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元妻 アンドレア

 アンドレアは悲しかった。夫が15歳も年下の少女に愛情を込めた眼差しを送ることが。

 アンドレアは切なかった。夫が息子の婚約者に執着を見せることが。

 アンドレアは空しかった。自分の言動が何ひとつ夫に響いていないことが。

 アンドレアは怒れなかった。自分の心も夫から離れ始めていたから。


 アンドレアは決意した。




「お兄様。わたくし戻ってきてしまいました。みなが言った通りになりましたわね」

 突然の帰省。瞳には涙を溜め、自嘲の笑みを見せるアンドレアに、出迎えた兄も、兄嫁も言葉を失った。


「何があったのだい、アンドレア。君たちはうまくいっているものとばかり」

 ソファに身を沈め、幼いころから親しんだ紅茶の香りで少しばかり気を静めたアンドレアの瞳が強い光を持った。若かりし頃、宝石のようだとも、澄んだ湖のようだとも讃えられ、求婚者が引きも切らなかった涼し気な瞳。対面に腰を下ろしたふたりはその瞳に見入り、ふっくらとした唇からこぼれる言葉を待った。


「夫は、ヴォルツは、少女愛好家だったのですわ!」

 それは、期待通り鈴を転がしたような澄んだ声ではあったものの、ふたりの理解を少しだけ超えた内容だった。

 しかしある意味とてもわかりやすかった。



 そもそも、アンドレアと現デュランダール伯爵であるヴォルツの馴れ初めは、学院でアンドレアがヴォルツに一目ぼれしたところから始まる。

 整った容姿で学院でも一、二を争う人気のあったアンドレアとヴォルツが恋仲になったとき、それは大変な騒ぎになった。一年早く卒業したヴォルツがデュランダール家伝統だと言い張り、目を背けたくなる仮装をし始めたときはそれ以上の騒動ではあったが。


 ヴォルツの祖父の代まではその衣装も似合っていなくもなかったのだ。本業は山賊かと聞きたくなるほどの相貌であったから。その祖父に稀代の美姫が嫁ぎ、また父親の代でも儚げな佳人が嫁いだことで、完全にデュランダール伯爵家は変わった。

 先祖伝来の、軽い鍛錬でも太くなる驚異的な筋肉は、細くしなやかなそれに。雄々しいとしか言いようのない容貌は、婦人好みの端麗さに。その急激な変化は、呪いが解けたがごときと揶揄もされたが、大多数に支持され歓喜された。


 当代当主のヴォルツは幼いころから婦女子に囲まれ、その美貌を持て囃されてきた。彼の父も端正な顔立ちに見合う、貴族として華やかな衣装を身にまとっていた。

 ところがなにを思ったか、尊敬する祖父に習うと言って仮装をし始めた。盛り上がる筋肉のため膨らまさざるを得なかった袖は、細い腕を隠すように更に膨らませ、スラックス越しの引き締まった筋肉を再現しようとした結果、何を思ったか白タイツに。しかも眉が薄いと言って優美な形の眉を太く濃く書き足し、つるりと滑らかですっきりとした頬と顎を隠すヒゲまで張り付けた。

 麗しの貴公子が一転、噂の奇行士である。アンドレアが18歳になったら婚約式を行う予定だったが、総員に反対された。すぐに離縁するのがわかっているような婚姻は止めておけとまで言われた。しかしアンドレアは、「わたくしが矯正してみせます」と一歩も引かず、結局結婚まで至り、早くに子も儲けた。その後は子に恵まれなかったものの、幸せな家庭を築いていると周囲からは認識されていた。


「それは本当なの? 勘違いではなくて?」

「間違いようのない真実ですわ。ヴォルツのアリィスを見つめる情熱的な眼差し、アリィスに語る熱のこもった言葉、隙あらば触れようとする仕草。全て、わたくしにしていたことですもの。わからないはずがありません。しかも、アリィスからジャンリに届いた手紙を愛おしそうに撫でているのを見て、わたくし耐えられなくて…」

「ああ、アンドレア。かわいそうに」

「たしかにアリィスはもう15歳だわ。でも、12歳だった頃のアリィスとそう変わらない。そんなアリィスに恋情を抱くなんて」

「いや、アリィス嬢は12歳とは思えないほど大人びていたからわからないでも」

 沈黙が流れた。どんなに強く口を押えようとも、発した言葉は戻らないことを兄は実感した。

「あなた」

「お兄様?」

 兄は、ぎこちない微笑みで、ヴォルツと話し合いに行くことを自ら申し出た。


 アンドレアはジャンリと離れたくなかった。しかしジャンリはヴォルツにとっても唯一の息子。跡取りを連れて出ることは許されない。わが手で育てたい思いはあれども、夫への嫌悪感を持ったままでは良い影響は与えなかろうと、アンドレアは決断した。夫だけでは不安だが、ジャンリを殊の外かわいがっているアリィスならば、ジャンリを放っておくことはないと信じて。


 アリィスが来るまでは幸せに暮らしていた。領地の産業が思わしくなく、貴族としての体面を保つのが精いっぱいになりつつあったけれども、穏やかに流れる時間は宝物だったとアンドレアは幾度も回想する。それが変わってしまったのはアリィスが来てからだった。アリィスに、ジャンリもヴォルツも奪われた。いいえ違う。アリィスはひたすらにジャンリを可愛がっていただけ。15歳も年下の少女に劣情を抱いた夫が悪いのだ。いくらそう考えても、思い込もうとしても、どうしてもアリィスを憎む気持ちが抑えられず、アンドレアは泣き暮らした。


 離縁の交渉は兄が行った。最初は何とか修復できないかと模索した兄だったが、アリィスの映る記録球を一人眺めるヴォルツに、修復不可能と判断を下した。

 夜更けの応接室、落とされた照明の中で、映し出された映像に話しかけるその姿は、実に空恐ろしいものだったと妻に語ったという。


 離縁が成立して一年が経った頃のことだった。何も手につかず、外に行くこともなく、アンドレアはただぼんやりと過ごしていた。定期的に届くジャンリからの手紙だけが彼女の支えだった。

「サロンを開いてみない?」

 庭に咲く花々を見るとはなしに見ていたアンドレアは、兄嫁から告げられた言葉が理解しがたくて、首を傾げた。


「昔から得意だったでしょう、個性に合ったドレスや小物を見繕ったりするの。わたくしのお友達にも、あなたとお話しがしたいという方が多いのよ」

 気遣われている、アンドレアはそう感じたが首を振った。離縁にかかわる話をしたくないため、自分の友人との茶会にも行っていないのだ。最近の流行にもついていけていないのに無理だと。

「大丈夫、流行に詳しい方とお話しする機会を設けるわ。それに、若い子ならばともかく、わたくしたちの年齢なるとそれほど流行は追わないでしょう?」

 良さそうなお店の目星も付けてあるの、良かったら一緒に行きましょう、と誘う兄嫁に、アンドレアは違和感を覚えた。兄も、兄嫁もこんなに手際が良くなかった。こういう事に長けているのは。

「アリィスね?」


 もっと早くに気付くべきだったとアンドレアは思った。ジャンリを出産した後、季節の変わり目に酷い肌荒れに悩まされたが、アリィスが特別に調合をさせたという化粧品を使い始めてからは昔と変わらない肌に戻った。季節毎に調合を変えるその化粧品を、離縁前と変わらず使い続けられていたのは、アリィスが手配していたからだと。兄からだと思い込んでいた新しいドレスも、気が紛れるようにと楽師を呼んでくれたのも、もしや。

 確認したほとんどの事柄を肯定され、アンドレアの瞳から涙が零れた。今までの自己憐憫の涙ではない。いかに視野が狭くなっていたか、無為に時を過ごしたことか。それを悟った後悔の涙だった。アリィスは全く変わらずアンドレアを慕ってくれていたのだ。



「お義母さま、お久しぶりです」

「わたくしはもうデュランダール伯爵家と縁を切ったわ。義母などと呼ばなくて良いのよ」

「私には家名はあまり重要ではありません。どのような状況になろうと、お義母さまはジャンリのお母さまなのですから、私のお義母さまです」

 そういえば、アンドレアは義母と呼ばれていたが、ヴォルツのことはずっとデュランダール伯爵としか呼んでいなかった。アリィスもなにか思うところがあったのかもしれない。もう少し気を配るべきだったのだと、アンドレアは暢気(のんき)すぎた過去の自分がつくづく嫌になった。


 わだかまりがとけてからは、音楽会に、観劇に、舟遊びに茶会にと外出の機会が増えた。新しいドレスや宝石も、サロンの女主人として相応しいものをと購入した。

 あまりに気前の良いアリィスに、この資金はどこから出ているのかと尋ねたアンドレアは、アリィスの個人資産だと聞いて驚いた。デュランダール伯爵家の威を借り、投資で成功しているのだという。そして、サロンを開くのも投資のひとつだからお義母さま頑張ってくださいねと笑顔で重圧をかけられ、アンドレアは心から慄いた。


 数ヵ月の準備期間をおいて、サロンは開かれた。アリィス自慢の美術品が並び、アンドレアお気に入りの楽師が揃った。ドレスや小物、宝石だけでなく、美容や嗜好品にも造詣の深いアンドレアのサロンは徐々に噂に上るようになった。早くも投資分が回収できる見込みが立ちご機嫌なアリィスに、アンドレアが安堵したのは言うまでもない。


 アリィスがデビュタントとなる夜会には、アンドレアも出席する決意をした。出戻ってから初めての夜会である。元夫にも、元夫の知人にも会いたくなかったからだが、3年が経ち、良い機会だとも思えた。アリィスに張り付こうとする元夫は兄を使って排除し、夜会の美しさに感激するアリィスを独占して、元夫を鼻で笑うアンドレアだった。

 そこでは良い出会いもあった。久々に感じる胸の高鳴りに導かれるまま数度の逢瀬を重ね、遂に求婚されたアンドレアは再び傷つくことが怖くなり逃げた。それでも諦めないその男性は、妻亡き後は独り身を貫くつもりだったがアンドレアに惹かれ、どうしても一緒になりたいのだと熱く語った。しまいにはアリィスまでも巻き込み、再婚と相成った。アンドレアは35歳になっていた。


 年齢的に子は諦めていたものの、37歳で妊娠が発覚し、翌年、アンドレアは無事出産した。こんな幸せがあって良いのかと頬を抓るほどに満ち足りた幸福な日々。しかし、産後間もない赤子を置いての外出は憚られ、ジャンリとアリィスが婚約式をする予定の夜会に出席できないことが大層残念だった。

 そして、事件は起きた。夜会に出席した夫の話を聞き、アンドレアは卒倒した。



 平身低頭といった体でアンドレアの下にアリィスが姿を現したのは、夜会後3ヶ月が経った頃だった。新婚生活、というよりも初めての恋に舞い上がりすぎたアリィスは、ふと気付けば3ヶ月も経っていたことに驚き、アンドレアへの報告ができていないことに青ざめ、慌てて飛んできたのだ。


「ご無沙汰してしまってごめんなさい、お義母さま」

「まず謝るのがそこなのね。あと、もう義母はやめてくれないかしら。アンドレアと呼んでちょうだい」

「そんな、冷たいことをおっしゃらないで」

「あの人と別れてジャンリと婚姻するなら義母で良いわ」

「アンドレア様、それはシャレになりません」

 真顔で答えたアリィスに、アンドレアは苦労を見て取った。自分から離れたアリィスを見てはじめて、ジャンリは遅まきながらアリィスへの恋情に気付いたようだと聞いていたからだ。本当に遅すぎたが。


 アリィスが浮かれていた間、アンドレアは己の言動を顧みて反省していた。ヴォルツばかり責めていたが、未成年のアリィスにジャンリの養育を押し付けていた自分はどうであったか。ただでさえ6歳もの年齢差があるというのに、更に自分が育てねばとの責任感を持っていて、どうして恋心が育ちようか。父親のヴォルツはふたりきりになどさせなかっただろうことも想像がつく。また、まだ幼い息子を置いて家を出た後ろめたさから、ジャンリへはどこか壁を作って接してしまっていた。何度顔を合わせようとも心の中に入れるわけもなく、互いに良い顔しか見せなかった母子。遠慮などせずに、もっと踏み込んで対話をすべきだったのだ。少しでも歪みを正せていれば、今頃はジャンリとアリィスは正式に婚約を交わしていただろう。もっとも、それがアリィスにとっての幸せだったかはわからないが。


「アリィスは今、幸せかしら」

「はい、とても」

 アリィスのはにかんだ笑顔に、アンドレアも心からの笑顔を見せた。義理の娘ではなく、友人となったアリィスを心から祝いたい。些事は都度解決していけばいいのだ。


「結婚おめでとう、アリィス」



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