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壁の上  作者: 氷月涼
14/18

深咲:初潮

 朝、起きたら下着が濡れたような感覚があって、タンスの引き出しから下着をつかんで、あわててトイレに駆け込んだ。下着に赤い血がべったりついていた。お腹を下した時のような痛みもあった。

 ついに自分にも月経がきてしまった。ほとんどご飯も食べてなくて、栄養不良に限りなく近いから、自分には来ないと油断していた。母がトイレ内の棚に置いている生理用品をひとつ取り出し、履き替えた下着に当てがった。赤く染まった下着は浴室で手洗いして、洗濯機前に置いてある脱衣かごに放り込んだ。

 また横になろうと布団に戻ると、血はシーツまで通ってしまっていて、小さく赤い染みができていた。替えのシーツは押し入れを探したらあるのだろう。母が寝るまで待ってこっそり交換するのを優先するあまり、染みが落ちなくなっても嫌だ。それにたぶんすぐに母には伝えた方がいいのだろうと思った。

 母はいつものように台所で椅子に腰掛け、メガネをかけて新聞に目を通していた。わたしは母のそばに行って、すぐに言おうとしたが、言い出しにくくて、ただ立ち尽くしていた。

「どうしたの?」

 新聞を読むのをやめて、母がわたしを見る。

「シーツを……」そういうのがやっとだった。

「何? シーツがどうかしたの?」

 母は立ち上がって、わたしが使っている布団を見に行った。

「あー……ついに始まったのね」

 母に聞かれる前に、ナプキンで処理したことや下着を手洗いしたことを伝えた。

 母が敷き布団のシーツのジッパーを開けようとしたので、わたしはあわてて布団に戻って自分でやるから新しいシーツを取ってきてと言って母を遠ざけた。布団とシーツの間には大事な手紙がたくさんある。

 母は押し入れに新しいシーツを取りに行った。その間わたしは取り出した手紙類を汚れたシーツでくるんでおいた。新しいシーツをかけてくれた母が台所へ戻る隙に、すぐさまジッパーを開けて布団とシーツの間に手紙を隠した。

 その行為がバレてないか心配でちらっと母の方を見ると、母は穏やかにほほえんでいた。母は新聞をたたんで「こっちに来て座って」と優しくわたしを呼んだ。そんな優しい声を聞くことは久しぶりのことだった。わたしが学校に行かなくなってからは、そっけなく表情のない声ばかり聞いていた気がする。

「おめでとう。大人の女性への第一歩だね」

 笑顔とともに母からもらった言葉にわたしは面食らっていた。正直なところ、月経なんてきてほしくなかった。大人の女性にもなりたくないと思っていた。

 穏やかな表情で母はわたしに語った。それが自分の役割のように。

「お母さんね、女でよかったと思うの。仕事先であの人に出会えて、ふたりで子どもを作ることができて。事情があってあの人とは家族として一緒に過ごすことはできなかったけれど、それでもあなたはふたりの大切な宝物。お母さんはあの人を愛することができた。その想いがあるから、今、生きていけるの」

 確かに母は父を愛していたのだと思う。父の書いた小説の文庫本はガラス戸棚にきれいに並べられて大切にされている。母は時々ハタキがけをして、埃が積もらないようにしていたし、たまにガラス戸棚の前で立ったまま、愛おしそうに小説を読んでいるのも知っていた。

 その一方で母は若い男と一緒に過ごしているのも事実だった。

 どうして父との宝物であるわたしを置いてあの男と一緒に行くの?

 思っていてもそれを母には言えなかった。

「もう、寝るよ。お腹痛いから……」

 そう言ってわたしは母のいる台所から離れて、自分の基地である布団に潜り込んだ。


 その日の夕方、母が仕事に出た後で、わたしは母の寝室へ行った。ガラス戸棚の上段にしまってある父の書いた小説の文庫本。わたしは背伸びをして一冊取り出して、カバーの見返し部分にある著者の写真を見た。メガネをかけ、頬杖をついた横顔。亡くなるどれくらい前の写真なのだろう。三十代くらいに見えた。しばらくその写真をじっと眺めても、父という実感は何も湧いてこない。ひたすら遠い存在。

 一度も父の小説を読んだことはなかったが、ふと読んでみようという気持ちになった。わたしはその場で文庫本の頁をめくった。そしてすぐにハッとした。

 目次の隣の頁に丁寧な字で母の名前が書かれていた。母のではない筆跡で。父が書いたのだろうか? 文庫本を一冊ずつ取り出して確認する。すべて同じように母の名前が記されていた。並べてある順番が変わらないように元どおりにしまってから、一冊だけ文庫本を取り出して読んでみることにした。

 すこしだけ読んでみた小説は恋愛もので、情景描写がきれいだと思った。母は父のどんなところを好きになったのだろう。尋ねてみたい気もしていた。

 突然、玄関の鍵を開ける音がした。誰が来たかは瞬時にわかった。あの男だ。

 わたしは読んでいた文庫本を閉じて、戸棚にしまおうと背伸びをするが、焦っているせいでうまくしまうことができなかった。

 案の定それは男に見つかってしまった。

 母の寝室に入ってきた男は、わたしの後ろから文庫本をひょいと掴んだ。

「何、この古い本」

 パラパラとめくって興味なさそうに本を閉じると、尻ポケットからライターを出し、火をつけた。

「やめて!」

  文庫本全体に広がろうとする炎。わたしは男から文庫本を奪って台所の流し台に行き、蛇口をひねった。水がかけられて白い煙が立ち上る。文庫本は半分以上焼け焦げていた。

 母に見つかってはならない。焼けてしまった文庫本を新聞でくるみ、スーパーのビニール袋につっこんで、口をしばってゴミ箱の中へ入れた。ゴミ箱の中をかき混ぜて、次にゴミ箱を開けた時にわからないように細工した。

 すべて処置を終えると男を憎いと思う気持ちがこみあげてきて、どうしようもなくなって言わずにはいられなかった。

 男は勝手にテレビをつけてバラエティー番組を見ていた。わたしはリモコンでテレビの電源を切って男に向かっていった。

「あれはお母さんの本! すごく大事にしていたのに!」

「へぇー、そうなんだ。だから?」

 男はへらへらと笑っていた。

 

 その時、やっと気持ちが固まった。

 いつでもここから抜け出せたのに、動けなくしてしまっていたのはわたし自身だ。

 このままでたまるものか。

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