帰るべき場所 - Ⅰ
その部屋もまた、樹で出来ていた。大聖堂の一室を《インセニル》に対抗するための臨時の営舎とし、兵士長であるラヴィル=ランスは部屋の奥に置かれた席に腰掛けていた。
そしてその視線の先には牢獄の看守が一人立ち、大きな音を立てながら机に手を叩きつける。
「納得が行きません! なぜあなた程の者が罪人を易々と見逃すのですか! 蒼眼の少女の両親の取り調べも事実の確認だけ……。それほどまで、保身が大事か……!」
「……落ち着け。私とて彼らの行為を許した訳ではない」
「ではなぜ――」
「君には見えていなかったのか。あの時動いていれば、我々は確実に死んでいたぞ」
兵士長の思いもよらぬ発言に、看守は目を丸くする。しかしそれだけでは納得出来ず、すぐに反論した。
「どういう事ですか! 僅かな民衆の目を欺けば、優位に立っていたのは確実にこちらだった!」
「優位? ばかを言わないでくれ。ククリちゃんはあの若者を保護するだけでなく、我々に魔力の刃を突き立てていたぞ。しかも、背景と同化して、目を凝らしてやっと見えるという厄介なものだ。……やれやれ、あの若さで脅迫とは、恐れ入るよ」
「ばかな……」
「失言の数々は聞かなかった事にしよう。修練に励め。どんな時でも冷静な状況分析を怠るなよ」
「くっ……。失礼した……」
看守は諦め、自身の持ち場へと戻る為に踵を返す。
ラヴィルはその背を、静かに見送った。そして誰も居なくなった部屋で一人、呟く。
「……何が保身だ。兵士長とかいう下らん肩書き、元より放棄したつもりでいたというのに……。しかしそこまで気になるのなら、俺自身の手で落とし前を付けさせてもらうぞ……」
地に響きそうなほど低いその声には、この世のすべてに対する憎しみが込められていた。
***
その頃、ニコンは窓の外を見ていた。負傷した安藤をククリの家に運んでからずっとである。
途中、そう時間がかからないうちにククリの両親も帰ってきて、ククリと三人で互いの無事を喜んでいたが、その間も一人、身動きも取らずに安藤が寝かせられた部屋の窓から外を覗いていた。
いつ、国の兵士が追ってくるか分からない。ククリ達は安藤を匿う事に賛同したが、しらを切っても兵士達が家宅に乗り込んでくるのは自明だ。
ククリの両親は微動だにしないニコンを心配し、夕食を用意した。
それでも――というわけではなく、食欲には負けて夕食をもらっていたが、窓の前からは動いていないので本人的には問題無しだった。
「えと……ニコンさん。代わる……?」
時折、ククリがこうしてニコンに声を掛けるが、
「別に大丈夫よ。あんたは親と居なさい。わたしを誰だと思っているの」
と、それを拒んだ。別にククリの事を信頼していないわけではない。自身よりも高度な魔術を使うのだから、本来は奇襲を受けたら応対するのはククリの方が適任だろう。
しかしニコンは、それを良しとしなかった。これが最善であることを知っていたのだ。
ただ一つ、想定外の事が起こる。
窓から、木の香りのする冷ややかで心地の良い風が吹く。そしてすぐだった。ククリが慌てて部屋に駆けこんできたのだ。
そして一言、「……き、来た!」と言う。
窓の外を見ても、人の気配はない。しかしククリの慌てようから、ニコンも警戒を解かなかった。
ラヴィルの魔術はほぼ自由な場所に尖った杭を生じさせる。ゆえに、安藤が視認された時点で負けは決まったようなものだ。
さすがに兵士長ともあろうものが、一家を襲撃するはずはない。
その先入観が仇となった。
「見つけたぞ……。罪人……!」
鬼のようなその声は、なぜかニコンの背後から聴こえた。
「え――」
振り向いた頃にはもう遅い。既に目の前では魔法陣が展開され、そこからは豪速の鉄の杭がニコンに向けて一直線に伸び出していた。
思考が追いつく間もなく、その鉄杭は見えない何かによって防がれ、摩擦による火花を散らす。銀鼠に輝く鉄の先端が、一瞬にして錆びていた。
「ククリちゃんか……。また邪魔をするんだな」
「はぁ……はぁっ……」
ククリは咄嗟に何らかの魔術を使ったのか、肩から荒い呼吸をしている。
彼女の手に、先程持っていた杖はない。少しふらつき、床に手をついてしまった。
「君はすごいな……、本当に。魔導具も、魔法陣も、詠唱も無しに、それほどまでに莫大な量の魔力を流出させ形を作るのだから。それはもう神のそれに近しい所業だ。その才能が羨ましいよ……。それともそれが、蒼眼に与えられた力だというのか」
「うぅ……だめ……」
ラヴィルは心の底からククリのような逸材を羨ましく思い、讃えていた。
それは純粋な称賛であり、悪意の片鱗は微塵もない。
「だけど、今はそれが邪魔なんだ。……ごめんよ」
「だ――!」
しかしその攻撃には、容赦の一つもない。
ククリは床から伸び出た丸太のように太い杭に打ち上げられ、天井に身体を強く打ち意識を落とした。
動かなくなってしまった小さな身体が、床に落ちる音が響く。同時に、物音を聞きつけてやってきたククリの両親が、その光景を目にしてしまう。同時に部屋に響くのは、慟哭と悲鳴。
予想もしていなかった事態に、ククリの両親は酷く混乱し、その場に崩れ落ちる。
「うそ……」
ニコンはその様子を、茫然と見ているしかなかった。
彼女には、槍しかない。しかしそれも近接の戦闘でしか役に立たず、ラヴィルとの戦いでは勝ちの芽すらない。
「看守曰く、《インセニル》の罪人はその男の魔術によって吸い込まれているとのことだったな……。いつまでも繭に籠もって出てこないというのなら、仕方ない。纏めて死んでもらう」
怖い。怖くて動けない。
目の前にいる者が、任務地こそ違えどかつての同僚だとは思えなかった。
今では師事しているリュードも恐ろしいが、それとは別の方向に向いた恐怖に、ニコンはとうとう泣き出してしまう。
「助けて……っ、許してよ……ぐすっ、お願い……」
その声は虚空に溶けるだけで、ラヴィルの耳には届かない。
これまでとは比較にならないほど鋭利に見える杭が、安藤に向けて伸びる。
「誰か、助けてよ……っ!」
とうとう終わりだ、そう思い目を閉じながらニコンは叫ぶ。
その切なる願いに、応える者が居た。
「誰に向けて物を言っておるのかのう」
「えっ――? な、なん……で……」
それは、聖女のような純白の衣服を纏う銀髪の少女だった。本来ならばあり得ない、黄金色の眼をしている。
この世界の住人ならば、彼女を知らない人間などいない。
この世の全てを理解し、ある地域では“天動の大賢者”とすら呼ばれる《三魔帝》の一角――。
サリエル=ルーグリースが、ラヴィルの目の前に立っていた。
尖る杭を片手で受け止め、力を込めた様子もなくそれを粉々に砕いた。
思いもよらぬ事態に、それまで冷徹でいたラヴィルも驚きを隠せない。
「……なぜ! なぜあなたがここに居る! 《魔導司書》!」
「それはこっちの台詞じゃ、ラヴィル兵士長。なぜぬしはここにいる……?」
「これは俺の仕事だ。その繭の中には罪人がいる」
「それで、わざわざ奇襲をしかけたとな……。やれやれ、兵士長とやらも大変なのだな」
サリエルは呆れた様子で溜息を吐きながらそう言い、倒れ伏したククリへと近づく。
彼女は淡い空色の光に包まれた右手で、ククリの額に触れた。
するとククリは、ハッと我に返った様子で起き上がる。
「何をした……?」
「なに、身体異常の修復と、記憶を少し分けてもらっただけじゃ。蒼眼の者を害するなど、随分と派手な事をするじゃないか、ラヴィルよ」
「…………」
ラヴィルは何も答えない。何もかもを知られている事に、焦りを通り越して恐怖すら覚えていた。
「その繭の中にいる安藤 弘樹は、この世界の希望となり得るかもしれん。それを殺そうというのなら、妾はぬしを止めるぞ。……殺してでもな」
「世界の希望……? 笑わせないでくれ。地界の若者に何が出来る」
「それは分からん。分からないから希望だと言っておるのじゃ。……だが、こやつは僅かながらに、世界の方向を捻じ曲げた」
サリエルもまた、安藤によって現実が改変されたことに気が付いていた。それによって、安藤が知らぬ場所で失われるはずだった多くの命が救われた事も。
サリエルはニコンと安藤を一瞥し、微かに口元に笑みを浮かべる。
「全知の魔術師とは思えん愚行だな。それだけを根拠にわざわざ助けに来たとでも?」
「ふっ、そうじゃ。妾も退屈なのでなぁ。……それに、ようやく見つけた古き友に会うための道を、そう易々と壊されてたまるか――」
「馬鹿らしい。ならば守ってみろ」
ラヴィルは虚空に幾つもの魔法陣を形成する。その全てが安藤を包み込んだ繭に向いており、一斉に杭が飛び出す。
しかしサリエルもまた、一瞬にしてそこに割り込み、足元に魔法陣を展開した。
「――〈アルド・コリス〉」
その言葉と同時に、彼女の周囲にはドーム状の透明な障壁が召喚された。杭がその壁を通過すると同時に、霧散する。
「随分と、丁寧だな」
丁寧。ラヴィルの言葉にサリエルは笑みを浮かべた。サリエルは世界でも名のある魔術師であり、今現在展開されている障壁程度ならば、詠唱無しでも発動するのは容易である。
詠唱の有無で変わるのはその魔術に対する魔力の割当量くらいである。それが意味するのはサリエル自身に余裕がない事だ――ラヴィルはそう判断し、すぐさま追撃を加えた。
魔術が駄目だと悟ったラヴィルは姿勢を低く踏み込み、拳を振るう。やはりそれは、魔術障壁の影響を受けなかった。
「どうしたのじゃ。此方に戻ってから随分と落ち着きがないように思えるが」
その剛拳は、指一本でいとも容易く受け止められる。触れてすらいなかった。遮るものは何もないのに、直前で身体が石になったかのように静止する。
ラヴィル自身、驚きを隠せない。腕の感覚はあると言うのに、見えない何かに掴まれているかのようにそれを動かす事が出来なかった。いや、動かしてはいるはずだった。しかし動かない。
「何だこれは……! 一体俺の身体に何をした!」
「何って……。妾は空間魔術を開いただけじゃが……」
空間という言葉に妙な引っ掛かりを覚えながらも、ラヴィルは魔術から抜け出す為に足掻く。
サリエルはその様子を哀れみの混じった眼差しで見つめながら、彼に近づいていく。
力の差は圧倒的だった。それはラヴィル自身、はじめから解っていた事だ。しかしそれでも、彼女に挑まなければならない理由が彼にはあった。
「……俺は一体、何なんだ?」
「んん?」
「兵士長に着任して間もなく、訳も分からん力によって地界に落とされ、あちらでの生活が定着しきった頃にこちらへと引き戻された――」
理不尽なまでの現実を、ラヴィルは嘆く。床には一滴、また一滴と水が落ちる。それが何なのか認識するのに、部屋の隅で怯えていたニコンとククリは幾秒かの時間を要した。大の男が流すそれは、かつての同僚であったニコンですら見た事がないものだった。
それでもなおラヴィルは、重々しい口調で言葉を紡ぐ。
「――俺は……俺達は、何なんだ。魔神の遊戯盤の上で踊る、駒だとでも言うのか? 答えてくれよ、知っているのだろう」
「それが、神の選択じゃ。ぬしに反論の資格はない」
縋るようなラヴィルの言葉も、しかしサリエルは冷たく突き放す。それでも彼が誓った決意は揺るぐはずも無かった。
サリエルは否定すらもしなかったのだから、むしろそれは彼の決意をより強固な物へと塗り固める事になる。
「俺は、帰らねばならない。地界には、家族がいるんだ……。もうすぐ二人目の子供だって、産まれるんだよ……っ! なのに、なぜ、魔神は……!」
ラヴィルは動くほうの腕を、床に叩きつける。己の無力さを、そして神の無慈悲さを、心の底から呪った。
それすらも、神の選択だと言うのならば――。
彼は一つの結論に至る。
「この世界に、神など要らん……」
だが、部屋には少女の無思慮な笑い声が響く。
「ぬし、面白い事を言うのう。神が要らん、か。ははは! ぬしが求めるのは、安寧ではなく混沌と無秩序だとでも言うのか!」
「何を莫迦な事を――」
安寧も無秩序も、生み出すのは神ではなく民衆だ。地球で長きを過ごしたからこそ、全知の魔術師でも知り得ぬものを、ラヴィルは持っていた。
「俺が生きていた安寧の世界に、神など何処にも居なかったぞ……」
その言葉が部屋に響くと同時に、サリエルの瞳の奥に微かな怒りの炎が灯る。




