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「はあっ、はあっ、ぜいっ、はあ!」
荒い息を繰り返せば、上手く動かせない肺が痛む。気管支が弛緩して息も上手く吸えない。
「ここどこだよ、誰か、だれかあああ」
涙と鼻水で喉が詰まる。手が震える、足が震える。この場所から逃げ出したくてたまらない。最近何かがおかしい。オカルト的なことなど今まで何もなかったし、信じてすらいなかった。少年は今までの平穏を思って、膝を着いて頭を抱えた。
少年、飾丸龍平は、特にこれと言った特徴のない平凡な高校生だった。優しい両親に、最近生意気になってきた弟といった家族構成、中の中である成績。可もなく不可もなくな容姿。
そんな彼であるから、大方の人間がそうであるように、不思議な事とは無縁に生きて来た。何もない所で物が倒れれば風だと思うし、お化け屋敷にいるお化けは大学生のバイトだと信じて疑わなかった。信心深いわけではないが正月は初詣に行くし、修学旅行では神社仏閣の観光は適当に楽しむし、なんならキリストの誕生日も祝うし、外国のお盆的なイベントも楽しんでいる。
そんな彼だが、高校に入学してから不思議なことに遭遇することが増えた。
中学の時からの友人に言ったら馬鹿にされ、それ以来一人耐えてきたのだが、最近は変な夢を見るのだ。怖くて眠るのを避けて来た龍平だったが、眠気に耐えかねて今この状態である。
「夢なら醒めてくれよおおおどおしたら良いんだよおおお」
周りは真っ暗で、周囲の景色に見覚えはない。ただ、既視感はあった。今いるのは、小中高と見慣れて来た、学校によくある廊下のようだ。気が付きたくなかったが、ここは何処かの学校らしい。窓から入ってきた月明かりが、廊下に反射して朧げな光を放っている。
体に纏わりつく空気が重く、じっとりと淀んでいる。合わぬ歯の根の間から、情けなくも細い呼吸が漏れ、その音が耳に着いて響いた。
「……ひゅ、ひゅー、はっ、どうして、がっこ、がっここわいぃ……、むり」
ぼろぼろと涙が止まらない。不意に、気配を感じた。自分の背後に、何かがいる。
振り向きたくない、気付きたくなかった。ただ、振り向かずにもいられない。ぞわぞわと這いずる怖気を抑え込み、ゆっくりと振り向く。
廊下の向こう側から、黒く大きな影がこちらを見ていた。
「ひぎゃああああああああああああああああああああああ!!!」
「でっけえ声だなあ、おめえ」
「ふぎゃああああああああああああ!!」
大きな影に驚いて悲鳴を上げ、振り向いて背後にいきなり現れた人影に悲鳴を上げた。しかし、目の前に現れた人間は、よく見れば見覚えのある男だった。中学校からの持ち上がりも多く、そうでなくても地元の人間が多い中で、遠方から越してきた、嘘みたいに見眼の良い同級生だ。線が細く端正な見た目に反して、その口調は荒っぽい。
自分の夢の中に何でこんな美形が現れたのか、そんなに絡みもしていない為不明ではあるが、あまりの恐怖にその存在が天使か何かに見える。龍平は鼻水を垂れ流したまま、現れた少年に泣きついた。
「うおっと!鼻水着けんなよ汚ねえなあ」
「うえええええん怖いよおおお」
イケメンに何か言われたが、そんなもん知るかと言わんばかりに無視だ。もう絶対に離さない。その意気込みが伝わったのかわからないが、イケメンこと吹雪は溜息を吐いて、己の腰に纏わりついている同級生の頭を撫でた。
「どうして此処にいるんだ?ちょっと悪いが、目ェつぶっててな」
頭を撫でていた手が目の前に降りてきて、柔らかく視界を塞いだ。こんな状況で悠長だなと感じたが、どうせ夢の中なのだからこんなものなのかもしれない。龍平は大人しく目を閉じた。吹雪の掌はひんやりとしていて、泣いて腫れぼったくなった目に丁度良い。
「んん、波長が合ったみてえだな。霊感が強いのか」
「ひえ!?俺霊感なんてないよ!」
「なきゃこんなとこに迷い込まねえよ」
手を外して事も無げに否定をしてくる吹雪の顔は、呆れたものだったがやはり美形だった。美形は無条件で怖いと思うのは何故なのだろう、と龍平は思ったが、縋り付く手を離す気にはなれない。
「……そろそろ離さねえか?」
「やだ見捨てないで!」
「見捨てねえから離せ、動きずれえんだよ」
「やあああ」
「……」
駄々をこねまくれば頭上から呆れた溜息が聴こえた。自分の夢なのだから飽きられようが嫌われようが構わない。ただ一人にしないで欲しい。例え夢だとしても、ずっとこれではメンタルが死ぬ。龍平は自分が耐えられない自信があった。地獄に仏とはこのこと。決して離さないと誓ったのだ、どうか諦めて欲しい。
そう思って仏の腹部を締め付けていると、仏こと吹雪は龍平の肩を軽く叩いて言った。
「歩けないから。離れたくねえって言うならおぶってやるからいったん離せほんとに」
「ま、まじで?離させる為の方便だったりしない?」
「しないしない」
そんな会話をしながら恐る恐る手を離せば、本当におんぶをしてくれた。離れたくないのでここぞとばかりに甘えておくことにする。どうせ夢だ、構うものか。
迷いのない足取りで吹雪は廊下を進んでいく。足音が殆どしないのは、やはり夢だからだろうか。
「なあ……、えっと、名前何だっけ、同級生だよな?」
「そうだよ、俺は飾丸龍平。世話になるよ氷河君」
「呼び捨てで構わねえよ。氷河でも吹雪でも好きな方で呼んでくれ。俺は龍平って呼ぶ」
「じゃあ、俺も吹雪で。で、吹雪は何でこんなところにいるんだ?」
「切り替え早いな、お前。……今日は下見。もう夜明けだから、これ以上の干渉は難しいだろうな」
「……下見?」
「そう。お前以外に人はいないのか」
「……どうかな?俺、ここで会ったのは吹雪が初めてだよ」
「そおかあ」
のんびりとした返しに、龍平は自分が落ち着いているのを感じた。先程まで早鐘を打っていた心臓が鼓動を元に戻していくのと同時に、呼吸も戻って行き、先程まで気が付かなかったことにも気付く余裕が生まれた。
吹雪の体は何処かひんやりとしている。体温をほとんど感じないその事実に気が付いて、背筋に冷たいものが走った。なまじ知り合いだったからこそ、無条件に安心感を得てしまったが、そもそもこんな場所に知り合いが来るだろうか。
廊下の向こうの深淵に、あの得体の知れない化け物がいる。
ここにいるのが本人だと、その証拠はあるのだろうか。見慣れたマフラーとその白い横顔に、視線を向ける。このまま着いて行って、果たして帰れるのだろうか。
「……吹雪」
「なに」
「……ほんとに、ふぶき?」
「……」
問い掛ければ、返って来るのは沈黙だった。白い頬が僅かにこちらを振り向き、弓なりに吊り上がった面白そうな笑顔が広がる。収まったはずの鼓動が再度早鐘を打ち、喉がカラカラに乾いて血の気が引いた。
「……どう思う?」
3つ並んだ紅い目が、龍平の顔を覗き込ん、で。