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壁の上  作者: 氷月涼
13/18

壁の上*****


 気づくと私はひとりで壁の上に腰掛けていて、一緒に記憶を見たはずの野本さんの姿はなかった。それ自体が本当だったのかどうか。それよりも、そもそもここは何なのか。まったくわからないまま。でも、私のこころだけは確かにここにある。そんな気がしていた。

 時間のないこの空間で、タバコを吹かしながら、ここにあり続けて、光の合図があれば記憶を追う。それを繰り返す。それだけ。

 ほどなくして遠くで光の合図。霧の中で瞬く。光はずいぶん遠い。

 放っておこうか、と思う。けれど、ずっと光の合図は続く。結局、気になって光の方へ歩き出す。

歩き疲れた頃、やっと光に辿り着く。この記憶が素敵なものなら、こんなに気が重くないのに。そう思いながらも足先で光を踏んだ。


 *


 放課後、帰り支度をしていると担任に声をかけられた。私と朝美のふたりだけ。それだけでもう、私には何のことかわかっていた。朝美が言ったのだろう。あんな口止めは何の役にも立たなかった。

 すぐ帰ることができるようにランドセルと手荷物を持って、担任の後をついて小会議室へ向かう。教室で話すと万が一声が漏れてはまずいと判断してのことだろう。

 朝美とは今日、一日中ずっと目を合わせなかった。いつもどおりの行動をするほうがよかったのだろうが、私は朝美の家へ迎えには行かず、始業開始ぎりぎりに登校した。朝美は私よりも遅れてやってきた。朝美が遅刻したのは初めてのことだった。まぶたが腫れていて、いつもの明るい笑顔が消えていた。

 小会議室まで廊下を歩きながら、また同じことの繰り返しだと思っていた。悪いことをしたのは私。悪いことをしたかったのだから、後悔なんてない。きっとこのあと私は、クラスで浮いた存在となって、誰も近寄ってこなくなるのだろう。被害者の親が別の親に、また別の親にと連鎖して広がって、私と遊ぶなと禁止令が下されて、ひとりになるのだろう。いつもと同じこと。慣れていた。

 小会議室に入るのは転校すると決まった時に来た以来、二度目だった。クッション材が入った豪華な回転チェアに座り、隣の椅子に荷物を置いた。朝美は私から少し離れて座った。担任は私と朝美に向き合うように座った。

「どうして呼び出されたかはわかっているね?」と担任の若い男性教師が私の顔を見ながら神妙に切り出した。朝美はうつむいたままだった。

「昨日、朝美さんの保護者から電話がありました。朝美さんはとても傷ついていて食事も喉を通らなかったそうだ。でも、どうしても学校には行くと言って、今日は頑張って来てくれたんだ」

 教師は柔らかなまなざしを朝美に向けた。朝美はうつむいたままで顔を上げる気配はなかった。

「どうしてそんなことをしたの?」

 私の方を見て、強い口調で教師が問いただす。

 裁判の始まり、はじまり。

 原告は朝美。被告人は私。担任が裁判官。弁護人は、いない。弁護する余地もない。

 私が黙っていると担任は私に矢継ぎ早に質問を繰り出し、憶測で決めつけようとして、理由を探り出す。どうしても理由は必要だった。納得したいがために。

「本当は保護者も呼んで話し合いをするつもりだったのだけど、朝美さんがどうしてもそれはやめてほしいと言ったので、今日はお母さんを呼ぶことはしなかったんだよ」

 担任がやさしい口調で恩着せがましくそんなことを言う。だから、ほら、説明しなさいとやさしく迫るように思えてならない。でも、助かった。ママが知れば私は気の済むまで殴られていただろう。私の痣を見た朝美が同情してあえてそうしてくれたのだと思うと、悔しくもあった。

 悪いのは私です。もうしません。担任はその言葉がもらえたら、それでいい、そんなふうに見えて

吐き気がしそうだった。でも、この裁判を終わらせるにはそう言うしかないのだった。

「ぜんぶ私が悪いんです。興味本位でやってしまいました。ごめんなさい。もう二度としません」

 うすっぺらな言葉を一気に吐き出して、私は朝美を見た。やはりうつむいていた。

 担任は席を立ち、朝美のそばへ行き、うつむいている顔を覗き込むように、優しく声をかけた。

「政恵さんもこう言っているし、朝美さん、また政恵さんと仲良くできそうかな?」

 朝美は小さく頷き、顔を上げて私を見た。その顔は優しくほほえんでいた。真っ赤に腫れたまぶたが痛々しかった。

 私は驚くしかなかった。

 仲良くさせようとする教師にも、そこでほほえむ朝美にも。偽善だらけだ。

「朝美さんは天使みたいな子だね。こんな友達を持って、政恵さんは幸せだね」

 一件落着万々歳。そんな顔をした担任。褒められているとくすぐったそうに照れ笑いを浮かべる朝美。そして、置いてけぼりの私。


 その夜、私はママに竹製の定規で叩かれた。結局やられるんだ。親同士の噂話はすぐに伝わる。朝美の自分勝手な同情心が憎らしく思えた。


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