伝承 - Ⅲ
「あ、アンドウ……! しっかりして!」
一瞬の出来事に、静寂に包まれた場に声が響く。
突如、虚空に現れた魔法陣から突き出た木の杭に、その場にいた誰もが唖然としていた。
だがニコンは、この魔術を知っている。富士の樹海にて、自身が師事する男を完封した元同僚。
『やたらと大広間が騒がしいから来てみたら……。一体、何に手こずっている』
『ラヴィル……! あんた、どうしてここに……』
ラヴィルと呼ばれたその男は、冷酷な雰囲気を纏いながら階段を下りてくる。その熊のような風貌に、多くの者が圧倒されつつも、安堵の息を漏らしていた。
ニコンは咄嗟に自身の手元に槍を再形成するが、その場から動けなかった。どこから魔術が飛んでくるか分からない、逃げ場のない恐怖に陥れられていたからだ。
『どうしても何も。私は元々ここ『ナージス』の兵士長だ。随分と留守にしたが――こちらに戻ってきてすぐに復職したよ』
『今あんたが何をしたか分かってるのッ?』
『罪人を、刺しただけだ――。なに、この程度で死にはしない。急所は外している。……それよりも、お前はそいつに加担しているのかい』
『ひっ……』
ラヴィルの右手に魔法陣が展開され、ニコンは恐れをなして一歩後ずさりした。
心の何処かで、情けないと思っていた。手の届くところにいる仲間を、助けることすらできない。
自身の無力さをニコンは悔やみ、歯を食い縛る。
『ゆるさない』
怒りに満ちた静かな声が、その場に響く。
儚げのある少女の声は、ニコンのものではない。その声と同時に、広間に流れ出したのは風だった。
それは当たり前のように自然を駆ける目に見えない風ではなく、魔力によって創られた、純白の気流だ。
『ん? 君は――』
『謝って』
灰色の髪をした少女は、魔力と共鳴し輝く宝石を備えた杖を手に、ラヴィルを睨みつけていた。
ラヴィルはその少女――ククリを知っていた。今となっては『ナージス』で唯一となってしまった、蒼眼を持つ魔界人。
それが彼女なのだから、有名になる事は避けられない。
ククリが生み出した純白の風は安藤を包み込み、やがて繭のように硬質なものへと変化する。
『ちょ、ちょっとあんた、やめなさい……! 相手は本物の兵士でしかも兵士長よ! 下手に逆らったら殺されちゃう……!』
ニコンはククリを止めようと声を掛けるが、ククリの視線は真っ直ぐにラヴィルの方を向いたままだった。
『随分と大きくなったじゃないか。ククリちゃん。私は今お仕事中なんだ。その男を渡してくれないかい?』
『ぜったい、嫌』
ラヴィルは優しく彼女に微笑みかけるが、ククリはそれに聞く耳を持たない。
彼は内心困惑していた。これが単なる賊の一人であれば、一瞬にして肩の付いていた事だというのに、相手は子供であり、“神の一族”と云われる稀少な存在だ。
迂闊な事をしてしまえばその噂は瞬く間に広まり、人々からの信頼は確実に失墜する。
国を守る兵である以上、国民からの信頼が失せるのは避けねばならない事だった。
『……困ったな。大きくなったとはいえ君もまだ若い。こんな事で自分の人生を棒に振るわけにはいかないだろう』
『子供扱い、やめて。ヒロキ、わたしを助けてくれた。わたしだけじゃなくて、パパとママも。守る理由、それだけでじゅーぶん』
『……やれやれ、困った子だ。今回は君に免じて見逃そう。ただし、真偽のほどは君の両親を取り調べて確認させてもらう。二人はついてこい。総員、持ち場に戻れ』
驚くほどあっけなく、ラヴィルは手を引く判断を下した。ニコンだけでなく、周りの野次も、兵士達もが、その結果に茫然としていた。
しかしすぐに、納得のいかない様子はありつつも、兵士や牢獄の看守達はそれぞれの持ち場へと散っていった。
『あ、あんた……。アンドウに何したの?』
ニコンの視線の先には、繭のようなものにぐるぐる巻きにされた物体があった。
『……止血。しばらくこのままで。とりあえずうちに運ぶ』
『運ぶってこれを……? 絶対怪しいわよ』
『大丈夫』
『何が――』
一体何が大丈夫なのか。ニコンはそれを尋ねようとしていたが、言い切る前に繭がふわりと浮かびあがった。魔術で生み出された風が、物質を持ち上げている。
それを無詠唱で行う事は、よほど魔術に熟達していなければ難しい事だ。それを歳がそう離れていない――それどころか歳下のようにも見える少女が軽々しくこなしている事実に、ニコンは驚きを隠せなかった。
『行こ』
ククリはそう言って歩き出し、ニコンはそれに従った。
***
またここに来た。
時間の止まった黄昏の空の世界。
吸い込んだものが宙に浮かび、シャボン玉のように虚空を飾る、夢のように朧げな世界。『アリュート』――。
なんとなく意識を向けてみれば、それに呼応するかのように泡はこちらに近づいてくる。やはり、トードルはここに居た。驚いているような、警戒しているような、何とも微妙な表情をしたまま、泡の中で静止している。
『ヴェルガ、いるんだろ。何の用?』
「…………」
僕が呼びかけると、ヴェルガは姿を現した。
いつものように、荘厳な雰囲気を纏って、怒っているのか鬼のような表情でこちらをじっと見つめる。
『ごめん』
毎度の事ながら怖いので、今回は先に謝罪しておく事にした。
「……? 何故謝る」
『いや、怒ってるかと思って……』
「何を」
『街で問題起こしちゃったじゃん。そこに居るトードルを助けたりさ』
「別にそんな事を気にしたりはしない。……だが、敵を増やす行動は好ましくはないな。今回お前を呼び出したのはそれを訊く為だ。なぜ、こいつを助けた? こいつはお前を殺そうとしたというのに」
『なんでと言われてもな……。それが、正しいと思ったからだよ。狂人については、暴力で片付けるんじゃなくて、もう少し調査をするべきだと思う。転移して間もない俺が言う事じゃないかもしれないけど……』
多重人格とまではいかないが、狂人だったトードルと、処刑寸前だったトードルが同一人物だとは思えない程に、彼の纏っていた雰囲気は正反対のものだったた。
死に直面した彼の心は、間違いなく助けを求めていた。
「……分からないな」
『そ。まぁこれから気をつけるよ。……てか、俺まだ生きてんの?』
最後に残っている記憶が正しければ、僕の腹部を木の枝のようなものが貫いていた筈だ。
一瞬で意識を失う程の怪我なのだから、間違いなく血を流しすぎている。
「……安心しろ。お前を殺させはしない。死にたいと言っても死なせん。それだけの使命をお前は背負っている」
『は?』
「お前は契約を経て、魔界人の運動能力をある程度奪っているはずだ。傷痕こそ残るがすぐに治癒するだろう」
『違う。何、使命って』
「……お前が、変えるのだ。破滅の結末に向かう、この世界の軌道を」
何を言うのだろうと思ったが、僕は知っていた。
街中を一人で歩いているときにも、同じような事を言われた記憶がある。これは宗教の勧誘だ。最近はそういうのが流行ってるのか。
ちょっと古傷が疼くが、乗せられてはならない。母さんからも気を付けろと強く言われている。
『あー、と。俺そういうの興味ないから……』
「これはお前にしか出来ない事だ。拒否は許さない」
中々強引なタイプだ。こういう時はこちらも強気の姿勢を見せねばならない。
『そう言って壺とか買わせるんだろ! 魔界にもあるんだなそういうの! 俺は自分しか信じないから!』
「……何を言っている。――そうかお前また、記憶に齟齬が生まれているな」
目の前にいるのがおっさんでよかった。
これが好みのちょっと小さめな女の子だったらどうなっていた事やら……考えるのも恐ろしい。
『記憶に齟齬もくそもあるか! 俺の記憶は俺の記憶だ!』
そう。だから、信じない事に決めた。
ニコンは一度も死んでいない。おかしくなっているのは、世界の方だ。
「やれやれ……。まぁ、今はまだいいだろう。それが、お前の力の根源なのかもしれないからな……」
『俺の魔術は保存と遺棄しか出来ないよ。現実の改変がどうとか言っていたけど、やっぱ信じられない』
「ふん……勝手にしろ」
ヴェルガと会うのはこれで三度目になるが、彼は厳つい顔をしているのに、混じり気のない白い髪をしているのに、どうして僕はこれほど親しげに彼と話せるのだろう。
普通だったら、目上の人には敬語で話すべきなのは分かっている。しかし、どうもサチュリと契約してから性格が一気に変わった気がする。
夏休み中なんて、コンビニの店員と弁当を温めるかどうかの応答くらいしか喋っていなかったというのに。我ながらやけに活動的になったように思えるのは、気のせいではないはずだ。
契約の影響か、単に無意識のうちに生きる事に必死になっているのか、今の僕には、それを知る由もなかった。
「……『ナージス』には“生まれ変わりの伝承”というものがある」
少し間を空けて、ヴェルガが口を開いた。
『……ニコンから聞いたよ。この土地で死ねば別の命として生まれ変わるとかなんとか』
「どう思う?」
『正直、信じられない』
「ふっ、だろうな。私もかつてはそうだった」
ヴェルガは微かに笑みを浮かべながらそう言った。
狂人達は理性を失ってもなお、最期に必ずこの街を襲うらしい。よほど説得力のある事例があるのかと思えばそんな事はなく、彼らの行動原理は一切不明のままだ。
『今は違うのか?』
「さぁな……。私はこの街の生まれだが、死んだ事などない。死後の事など知るわけなかろう。――だが『ナージス』に群生している巨大な樹木は、魔界で唯一の魔法樹だ。もしかしたら、死者の何かを運ぶ力もあるのかもしれないな……」
確かに、樹木から発せられる空気は、神秘的な温かさに満たされていたように思える。
本能的に心が安らぎ、安定感のある枝は自身が高所にいるように思わせないほどに僕達の歩みを受け入れた。
理性のない狂人達が導かれるのも自然な事なのかもしれない。本能が安らぎを求めているのだ。
『そうだ。ヴェルガは《インセニル》について何か知っているのか?』
「……残念ながら、私が知っているのは彼らが理性を失った動物であるという事だけだ。彼らの行動は、この世界の結末に干渉しない。ゆえに、元より興味すらない」
『そっか……。つかさ、以前もそうだけど。運命だとか世界の結末だとか、ヴェルガは未来視でも出来るのか?』
「ああ」
冗談交じりに尋ねたら、真面目に肯定されるのだから返す言葉が見当たらない。
『そんな壊れた能力があるんなら……なんでこんなところに独りでいるんだよ』
「私が生きていたのは二五〇年も前の時代だ。あの世界に留まっていたら寿命で死ぬ。他にも理由はあるが……教える必要もあるまい」
『えー、気になるじゃん』
「……救いたかったのだ。魔界を、そして“神域”という名の監獄に囚われたアルカを――」
意外とあっけなく教えてくれるもんだ。
アルカは、魔神と呼ばれる魔界の絶対的な存在。赤髪の、悲しい眼差しをした少女。
『“神域”って何なの? そのアルカって子も、夢の中で何度か会ったことあるよ』
「――何だと? 今、なんて言った?」
『いやだから。夢の中だけど――』
「会ったのはいつの夢だ! 彼女はどうしていた!」
ヴェルガの表情が驚きに満ちたものに変わった。
僕の視界にずいと近づいてきて、迫力と焦燥感の入り混じった声で、僕にいくつもの質問を投げる。
『いや、会って話までしたのはつい最近だけど……』
僕はヴェルガに伝えた。
朧げな彼女の姿をずっと昔から、時折夢の中で眺めていた事。
彼女に手を伸ばしても、それはすり抜けて届かない事。
「して、その夢は……サチュリと契約する前にも見ていたという事か……」
『うん。そうなるな。くっきりはっきり見えたのは、サリエルが地球に転移した時かな……』
あと一回、いつぞやのタイミングで見た気がしたのだが、どうも思い出せない。
ヴェルガは茫然と、何かを考えている様子だった。
「……彼女は、元気だったか?」
『……いや。強がってはいたけど、顔は窶れてたし……泣いてたよ』
「そうか……」
ヴェルガは顔を伏せ、黙り込んでしまった。アルカの事を考えているのだろうか。
彼の哀しげな横顔を、沈む寸前で動きが止まった夕日の光が照らしていた。
しかしすぐに、いつものような荘厳な顔付きに戻り、こちらを見る。その表情には、今までにない強い決意も加わっていた。
「奇跡の子よ、驚かずに聞いてほしい事がある。――君は、私の生まれ変わりかもしれない」
『いや、それはない』
「そう言うだろうな。だからこれは私から、安藤君に向けての、後生の頼みとして聞いてほしい。……この世界――破滅という結末を決定付けられた魔界を、救ってくれ……!」
ヴェルガは以前、“運命の壁”を乗り越えられるのは僕だけだと言っていたが、それは嘘だろう。
なぜならこの日、彼の言葉によって、僕の運命は大きく傾く事になるのだから。
それとも、そうなる事は既に決められていたとでも言うのだろうか。
そうだとすれば“運命”とやらを作っている人間は、とことん性格の悪い人間だと思う。




