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第十話「だから、女禁止と書いた」

 朝食のあと、アシュは洗濯物を集めていた。


 台所、居間、寝室。

 使った布巾、寝具のカバー、リゼラの普段着。


 この家は、最初に比べればかなり整ってきた。

 それでも、物の扱いに妙な偏りがある。


 剣は完璧。

 鎧も完璧。

 手入れ道具も、今は場所を決めたので使いやすい。


 ただ、普段着は雑だった。


 畑仕事用の服は、畳まれているというより、まとめて置かれている。

 袖口は擦れている。

 裾も少しほつれている。


 汚いわけではない。


 ただ、リゼラが自分の服にあまり興味を持っていないのは分かった。


「リゼラさん」


「何だ」


「この服、洗いますね」


「ああ」


「ほつれているところもありますけど」


「まだ着れるが?」


「まだ着れる、で全部押し切るのやめません?」


「破れてはいない」


「破れる手前です」


 リゼラは少し考えた。


「なら、まだ破れていないじゃないか」


「その判定、戦場基準ですよね」


「服は動ければいい」


「家でもですか」


「……家でも、だな」


 アシュは畳まれた服を見た。


 リゼラ本人も、少しだけ言い方に引っかかったようだった。


 けれど、すぐに顔を戻す。


「必要なら直せ。普段着は任せる」


「はい!」


 アシュは少し嬉しくなった。


 任せてもらえる範囲が、少しずつ増えている。


 ただ、全部ではない。


 そのことは忘れてはいけない。


 洗濯物を分けていると、古い木箱の中に、布が一着入っているのが見えた。


 普段着ではない。


 畑用でもない。


 濃い色の、古い軍服だった。


 かなり丁寧に畳まれている。

 生地は少し傷んでいるが、雑に扱われてはいない。


 袖口に補修の跡がある。

 ただ、補修は途中で止まっていた。


 糸の色も少し合っていない。


 アシュは手を止めた。


 触ってはいけないものだ。


 すぐ分かった。


 剣と同じだ。


 リゼラの大事なもの。


「リゼラさん」


「何だ」


「この服、見てもいいですか」


 リゼラの表情が変わった。


 分かりやすいほどではない。

 けれど、部屋の空気が少し硬くなった。


「……軍服か」


「はい。箱に入ってました」


「捨てるなよ」


「捨てません」


 アシュは即答した。


「勝手に洗いません。勝手に直しません。見るだけでも嫌なら、戻します」


 リゼラは黙った。


 アシュは軍服から手を離している。


 触らないまま待った。


 しばらくして、リゼラが近づいてきた。


 木箱の前で立ち止まる。


「触っていい」


「いいんですか?」


「ああ。ただし、雑には扱うな」


「はい」


 アシュは軍服をそっと取り出した。


 思ったより重い。


 生地が厚い。

 飾りは少ないが、作りはしっかりしている。


 袖口と肩に傷みがあった。

 たぶん、何度も同じ動きをしたせいだ。


 ただ、手入れはされている。


 捨てずに残していた理由が分かる気がした。


「これ、かなり大事な服ですよね」


「昔のものだ」


「騎士団の?」


「ああ」


 リゼラは短く答えた。


 それ以上は言わない。


 アシュは軍服のほつれを見た。


 直せる。


 完璧ではないが、今よりはよくできる。


 ただ、勝手にはやらない。


「補修、してもいいですか?」


 リゼラはアシュを見た。


 少し驚いた顔だった。


「聞くのか」


「聞きます」


「普段着は勝手に直すのに」


「これは普段着じゃないので」


 リゼラは答えなかった。


 アシュは続ける。


「大事なものですよね。なら、僕が勝手に手を入れるものじゃないです」


 リゼラは軍服に目を落とした。


 長い沈黙があった。


「前の家政婦は」


 リゼラがぽつりと言った。


「これを見て、もう着ないなら仕舞い込むより処分した方がいいと言った」


 アシュは黙って聞いた。


「別の女は、もっと明るい服を着れば、女らしく見えると」


 リゼラは淡々としていた。


 怒りを出してはいない。


 それでも、言葉の端に残っているものはあった。


「私の服なのに、私のためではなく、誰かにどう見えるかで話された」


 アシュは、少しだけ息を止めた。


 女禁止。


 その理由の一つが見えた気がした。


 家政婦という仕事が嫌だったわけではない。


 女が嫌いという単純な話でもない。


 リゼラは、家の中まで「女らしく」「嫁に行けるように」「普通に」と言われることに疲れていたのだ。


 アシュは軍服を見た。


「捨てるには、まだ早いでしょう」


 リゼラはアシュを見た。


 アシュは少し照れたように笑う。


「僕には、そう見えます」


「まだ着るわけではない」


「着なくても、残していいと思います」


「理由がなくてもか」


「ありますよ」


「何だ」


「リゼラさんが捨てたくない」


 リゼラは少し黙った。


「それだけで?」


「はい。それだけで十分ですよ」


 アシュは軍服の袖口をそっと持った。


「直していいなら、目立たないように補修します。糸の色も、なるべく合わせます。変に飾ったりしません」


「明るい布を足したりは」


「しません」


「女らしくも」


「しません」


「……そうか」


 リゼラは、少しだけ肩の力を抜いた。


「なら、頼む」


「はい!」


 アシュの顔がぱっと明るくなった。


「任せてください。こういうの、好きです」


「嬉しそうだな」


「嬉しいです。大事なものを任せてもらえたので」


「大げさだ」


「僕には大きいです」


 リゼラは困ったように視線をそらした。


 最近、アシュが嬉しそうにすると、リゼラは少し弱い。


     *


 アシュは裁縫道具を出した。


 針。

 糸。

 小さな鋏。

 当て布。

 布地に合う色の糸を何本か。


 リゼラは向かいの椅子に座り、黙って見ている。


 見張りというより、落ち着かない人の座り方だった。


「そんなに心配ですか?」


「心配ではない」


「では?」


「……気になる」


「それは心配では」


「気になるだけだ」


「じゃあ、気になるで」


 アシュは笑った。


 軍服の袖口を見る。


 傷みはあるが、完全に駄目ではない。

 強く縫いすぎると、生地が引きつる。

 弱すぎると、また開く。


 目立たないように、でもちゃんと持つように。


 アシュは針を通した。


 リゼラはじっと見ている。


「細かいな」


「服なので」


「鎧なら、傷んだ金具は替える」


「布は替えすぎると、別の服になります」


「なるほど」


「軍服は、残すところと直すところの加減が大事です」


「剣と似ているな」


「そうかもしれません」


 リゼラは少しだけ納得した顔をした。


「傷を全部消すわけではないのか」


「消しません。そこまでやると、リゼラさんの服じゃなくなりそうなので」


 リゼラは黙った。


 アシュは慌てて顔を上げた。


「あっ、すみません。勝手なこと言いました?」


「いや」


 リゼラは軍服を見たまま答えた。


「それでいい」


 アシュは少し安心した。


「よかった……」


「すぐ顔に出るな」


「出ます。今、かなりほっとしました」


「そんなに緊張していたのか」


「しますよ。リゼラさんの大事なものですし」


「お前は、そういうところがある」


「そういうところ?」


「人の大事なものを、大事にできる」


 アシュは針を持つ手を止めた。


 胸の奥が、少し温かくなる。


「……それ、褒めてます?」


「褒めている」


「わ」


「何だ」


「今の、かなり嬉しいです」


「そうか」


「はい。えへへ……」


 リゼラは困ったように口を閉じた。


「その笑い方はずるい」


「ずるいですか?」


「怒りにくい」


「怒る予定だったんですか?」


「照れた時は、少し怒った方がまだ楽だ」


「言っちゃうんですね」


「……今のは忘れろ」


「覚えておきます」


「忘れろ」


 リゼラは顔をそらした。


 アシュは笑いすぎないようにして、また針を動かした。


     *


 補修は、時間がかかった。


 大きく破れているわけではない。

 だからこそ、雑に直すと目立つ。


 アシュは、傷んだ部分に小さく当て布を入れた。

 色はできるだけ近いものを選ぶ。

 表に出る縫い目は少なくする。


 リゼラは途中で何度か立ち上がった。


 近づいて、見て、また座る。


 落ち着かないらしい。


「見てもいいですよ」


「邪魔になる」


「近くで見るくらいなら大丈夫です」


 リゼラは少し迷って、アシュの横に立った。


 近い。


 アシュは少し緊張した。


「どうですか?」


「……分からん」


「分からないですか」


「悪くないのは分かる」


「それならよかったです」


「ただ、私には細かすぎる」


「リゼラさんなら、縫うより革紐で縛りそうです」


「できるのか」


「やらないでください」


「冗談だ」


「今の、一瞬本気に聞こえました」


「少し本気だった」


「やっぱり」


 リゼラは少しだけ笑った。


 この軍服の前で笑ったのは、たぶん今日初めてだった。


 アシュはそれが少し嬉しかった。


 補修を終える頃には、昼を過ぎていた。


 アシュは最後に糸を留め、余分な部分を切る。


「できました」


 軍服を両手で持ち、リゼラに渡す。


 リゼラはすぐには受け取らなかった。


 少しだけ、見ていた。


 それから、ゆっくり手を伸ばす。


「……変わっていないな」


 アシュは一瞬、不安になった。


「直し足りませんでした?」


「違う」


 リゼラは軍服を見下ろした。


「ちゃんと直っている。でも、変わりすぎていない」


「ああ……よかった」


 アシュはほっとして笑った。


「そこ、気をつけました」


「分かる」


「分かります?」


「ああ」


 リゼラは袖口を指でなぞった。


「ここは、昔、部下に掴まれた」


 アシュは黙った。


 リゼラは続ける。


「崖の下へ落ちかけたやつを引き上げた時だ。向こうも必死だったから、袖が裂けた」


 リゼラの声は穏やかだった。


 明るい話ではないはずなのに、嫌な思い出だけではないのだろう。


「そこも残っている」


「消さない方がいいかなって」


「なぜ分かった」


「なんとなくです」


「なんとなくで、よく外さないな」


「外してたら、謝ってました」


「素直だな」


「そこしか取り柄がないので」


 リゼラはすぐに顔を上げた。


「そこだけではない」


 アシュは瞬きをした。


「え?」


「お前の取り柄は、そこだけではない」


 リゼラは少しだけ言いづらそうに続けた。


「飯を作る。服を直す。寝具を整える。帳面もつける。あと、よく笑う」


「最後も取り柄ですか?」


「……たぶん」


 アシュは顔が熱くなった。


「わ……」


「すぐ嬉しそうにする」


「今のは無理です。嬉しいです」


「そうか」


「はい。すごく」


 アシュは照れながら笑った。


 リゼラは軍服で少し顔を隠すようにした。


「その顔を正面から受けると、困る」


「僕の顔ですか?」


「嬉しそうすぎる」


「すみません」


「謝るな。悪いとは言っていない」


 リゼラは軍服を木箱へ戻そうとして、手を止めた。


 しばらく考える。


 そして、椅子の背に一度かけた。


 箱には戻さなかった。


 アシュはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 言わない方がいいことも、少しずつ分かってきた。


     *


 午後、アシュは普段着のほつれも直した。


 今度はリゼラもあまり構えなかった。


 ただ、時々軍服の方を見る。


 椅子の背にかけられた古い軍服。


 それは、ただの古い服ではなかった。


 剣や鎧ほど目立たない。

 でも、リゼラの中では同じくらい大事なものなのかもしれない。


 夕方になって、リゼラは軍服を手に取った。


「アシュ」


「はい?」


「前の家政婦たちのことだが」


 アシュは手を止めた。


 リゼラは少しだけ言葉を選んでいるようだった。


「悪人ではなかった」


「はい」


「仕事も、たぶん普通にしていた」


「はい」


「ただ、私の家を整える時に、私まで整えようとした」


 リゼラは軍服を見た。


「女らしくしろ。嫁ぎ先を考えろ。怖い顔をするな。騎士のものは減らせ。明るい服を着ろ」


 淡々とした声だった。


「たぶん、親切のつもりだった」


 アシュは何も言わなかった。


「私は、それが嫌だった」


「はい」


「だから、女禁止と書いた」


 初めて、はっきり言った。


 アシュは静かに頷いた。


「分かりました」


「軽蔑するか」


「しません」


「女を一括りにするな、と言うか」


「言えません」


「なぜ」


「リゼラさんが疲れてたの、分かるので」


 リゼラはアシュを見た。


 アシュは少しだけ困ったように笑う。


「正しいかどうかは、僕にはまだ分かりません。でも、リゼラさんがこの家の中でまで普通を押しつけられるのが嫌だったのは、分かります」


「……そうか」


「はい」


「お前は、たまに妙にちゃんと聞くな」


「たまにですか?」


「普段はすぐ顔に出る」


「それは出ます」


「今も少し出ている」


「どんな顔ですか?」


「考えている犬」


「犬から離れませんね」


「嫌ではないだろう」


「最近、ちょっと受け入れてきました」


 リゼラは小さく笑った。


 アシュも笑った。


 重くなりすぎなかった。


 でも、大事なことは少し分かった。


 この家の「女禁止」は、ただのわがままではない。


 リゼラが自分のままでいられる場所を守るための、雑で、不器用な線引きだった。


     *


 夜、アシュは夕食の準備をした。


 豆と野菜のスープ。

 焼いたパン。

 少し厚めに切った肉。


 リゼラは食卓についたあと、椅子の背にかかった軍服をちらりと見た。


「箱に戻さないんですか?」


 アシュは、できるだけ何気なく聞いた。


 リゼラは少し考えた。


「少し、風を通す」


「はい」


「それだけだ」


「分かりました」


 アシュはそれ以上聞かなかった。


 夕食が終わったあと、リゼラは軍服を丁寧に畳んだ。


 以前より、ほんの少しだけゆっくりと。


 そして木箱へ戻す。


 蓋を閉める前に、少しだけ手を止めた。


「また、ほつれたら」


「直します」


 アシュはすぐ答えた。


 それから、ぱっと顔を明るくする。


「直していいなら、ですけど」


「聞けばいい」


「はい!」


「勝手に直すな」


「しません!」


「勝手に捨てるな」


「絶対しません!」


「勝手に女らしくするな」


「しません!」


 リゼラは少しだけ笑った。


「よし」


「合格ですか?」


「ああ」


「やった」


 アシュは小さく拳を握った。


 リゼラはそれを見て、困ったように言う。


「お前は、合格でそんなに喜ぶのか」


「リゼラさんの大事なものに関われる合格なので、嬉しいです」


「……そういうことを、すぐ言うな」


「出ちゃいました」


「知っている」


 リゼラは木箱の蓋を閉めた。


 でも、完全には押し込まなかった。


 少しだけ、開けやすいようにしている。


 アシュはそれに気づいたが、やっぱり何も言わなかった。


 今日、軍服は捨てられなかった。


 変えられもしなかった。


 ただ、少しだけ直された。


 リゼラの大事なもののまま、もう少し長く残ることになった。


 そのことが、アシュにはとても嬉しかった。


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