壁の上****
いつものように壁の上に腰掛けてぼんやりとしていた。その日も霧の中に野本さんは現れ、水の中にいるかのように漂っていた。髪を短くしたと大江先生に聞いたのに、ここに現れる彼女の髪は長いまま、風にゆれていた。流れに乗って彼女はこちらへ流されてくるようだった。近づくにつれ、その表情がわかる。焦点の定まらない瞳。何も見ようとしていない。その視界に私は映るのだろうか。
もう少しで手が届きそうになるところまで野本さんが流されてきたので、私は彼女の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
彼女の体は壁に当たったが、何も音はしない。体を引き上げて野本さんを私の隣に座らせた。彼女は驚くほど軽かった。意識がはっきりしないからかぐにゃりと体が横に倒れそうになり、私はあわてて野本さんを支えた。その体に触れた時に、彼女は意識がしっかりと戻ってきたように見えた。驚いた表情で私を見て、何かを言っているように口をパクパクと動かした。
ここには音がない。風もあり、水蒸気もあるのに。それとも私だけに音が届かないのか。
私は大きく首を振り、ほほえんで耳元で手をひらひらさせた。わからないという意味は届くのか。
漂っていた時と違って野本さんはしっかりとした瞳で私を見ている。
私は隣に座る野本さんの存在を感じながら、ポケットからタバコを取り出し、口にくわえてライターで火をつける。煙を吐き出して隣を見ると、野本さんの目から光が消えて、表情は硬くこわばっていた。
ここでタバコを吸うことが習慣になってしまっていて、彼女のやけどのことを忘れていた。あわてて壁の上からタバコを投げ捨てる。
も う だ い じょ う ぶ
野本さんにしっかり顔を向けて、大きく区切って唇で音の形を作る。
眉根に皺を寄せて、硬くなっていた野本さんの表情は、ほんの少しだけ和らいだだけだった。視線を落とし、不安げな様子だった。
野本さんから少し離れた場所が光る。記憶のどこかへ連れていく案内の合図。私は野本さんの両手を取って立ち上がり、ダンスするようにくるっと野本さんを回し、私が先に立って、野本さんの手をつかんで、光った場所へと歩きだした。足先で光る場所をタップすると、光に吸い込まれるようにふたりで落ちていった。
*
夕暮れ空の下、私は朝美とふたり並んで、銭湯から帰るところだった。
私の住むアパートには風呂がなくて、歩いて数分の場所にある銭湯に通っていた。周囲に風呂なしアパートが多いので、夜七時を過ぎると銭湯は賑わっていた。
春になり、六年生に進級してもクラス替えはなく、朝美とは同じクラスのままだった。
銭湯の話を朝美にしたところ、興味が湧いたのか、行ってみたいと目を輝かせた。朝美は家族旅行で温泉には行ったことがあるものの、地元にある銭湯には行ったことがないと言う。
いつもはもっと遅い時間になってから銭湯に行くけれど、遅くなると親が心配すると朝美が言うので銭湯が開いてまもない夕方に行くことになった。
脱衣場で服を脱ぐ時、私は朝美からの視線を意識していた。ママに竹の定規で叩かれた肩や太ももの痣。痣が消える頃にまた新しく痣ができて、ずっと消えることがない。もはや私の一部と化していたそれを、私は恥じることもなく、隠そうともしなかった。銭湯は私の日常だから。
横目でちらっと見た朝美の表情は驚きで凍りついていた。
私は学校では必ず肌着を身につけて痣が目につかないようにしていた。教師に知れるとやっかいなことになるとわかっていたから。
私が朝美の方を向くと、彼女は目をそらして、他の人たちと同じように痣を見て見ぬふりをした。
銭湯に来る人たちはみんな私の痣に気づいている。知ってて知らないふりをして、影で噂話をしている。私がよそ者だから。誰も私に声をかけない。遠巻きに見ているだけ。
浴場に入ると、やたら明るくおしゃべりの勢いを増す朝美が、何かを取り繕おうとしているようで、笑えた。朝美が背中を洗いっこしようと言って、お互いの背中を洗いあったけど、痣のある私の背中を洗う時、朝美はどんな表情をしていたのだろう?
日暮れ前に銭湯に入って、のれんから出てきた時には日が暮れかけていた。少し肌寒くなってもいい時間だけれど、夏のように蒸し暑い。まだ梅雨前だというのに。
「銭湯、ドキドキしたよ~」ほんのり上気した頬をして朝美が言う。
「なんで?」
「だって、みんな、あまり胸とか隠さないんだもん。お母さんが言ってた。温泉ではタオルで前を隠しなさいって。それがルールだって」
「そんなの毎日してられないよ。だって、いっつもなんだよ。それに来る人たちもだいたい同じなんだから、慣れっこだよ」
「そうなんだ。だから政恵ちゃんも隠してなかったんだ」
「まあ、下はさすがに隠すけどね」
「政恵ちゃんて……」そこで言葉を切って、朝美はすこし言い淀んだ。
「胸……おっきいね。スタイルもよくてうらやましいな」
「人より成長が早いんだろうね。生理もあるし。朝美はまだなんでしょ?」
「あたし、幼児体型だからね~」そう言って朝美は笑った。
きっかけは朝美の言葉。朝美がそんな話題を出さなければ、私もそれを思いついたりしなかったかもしれない。けれど、もう遅かった。
「ねえ、朝美は自分のあそこって見たことある?」
「あそこって?」
「股の間のあそこ」
朝美は一瞬わからない表情をしたものの、すぐに理解して、体の前で大きく手を振り、「ない、ないよ、そんなの」と焦って否定した。
「手鏡で見てみたんだけど、変な形だよね。あそこに男の人のものが入るんだから、体って不思議だよ」
「え? ええ? 男の人のものって?」
「わかるでしょ?」
朝美の顔がみるみるうちに真っ赤になった。私は平然と話を続ける。
「大人はさ、気持ちいいんだって、それが」
「誰が言ってたの? 誰から聞いたの、それ」
「ママの彼氏」
「そう、なんだ……。でも、あたしたちにはまだまだ先のことだよね!」
朝美は明るくそう言って話を終わらせようとしているようだった。それ以上、この話題には乗ってくる気配がなかったので、矛先を変えることにした。
「今から、家に来ない? のど渇いたでしょ? ジュースでも飲んでから帰りなよ」
「ありがと。じゃ、ちょっとだけ」
朝美を家に招いたのは初めてだった。長屋のアパートで、部屋は二間しかなく、玄関を入ってすぐにちいさな台所があった。冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出して、景品のグラスに注ぐ。朝美は立ち尽くしたまま、部屋の中をキョロキョロ見回していた。ジュースを手渡すと、朝美はありがとうと受け取って、居間のちゃぶ台に置いて座った。私は立ったままジュースを飲み干し、流しにグラスを置いて居間へ行った。
朝美は見回すのをやめて、立ったままの私を見上げて尋ねた。
「あたしと交換したぬいぐるみはどこ?」
目障りだから捨てたことをすっかり忘れていた。当然のように私は嘘をついた。
「隣の子どもが欲しがるからあげちゃった。ごめんね」
「……そうなんだ。ちょっと残念」がっかりした朝美の顔。
もっと傷つけばいい。その思いが募っていった。
私は朝美のそばに寄り添うように座り、優しい声でごめんねと言って朝美の膝にぽんと手を置いた。
「子どもにあげちゃったんなら仕方ないね。いいよ。あたしは大事にしてるよ、交換したぬいぐるみ」
朝美は笑顔を私に向ける。無理をしているのが明らかな笑顔。
「ありがとう、うれしい」私は嘘の笑顔を朝美に向ける。
朝美のスカートの上から膝に触れた手をすこしずつずらすようにして、スカートの下の太ももに触れる。朝美は驚いて体を後ろにずらし、無言で私を見た。
「自分のあそこって触ったことある?」
大きく首を振る朝美に浮かんだ怯えた表情。私は逃すまいと思った。
「触ってもいい?」
朝美はさらに大きく首を振る。
「じゃあ、殴られたい?」
当然、朝美は首を振る。
「どっちか選んで。どっちにする?」
朝美は殴られるのを嫌った。それがわかっていて、そう仕向けた。
「銭湯で見たでしょ?私の体にあった痣。あれ、ママに殴られた痕。殴られるのなんかしょっちゅうだよ。痛みなんか、すぐ消えるんだよ」
怯えた表情で朝美は大きく首を振る。
「じゃあ、こっちってことで」
私はそう告げて、朝美のスカートは履いたままにして、パンツを脱がせ、まだ毛も生えていない朝美の性器に触れた。
「このことは誰にも言わないでね。ふたりだけの秘密。ちょっと大人の世界を試してみてもいいでしょ?」
朝美は唇をぎゅっと結んで何も言わず耐えていて、快感を感じる気配はなく、中に指を入れると痛がった。我慢の限界がきたのか、絞り出すように、もう、やめてと涙声で言った。
その時、玄関の向こうで足音がして、鍵を取り出す音がした。私がそちらを見た隙に、朝美はパンツをつかんで立ち上がり、玄関から飛び出していった。玄関では鍵を手にしたまま、ママの彼氏が呆然と立ち尽くしていた。




