは、小児用だ。小児科で使う聴診器だ。
小児科。
あれ? 俺は小児科医だったのか?
止まっているはずの心臓がドキンと大きく脈を打ったような気がした。
TVドラマならここで一気に記憶が蘇るところだが……残念ながらまだ俺の生前の記憶は沈黙したままだ。
しかし何かこの聴診器には『来る』ものがある。何かを感じる。
何だろう? やっぱり俺は何かワケアリなのか?
他にもごちゃごちゃっと種々雑多な物が放り込んである。
郵便物がいっぱい。何だ、封を切ってないものもあるぞ。何かの学会でもらったのか、メダルとか盾のようなものもある。それに実験ノートの類いがいっぱい。書きかけのままになってるのも多い。山野君って結構いい加減なヤツなんだな。
それと、写真が、わざわざL判にプリントしたものがいっぱい放り込んである。小さいアルバムに入ってるのもあれば、むき出しのもある。
病棟の飲み会かな? 大勢の看護師さんと写ってるのもある。
研修医仲間かな? 若いドクターが集まって変顔で写ってるのもある。
外人と一緒に写ってるのは留学時代のやつだな。
あ、これ誰だ?
すっげえ美人の女医さんとツーショットで写ってる写真がたくさんある。
ん? 私服で写ってるのもある。どう見てもプライベートで撮ってるっぽい。
あれ? もっと若い頃かな? 大学生っぽい格好で写ってるのもある。これもお相手は同じ女医さんみたいだ。
どういう関係だったんだろう。彼女だったのかな? うらやましいぞ。
最後の一枚は、もっと古い写真だ。色がちょっと褪せてしまってる。フォトフレームにでも入れてたのか、L判より一つ大きいサイズに引き延ばしてある。
写ってるのは学生服の男の子とセーラー服の女の子だ。腕を組んで身体を寄せ合い、実に良い笑顔で写ってる。
この学生服の男子は俺だな。思春期男子っぽい感じのニキビ面で、これは高校の制服かな?
一方、女の子の方はもうちょっと幼い感じだ。同級生じゃない。明らかに年下だな。中学生かな?
目がぱっちりして、少し目尻が上がってて、猫っぽい感じの可愛い子だ。さっきの女医さんとは美人の系統が違う。
あれ? 今そこで寝てる陽奈とよく似てる。
しかし隣に写ってるのが俺だとすると、年齢から考えて明らかに別人だよな。
いや、でも、よく似てるな。
誰なんだろう。これも元カノかな?
でも雰囲気的にほのぼのし過ぎてて、彼氏彼女というより「お兄ちゃんと妹」という感じだな。
しかしこんな古い写真をいろいろ、職場のデスクの引き出しに入れてるなんて、山野クンって結構、過去に対してウェットなヤツだったのか。
まあ、別にいいけどな。
引き出しの底の方、写真がいろいろ出てきた下にはさらに大判の封筒がいくつか重なっていた。封筒の中には紙切れがいろいろ入ってる。
あ、何だこれ。
『やまのせんせいへ』
って書いてある。
ああ、これは小児科医をやってる頃に、担当の病気の子供が書いてくれたお手紙だな。つたない字で懸命に
『ちうしゃはやだけど ぼくがんばる』
とか
『だいすきな やまのせんせい またきてね』
とか書いてあるのを見ると、止まったはずの呼吸なのにまた息苦しい感じが迫ってくる。
この子達、ちゃんと元気になったのかな。
俺の似顔絵を描いてくれてる子もいる。もうちょっと大きい、思春期ぐらいの女の子だろうか、日記みたいに日々の想いを細かく綴ってくれてるノートもある……いや、これ途中からほとんどラブレターになってるじゃないか。
山野先生、人気者じゃないか。何で、医者を辞めてしまったんだろうな。
三段目が一番下の引き出しだ。
いわゆるファイルストッカーになっていて、中にはきちんと分類されたフォルダーが整然と並び、様々な書類がパンパンに入っている。
ここを見て、俺が決していい加減なヤツじゃないことが分かった。さっきは悪口言ってすまんかった。実験ノートも手書きでびっちり書き込んである。中には最近の日付の記載もあるので、ちゃんと仕事してたんだなということが分かる。
ただ、ノートは数字や記号の羅列のような記載も多く、これだけで研究の全体を理解するのはなかなか難しい。
何ページかばっさり切り取ってある部分もある。実験ノートというのは、仮に失敗した実験であっても記録に残しておくべきものなので、こういう行為はあまり褒められたことではない。何か事情があったのだろうか。
他は、研究費の申請書や学内の事務的な書類ばっかりだな。
ふう。何かすごい疲れる。
いや、これぐらいで疲れててどうする。まだ自分の過去の断片をいくつか見ただけだぞ。
まあ、机の引き出しはこのぐらいで置いておいて、本棚にある書籍や論文も見てみよう。




