道標を得ること(1)
王太子:旭堯、寵姫:婉君 という名に変更しましたのでご了承ください。
およそ六年前。
この国の第三王太子が披露目の儀を終え、一年余りが過ぎた頃。
王太子は数え年13、満12歳を迎え数か月が経った時だった。
「若宮、どうされました。」
物思いにふけっていた彼――旭堯は、気づかぬうちに馬具を握りしめていた手をそっと緩めた。
「いや、何、少し考え事をな…。」
ぼんやりとしたまま応えると、手綱を引く側近はもの言いたげな目線を残したまま、作り笑いをした。
「気を引き締めてください。何もないに越したことはないが、当人がその様子では有事に護り切れる自信がありません。」
いただいた名など関係ありませんよ、と呟くように漏らしたその横顔を見ながら、旭堯はどこかやりきれない気持ちを抱えて目を逸らした。
王太子としての披露目を終え、一年余が過ぎた。
それまで名をいただいておらず、ただ若君と呼ばれるに過ぎなかったこの身も、過去に王を務めた者の名を冠するに至った。彼は、天に固く護られいかなる戦場でも傷を負わず、持ち前の才気で国をつくったという。
しかしながら、旭堯は行き場のない気持ちを持て余すだけで、これまでと変わらない日々を送っているに過ぎなかった。生まれた時より仕える側近たちも、いまだに太子と呼ぶ気配はない。
その理由は誰よりも旭堯自身が理解していた。
十年前に披露の儀を終えてより、父王の補佐として手腕を振るってきた長兄と、それには及ばないが補佐としての役割を担う次兄がいては、三人目の替え玉にすぎない太子が何の役に立つだろうか。
旭堯は半ば諦観し、宮時代と変わらぬままに座学と鍛錬を行う生活を続けてきた。それを見かねてか、地理と戦術の老師が父王に旭堯の北方の国境沿いの視察を嘆願したのである。
父王は、一度は渋りはしたものの、実績のない太子を外に派遣するという名目を前に簡単に折れた。くしくも、数か月前に北国で戦があったらしいという報せがあったこともあり、国境沿いを中心に移民が流れてくることが懸念されていた。外を見、かつ北方で領主や周辺貴族、民を激励し、老師とともに地理や戦術の学びを深める機になればと考えたのであろう。旭堯は、戦時下では自分が真っ先に将軍として駆り出され、兵の士気を上げる役目を担うであろうことは自覚していた。父の思惑に沿うことが、旭堯に許された唯一の生き方であるように思われた。
初めは悔しかった。
国を作り護るために生を受けたこの身であるからこそ、そのすべてに力を注いでいこうと決めていた。父王を助け、兄を補佐し、民衆の声に耳を傾け手を差し伸べながら、長く続くこの国の歴史を継いで行こうとしていた。そしてそのために、力をつけようと必死に勉学にも鍛錬にも励んだ。
しかし、現実を見ると、旭堯の居場所はなかった。
兄や父の姿を見、尊敬の念が強まるとともに無力感は増していった。歯がゆく感じたこともあったが、今では国を守る盾の一つにでもなれればよいと思うようになった。そこに誇りを感じて生きてゆけば、いずれは違った道が開けるのかもしれない。
旭堯はうっすらと滲んできた汗をぬぐうために、顔全体に袖を押し付けるようにして拭った。ぎゅっと目を閉じて邪念を追い払う。何度も思案してきたことを、今更悔いることは許されなかった。
この日は、暑さを抜け出そうとするかのような安定しない気候が続く中、久方ぶりに汗ばむほどの陽気となった日であった。
王城を後にして以来、旭堯は、一貴族の子であるかのように振る舞い、とりわけこの日山に分け入ってからは、めったに踏むことのない土の感触を馬の太い脚を通して感じ取ろうとしていた。
春のような陽気。うっすらと色を変え始めた木々の葉。まだ夏の残り香が感じられる茂み。それら全ての呼吸を感じながら、彼は深く息を吸った。うっそうと茂る下草とまばらに生える木立の間から、遙か下のほうに集落が見える。小高い山となったこの場所からは、眼下の集落も、その先の畑も、さらにその先の丘や山々も見渡せる。王太子は肺を満たそうとするかのように、空気を吸い込んだ。
何度か深い呼吸を繰り返していると、その香りが王宮の庭と全く違って複雑な匂いが入り混じっていることがわかる。草木だけでなく芳醇な土の香り、動物、その糞尿、水、様々なものが、何とも言えず懐かしさを漂わせる匂いを発している。
その合間に、ふと、嗅ぎ慣れてはいるもののそう頻繁に嗅ぐわけではない匂いを感じた気がした。
「これは…。」
思わず声に出した時、周囲の側近たちと老師がはっとしたように一瞬、歩みを止めた。先頭を行っていた馬上の老師がやや興奮した馬をなだめながら、前方をじっと見つめている。
「どうした。」
「いえ。少し血の匂いが。こちらでお待ちください。」
教師は馬を降り、慎重に歩を進める。数名の付き人もそれに続く。側近は緊張した面持ちになり、後ろをついてきた従者たちが周囲を固めるように近づいてくる。
王太子はじっと老師の背を見送る。全身の血管が動いているのを感じる。馬具を握りしめた掌、馬の体を挟み込んだ腿、足先、こめかみ、そのすべてから血液の流れが速まったのを感知しながら、体温が上がり、鼓動が速まるのを前進で感じる。
老師とそれに続く者たちの背中が茂みに消えそうになった時、後ろの馬が興奮を抑えきれないように低く嘶いた。そしてその瞬間、何かに突き動かされるように、王太子は馬の腹を蹴った。
「若宮様!」
一瞬気を緩めた側近の手から手綱が抜け、老師の馬の脇を走り抜ける。慌てて追いかけてくる従者たちの手と足元のくぼみに驚いて脚を止めようとした馬の背から、半ば落ちるように飛び降りて、そのまま老師たちの去った方向へと駆けだした。
「お待ちください若宮様!」
悲痛な声とともに腕を掴まれたのと、老師たちが警戒し半ば戸惑ったようにその人物を取り囲んでいるのに追いついたのとは、ほとんど同時だった。
驚いた老師とその周囲の側近たちが振り向いた、その隙間から見えたのは、力尽きたように地に伏した二人の人間と、その傍らで呆然と座り込む少女の姿だった。
一人の側近が、護るように背に隠そうとするその一瞬の間に、ふとこちらに顔を向けた少女と目が合った気がした。
茂みには混じらない、猩猩緋の布。細やかな刺繍が前面に施されているのが遠目にもわかる。本来頭にかぶっているはずの布は肩まで落ち、その長い髪が露わになっている。近隣国では見ない、明るい色味の長い髪。ほっそりとした蒼白の顔より、琥珀色の瞳が強く光を宿した刹那が印象的だった。
その瞳の色を網膜に焼き付けながら、ああ、あの服は本で見た北方の人間のものだ、とぼんやりと考えたところまでは、明確に覚えている。
そして、側近の背に護られたまま、気づけば叫んでいた。
「その女と側近の者を内密に保護しろ。館に連れ帰り、手当てを施すのだ!」
追って駆け付けてきた従者たちに肩を引かれ、囲まれながら、彼は叫ぶのをやめなかった。
「手荒な真似はするな、領主にもその身分を明かさず連れ帰るぞ。至急、王宮に戻る手はずを整えよ。側近の者の手当てが済み次第、帰還する!」
咄嗟に出た言葉であった。しかし、周囲の側近たちは一様に迅速に旭堯の命に従った。ある者は馬をなだめ、ある者たちは警戒しながらもその女と側近たちを保護しに向かった。幸い女は抵抗せず、意識を失っていた一人の側近と、朦朧としているもう一人を抱えて一向は下山した。
この時、旭堯にある一つの明確な意志が宿ったことを、彼自身も、側近たちも強く感じていた。