第8章
牧が物語を書きあげた時、突如聞き慣れない音が白い洋館の中に響き渡った。
「ボーン、ボーン」
牧は最初何の音だろうと思ったが、そのうち階下にある振り子時計のことを思い出した。そんな馬鹿な。あの振り子時計は壊れていたはずなのに。彼女は慌てて階段を下りると、玄関ホールにある振り子時計を見つめた。
「動いた…」
牧は目を丸くして呟いた。時計の文字盤は、以前見た時は四時十分を指していたが、今は十二時ちょうどを指していた。なぜ急に動き出したのだろうと思ったが、その一方で振り子時計がまた動きを止めてしまったことに牧は気がついた。
彼女はとっさに二階へと駆け上がると、例の銅の鍵を持ち、再び下へと降りて行った。そうして青の部屋へと行くと宝箱を開け、あの不思議な紙切れを手に取った。すると紙切れにはこんな文字が浮かんできた。
『私を城の塔から出してくれて、ありがとう。本もたくさん読めるし、素敵だわ。本当にありがとう』
ガラルータ国の王女からの言葉だった。牧は跳び上がらんばかりに喜んだが、その文字は徐々に消え去り、何事もなかったかのようにただの紙切れに戻った。
牧は急に寂しさを感じるのと同時に、あることを悟った。もう物語は終ってしまったのだ。物語が終わったということは王女からの言葉も届かないし、私がこの洋館に来る必要も、もうないのだ。牧は紙切れを宝箱の中に戻し、鍵も戻すと、完成した本をいつもと変わらない場所に置き、誰も来なかったかのように、そっと白い洋館を後にした。
それからしばらくの間、牧は自分の中身がすっかり空洞になってしまったようなひどい喪失感に襲われていた。まるでそれは、物語を書くために自分の心の一部を削りとってしまったようにも思えた。全てが物憂く、何もやる気が起きない。その一方で、彼女の頭の中では、同じ言葉が繰り返されていた。
『終わってしまった、終わってしまった、もう物語は』
こだまのように、その言葉が鳴り響くなか、ふと目をつぶると浮かんでくるのは、会ったこともないガラルータ国の王女の姿だった。
どんな王女だろうと、思いを巡らせ物語を書き進めるうちに、牧は王女に親近感を持つようになっていた。それは同級生の友達に対する感情にも似ていたが、自分と同じように本好きな王女は牧にとっては特別な存在になっていた。
そして何よりも、あの不思議な紙切れには、自分の空想の産物ではなく、本当の王女の言葉がのっていた。実際にいるのに、言葉を交わすこともできない。牧は何もかもが終わってしまったことを頭では分かってはいたが、王女からの言葉をもう一度受け取れないだろうかと思っていた。
数日後、牧の足は白い洋館に向かっていた。特に用はなかったが、牧の胸には王女から言葉が届いていたりしないだろうかと淡い気持ちがどこかにあった。いつものように林の茂みを抜けると、白い洋館は牧を迎えてくれた。
中央のガラス張りの扉も、置かれたままのティーカップも、全くいつもと変わらない。牧は居間を抜け、二階に行き、例の鍵を取ってきた。そうして一階の青の部屋に行くと、ベッドの下にある宝箱を開けた。
牧は中に入っている紙切れをまじまじと見つめた。紙には何も書かれていない。また文字が浮かんでこないだろうか、牧はしばらくの間、じっとそれを待ち続けた。けれども、待てども待てども、紙には何の変化も見られなかった。
がっかりした牧は立ち上がると、二階の書斎の部屋へと向かった。机の上には牧が書きあげた物語の本がのっている。彼女は呆然とその本を見つめた。開かれたページの最後の言葉は『めでたし めでたし』で終わっている。
「ちっともめでたし、めでたしじゃない」
牧は不服そうに呟くと、その言葉を恨めしそうに眺めた。それから少しして、牧はあることを思いついた
「あっ、そうか。ここに書いてしまえばいいんだ」
彼女は机の上に置いてある鉛筆を使って、『めでたし めでたし』の後にこんな言葉を付け加えた。
『牧はガラルータ国の王女と会った』
牧はそう書くと、一目散に下の青の部屋へと行くと、あの白い紙切れを食い入るように見つめた。
きっと何かしらの言葉が出てくるに違いないと、期待を胸に見つめていたがいつまでたっても、文字は浮かんでこなかった。牧はあきらめると、いつものように紙切れを宝箱にしまい、鍵を本の中へと戻した。そうして、白い洋館を後にした。
その夜、牧は自室のベッドで眠りに落ちると、一つの夢を見た。牧が目を開くと、辺りは真っ暗で何も見えなかった。自分はいったいどこにいるのだろう。
牧は見えないながらも、そろりそろりと歩いた。歩いていくうちに、目が慣れてきて、たくさんの本棚が並んでいることに気がついた。図書館なのだろうか。そう思った時、遠くの方でぼんやりとした灯りがともっているのが見えた。牧はその灯りに誘われるように、歩いて行くと閲覧用の大きなテーブルに出くわした。灯りはそのテーブルの上に置かれているろうそくの灯だった。テーブルの上にはたくさんの本が置いてあって、その中の一冊を貪るように読む少女が椅子に座っていた。ピンクのドレスに長い金髪、色白の肌に優しげな茶色の瞳。牧ははっとした。
「あなたはガラルータ国の王女ね」
牧が叫ぶと、王女は読んでいた本を静かに閉じて椅子から立ち上がった。
「あなたはここに来るべきではなかったのに。なぜ、来てしまったんですか」
優しげな瞳とは裏腹に、厳しい口調で王女は言った。
「そんな…。だって私は王女に会いたかった」
牧は戸惑った表情を浮かべた。
「あなたはこの世界の人間ではない。それに終ってしまった物語は開けてはならなかったのです」
思わず、なぜという言葉が牧の口からついで出そうになったが、王女があまりにも哀しそうな目で見つめるので言うことができなかった。
「私達、もう終わりだわ」
「終わり? 終わりってどういうこと」
牧は不思議そうに王女に訊こうとした、その時。牧の足下がぐらりと揺れ、慌てて下を見ると、あるべきはずの床はなく真っ暗な穴だけが待ち受けていた。
「うわあっ」
叫び声とともに、牧はベッドから転がり落ちると、今までのことが夢であったことを知った。自室の部屋の時計を見ると、夜の十二時を指していた。一瞬脳裏に、白い洋館にあった振り子時計のことが思い出された。
「また十二時」
そんな言葉を呟きながら、再びベッドに入って寝ようとした時、外の様子が妙に騒々しいことに気がついた。人の声や、けたたましいサイレンの音がすぐ近くで聞こえてくる。牧は自室の窓をがらりと開けて、外をのぞいてみた。
「近くで火事みたいだけど、大丈夫かしら」
「私達も避難した方がいいのかしら」
「林の向こうが火事らしいぞ」
「林だったら燃え広がったら大変よね」
パジャマ姿で、慌てて出てきた近所の人達がこれは一大事と大きな声で話し合っている姿が牧の目に留まった。
「林…」
今度は慌てて牧が自室を飛び出し、二階の階段の側にある窓を勢いよく開けた。そこからの窓でないと、牧の家からは、林のある方角は見えない。見ると、林の向こうで赤いちろちろとした火の手が上がっている。そこからではどれくらいの規模の火事なのか、全く分からなかった。方角が方角だけに牧は白い洋館がどうなっているのか、とても心配になった。牧は夜に家を抜け出すわけにも行かず、しきりに気をもみながら、夜を過ごさなければならなかった。
翌日、牧は学校が終わるとすぐさま林の茂みに駆け込んだ。いつもと変わらず薄暗がりに包まれた中を一人走りながら、牧は辺りを窺った。手前の林の木々は、特に燃えた様子はなかったが、白い洋館が徐々に近づくにつれて枝や幹のこげた後がところどころ見られた。
『ひょっとして…』
そんな思いがよぎると、牧の足は速まった。不安を押しのけ、駆けに駆けて、林の向こうにたどり着いた牧が見たものは、いつもの白い洋館ではなく、全てを火に焼きつくされた黒い残骸だった。残っているのは崩れ落ちた柱が数本のみで、白鳥を思わせる美しい姿はどこにもなかった。洋館の周りには、警察の現場検証のためか、人が立ち入らないようにテープが張られていた。
「ああっ」
目を覆いたくなる光景を目の当たりにして、声にならない声が牧の口元からこぼれた。惨めな気持ちと、墨となってしまった洋館が折り重なっていく。
『終わりって…。こういうことだったの』
目をしばたたきながら、牧は呆然と辺りを見回した。テープの向こうの見るも無残な洋館の跡は、今までのことを全て打ち消すには十分すぎるものだった。
『何もかも。何かも、燃えてしまった。ここには、もう何もない。私が書いたあの本も、燃えてしまった。今まであったことは、全て消えた。王女の言うようにおしまいなんだ』
牧は暗い目つきで、洋館の残骸を見つめていた。
皮肉なもので、白い洋館が火事になったせいで、皆に訊いても分からなかった洋館のことが、たちまちのうちに噂になった。噂によれば、持ち主はイギリス人の家族連れで、日本で仕事をしていたが、イギリスに戻るということで、もう何十年も空き家になっていたという話だった。牧は、洋館は自分にしか見えない幻か何かなのだろうかと、思うこともあったが、この火事で、洋館は実際にあって、夢でも幻でもなかったことが分かった。
けれども、何十年も空き家だったというのは、嘘にちがいない。開け放たれていた扉に、飲みかけのティーカップ、牧の見た情景が今もまざまざと蘇る。あれが夢だったというのは、牧の中では、やはり信じられなかった。
それからしばらくして、牧はもう一度だけ、白い洋館の跡を訪れた。火事の翌日ではテープが張られていて、洋館の敷地内に入ることができなかったが、今は全てはずされていた。牧はそっと入ると、墨になってしまった壁や廊下や、以前は見事な調度品だった残骸の中を、熱心に歩き回った。
彼女は洋館の中であったことを証明する何かが残っていないだろうかと思った。しかしどこを見ても、黒く焼き焦げた木片が辺りに転がっているだけで、それらしいものは、何も見つからなかった。きっともう、何も残っていないのだと、牧が諦めかけたその時、ふと足下を見ると、小さな物が落ちていることに気がついた。拾いあげてみると、それはあの宝箱の鍵だった。この鍵だけは、焼き焦げることもなくあの時の姿のままだった。牧は思わず、その鍵をぎゅっと握りしめた。
『これは私だけの秘密の鍵。白い洋館のことはこの鍵で、私の心に閉じ込めておく。物語のことも、王女のこともすべて』
そう思った瞬間、牧の目から涙があふれ出た。決意と哀しい気持ちがないまぜになった彼女は、急にわっと泣き出すとその場にしゃがみこみ、しばらく泣き続けていた。
季節は確実に夏に終わりを告げ、冷たい風の吹く秋へと変わっていた。