壊れた世界 - Ⅱ
この街――『ナージス』の中心には、ひときわ高く聳える大樹がある。
幹の直径も群を抜いて広く、それをくり抜く形で造られたのが大樹の聖堂であり、僕達が向かっている場所だった。
「聖堂の入口は地上にはないわ。のぼるわよ」
「のぼるって……飛ぶのか?」
「まさか」
未だ呂律がうまく回っていない僕の問いに、ニコンはやれやれと言わんばかりの様子で右手を挙げながら答えた。
そして周囲を見渡し、道端にあった一つの看板を指差す。矢印が描かれていて、標識のように見える。
「この世界で魔界語が読めないってのはかなりのハンデね……」
そう呟きながら、標識の指す矢印の方向に歩き出す。
「今の標識は?」
「ついてくりゃわかるわよ」
ぬかるんだ地上は足場が悪く、大木にくっ付いた蛍のように光る電飾だけを頼りに、僕達は進む。
幸いにも道中で《インセニル》に遭遇することはなかった。地上にいた彼らの大半をニコンが一人で殲滅してしまったらしい。
途中、同一の標識に合わせ、何度か方向を変えながら進んだ先には、他となんら変わらぬ一本の大木が立っていた。
街の中心の大木ほどの太さこそないものの、建造物として利用しているだけあってその大きさには天を仰ぐほどである。首が痛くなりそうだ。
「あった。これこれ」
そう言ってニコンはずかずかとその樹木の入口の扉に手をかける。
――この世界には住居侵入に関する法がないのか……?
一抹の不安が残るが、僕も彼女の後をついて行った。
「お、おじゃまします」
「何言ってんの」
「え……? うわ、なんだこれ。すげえ」
どうやらその樹木は誰かの住居ではないようだった。中央に立つ一本の柱と、その周囲に設置された螺旋状の階段が僕の目に映る。壁面には暖かい光を放つ電燈が点々と続いていた。
その景観の美しさに僕はしばらくの間、目を奪われていた。
「誰もが宙に浮く魔術を使えるわけじゃないからね。この街にはいろんな場所に上層へ出るための階段が立ってんのよ。ここなら不意の攻撃にもある程度は対処できる。少し休みましょう」
「これ、樹を掘ってるんだよな……。作った人どんだけ器用なんだよ」
「ま、主柱は初めから刺さってるようなもんだし、業者にとっては手慣れたものなんじゃない? それよりも、あんたの世界の建築技術の方がドンビキよ」
「そういうもんなのかな……」
この世界では電気を微塵も使っていない。全てを魔術、あるいは魔力で解決している。
当然のように、僕が生きてきた世界では真似できない事だ。
それでもなお、文明においては僕達の方が上位にあると彼女は言う。
「特に“人を殺すための文明”はね」
付け加えられたその言葉に、僕は何も言い返せなかった。
***
「――ところで、まだあなたの名前をきいていないんだけど」
「あ」
螺旋の階段をのぼり始めた頃、不意にニコンに尋ねられた。
そういえばそうだった。僕はヴェルガから彼女の名前を教わっていたが、お互いに自己紹介をしていない。
「あたしはニコン。ニコン=サーニャよ。どういうわけかあなたの住んでいた地界の日本に転移して、言葉はそこで学んだ。……で、あなたは?」
「俺は――」
「…………?」
――あれ?
僕は誰だ。
「……安藤。そう、安藤 弘樹だ」
まただ。自身の名前が思い出せなかった。遊園地でも起きた現象――今のは特に酷い。
本当にこの年齢にして痴呆が始まっているんじゃないか? 不安になる。
「あ、その名前どっかで聞いたような……。《ノア》という言葉に心当たりある?」
「ああ……。まぁ……」
一応《ノア》のメンバーということにはなっているが、既に反旗を翻しつつあった僕は、答えを濁してしまう。しかしそれは、彼女には肯定として受け取られた。
「やっぱり! 道理で日本人のくせに片目の色が違うわけだ。……しかも、悪魔の契約者――でしょ?」
「悪魔……?」
「サチュリ=レクシリアの契約者が、あなたでしょう」
「……そうだけど」
――サチュリが悪魔?
確かに彼女の力は尋常ではない。それは、初めて出会った日から分かっている事だ。
だけど、それは悪魔と形容するようなものではない。
「気の毒ね」
「……そう思ったことはないな」
「そう。……それで、その契約者様はどこに?」
「それが……わかんないんだよ。あっちの方角に居る事は分かるんだけど……」
そう言って僕はある方向を指差した。
その方角が東なのか西なのか、見当も付かない。
相当離れた場所だが、確かにサチュリはそこにいる。
「……ふーん、方向的にはあたしの行き先と同じみたいね。で、これからどうするの?」
「わからない……」
ただ昼も夜も無い暗黒世界で、誰とも円滑なコミュニケーションを取れず孤独に生きていくのは無理だろう。
いつか必ず何かが破綻し、狂っていく事は容易に想像ができた。
「そうでしょうね! 言葉も話せないんじゃどうしようもないもの。どうしてあなたがこの世界に転移したのかはわからないけど、ここで生きていく以上最低限の教育は受けるべきよ」
「そう、だよな……」
どうして彼女は――いや、この森の街で生きる人間も皆――地獄のような空の下、前を向きながら生き続けていられるのだろう。
だけど今は、彼女の――まだ年端もいかぬ少女のその真っ直ぐとした眼差しが、この世の何よりも頼もしかった。
「決まりね。アンドウヒロキ、これは上司としての命令よ。これからあたしは『タリュカス』へと向かうの。それに同行しなさい!」
螺旋階段の途中、先を進んでいたニコンはこちらに振り返り、両手を腰に据えた形で仁王立ちになりながら堂々と言い放った。
***
「……その『タリュカス』が、ニコンの故郷なんだな」
元々、無意識中の世界『アリュート』でヴェルガから聞いていた事だが、まだ彼の事を信用している訳ではない。ゆえに、確認の意味も込めて僕はそう尋ねた。
「……そうよ。最果ての都だとか、水の街だとか言われてるけど……今じゃただの錆びれた街ね。ま、都市部にはそれなりに人がいるけどね」
「その街から見える空も、こんな感じなのか?」
螺旋階段の途中には所々窓が開いていて、空を仰げば大樹の枝の隙間から空が見える。
でもその空は、墨をぶちまけたように真っ黒で――今は見えないが怪物の目玉のような赤い月が世界を照らしているのだろう。空気が少し赤みがかっている。
「…………」
ニコンは僕の問いに答えなかった。
しばらくずっと同じ景色が続き、やがて少し開けた場所に出る。
階段はまだ上へと続いていたが、壁面には外へ出るための扉がついていた。
「ふぅ、やっと着いたわね」
どうやらここから外に出るようだ。
ニコンが扉に手をかけようとした瞬間、何かに気が付いたかのように一瞬だけこちらを向き――。
僕は床に叩きつけられていた。それと同時に、それまで僕が居た場所を過ぎたのは、一本の矢である。
それは木の壁に刺さり、穴を開けていた。
「な、何――」
「待ちなさいッ!」
矢を撃った者は外したことを確認すると、階段を上へと駆けのぼっていく。
ニコンはすぐさまそれを追いかけていってしまう。
「ま、待て! ニコンッ!」
僕の呼びかけに応じる者はいない。
彼女は今日、死ぬ――。
ヴェルガの放った言葉が脳裏をよぎり、焦燥感が全身を包む。
考えるよりも先に、僕は駆け出していた。
「くそッ! もう見えねえ!」
階段を走りながら上の方を見るが、いつまで経ってもニコンの姿は見つからない。今日は人を探す事が多いな……。
『終わりだ。もう間に合わん』
頭の中に男の声が響く。ヴェルガだ。
「まだ……分かんないだろ!」
『今のお前では、“運命の壁”からは抜け出せないようだ』
「うるさいな! 俺にも分かるように喋ってくれよ!」
また訳の分からない事を言いやがって。さも知ってて当然のように喋る奴はどこの世界にも居るらしい。
だが、これ以上誰かが死ぬのは見たくなかった。
『それ以上進むのはよせ。お前の精神は結果を拒み、再び無意識世界に引きずり込むぞ』
ヴェルガの言葉を振り払い、僕は上層へと駆け続けた。
***
その頃、ニコンは奇襲を仕掛けた狂人の男を追い詰めていた。
「やっと追いついたわね……。観念なさい。さっきはアンドウのせいで逃したけど、今度はそうはいかないわよ」
「クィィィ……!」
その男は既に詰んでいた。しかし、ただ一つの生存本能に従ってニコンに弩を向ける。
「……させないわよッ! ――〈ニコンザイル〉ッ!」
ニコンはこの世で一つの蒼の槍を顕現せんと、自身だけが使える魔術の言葉を唱えた。
だが彼女の手元に、槍は現れない。
虚空には、本来槍が伸びてくるはずだった空の空間が浮かんでいるだけだ。
「えっ――! 〈ニコンザイル〉っ! ちょっと! なんで出てこないのッ?」
何度唱えようとも、その言葉は螺旋の樹木に響くだけだった。
殆どの思考能力を失っていた狂人の男にとっても、これが好機だという事は一目瞭然だったらしい。
「キヒィ……」
ニタァと冷たい笑みを浮かべた男は、彼女に向けて矢を放った。
「あ――」
その矢は真っ直ぐに、ただ一つの殺意を纏いニコンへと襲い掛かろうとしていた。
***
階段を登っていると、頭上に再び開けた場所が見えてきた。別の枝に繋がる出口があるのだろう。
「クソッ……どこまで行ったんだよ!」
以前と比べて体力が劇的に向上していると言っても、ひたすら階段を登り続けているのだから疲れるのは当然である。
階段の手すりを片手で握りながら下を覗くと、扉のあった階層までとはいえ、延々と階段が伸びているので気分が悪くなってきた。
「急がないと……」
肩で息をしながら、僕はポツリと呟いた。
あれからヴェルガは僕に何も呼びかけていない。頭に響く声は気分が不快になるので、好都合ではあるが。
一度呼吸を整え、再び走り出そうと姿勢を整えた時――。
――ぴちゃ。
水溜りを踏んだような音が、足元で鳴った。
「え――」
下を向くと、それまで土のような色をしていた樹の階段に、血が溜まっていた。
その血はぽたぽたと、階段を一段ずつ滴り落ちている。
まさか――。
嫌な考えが脳裏に浮かぶが、すぐに振り払った。
そうだ。既にニコンは勝利して、少々やり過ぎではあるが狂人を槍で突き殺してしまったのかもしれない。
これは彼の血なのだ。早くニコンと合流しないと。
自身にそう言い聞かせているのに、足が震えて動かない。確かめなければならないのに、本能は頑なにそれを拒む。
『進め。現実を、受け入れろ』
こんな時に、唐突に話しかけてくるんじゃねえよ……。
しかしヴェルガの言葉は僕の不安感を拭い、あるいは麻痺させ、背中を後押しした。操られているような、自分の意思で動いているような、不思議な感覚。
僕の足はゆっくりと、しかし一歩一歩確実に、ニコンの居る場所に向かっていた。
「あ……」
どうして。
どうして僕は、誰も護る事ができないんだろう。
僕がニコンに追いついた時、既に彼女は死んでいた――。
「あ、ああ……」
ニコンの腹部と脚部に一本ずつ矢が刺さっている。
戦ったのだ。戦って、負けたのだ。
床には、身体を引きずったような血痕が残っている。
戦って、必死に抵抗して、その末に息を引き取った。
「あああああぁぁぁァァァぁあァァァァァァ……ッ!」
何よりも、許せないのは――。
狂った男が、仰向けになったニコンの衣服を裂き、既に死んでいた彼女を犯そうとしていた事だ。
先程ククリの家で吸い込んでいた斧を〈白窓〉で排出する。
それを手に、背後からゆっくりと狂人に近付いた僕は、彼の首を斧で思いきり撥ね飛ばした。彼の血は周囲に飛び散り、僕の顔にも付着したが、それはどうでもいい事だった。
「ふざけんな……ふざけんな。俺はこんな“結果”、望んでなんかいない……!」
『受け入れろ。“運命の壁”は、常人には絶対に破れん。神が生まれるよりも先に存在する概念なのだ……。望む望まないの問題ではないし、それは現在の魔神にすら――』
「黙れェッ!」
受け入れない。これは、僕が見ている幻だ。
常人に破れない壁があるのなら――僕はそれを否定する為に――常人なんか、やめてやる。
右腕を掲げ〈黒窓〉を形成する。
『……正気を失ったか。屍を〈捕縛〉したところでそれの時間が巻き戻る訳ではないぞ』
ヴェルガの声は僕の耳には届かない。
なぜならこれは、僕の不安感が作り出してしまった“嫌な夢”だからだ。
『この世に絶対なんてない。仮にそんなモノがあるとするならば、僕は常軌を逸した力を以って、全力でそれを破壊しよう――』
『……むっ! 何だ、この魔力の流れは……。詠唱か?』
それまで、空間にぽっかりと開いた穴のように単調な見た目をしていた〈黒窓〉は、渦を巻き始めた。
――何かを吸い込んでいるのに、何も吸い込まない。
そこに存在する“絶対”に矛盾を生じさせる、限界を逸した吸収の魔法。
そう、名付けるならば――。
『――〈深淵〉』
吸い込んだのは、“気に食わない現実”。
ニコンが殺されたという結果――絶対と言われていた“運命の壁"を、乗り越えるのではなく破壊した。
しかし、魔法を発動したと同時に、頭部に重々しい衝撃が走り――僕は意識を失った。




